第12話「並走する記録」
西の草原から吹き抜ける風には、露を含んだ若草の青い灰汁の匂いが混ざっていた。
大樹の洞の前に据えた丸太の上で、ジークが真鍮の測量儀の水平器を覗き込んでいる。水準器のガラス管の中で、油の泡が右へ左へと小刻みに揺れていた。
「中央から西の境界まで、およそ三里。起伏は少ないが、地盤が砂混じりの黒土だ。等高線を拾うだけでも、歩いて測れば十日は潰れる」
「十日もかけられない」
長靴の革紐を結び直し、立ち上がった。
「調査団の滞在は、まず三日の約束だ。外の役人に余計な詮索をされる前に、路線の基礎杭を打つ位置を確定させる」
「歩調を三倍に引き上げる方法があればの話だがね」
ジークは水準器から目を上げ、西の草原を顎で指した。
「ところで、杭は何里先まで打つつもりだ。設計屋としては、終点が決まらないと線が引けない」
「見えるところまでだ」
「欲張りだな」
「草の端から端まで、これくらい」
両腕を左右に広げてみせた。
「このくらいは、森にしたい」
「森の主が、とんでもない広さを要求してきたな」
「主じゃない。苦情係だ」
ジークが喉の奥で笑い、水準器を覗き直した。
「じゃあ、苦情係の腕の長さに合わせて、測量しておこう。三里が六里になっても怒るなよ」
ジークが器具の三脚を畳み、背負い袋へ真鍮の脚を収める。金具が擦れ合ってカチャリと鳴った。
「走らせる」
「誰をさ」
「草原馬だ」
南の境界へ向かう踏み分け道の脇、低木を背にして野営の天幕が張られていた。
調査団の幕舎の前に、紺色の官服を着たエレナが直立している。昨日の革鞄は肩紐を短く詰められ、両手には昨日と同じ厚紙の手挟みと真鍮の万年筆が握られていた。
足音を聞きつけると、彼女の爪先が砂利を踏んでこちらを向く。
「本日の行程に、同行の許可を求めます」
「西の草原だ。平坦だが、歩く距離が長い」
「歩行の訓練は本府の採用時に受けております」
エレナは手挟みを胸の前へ引き寄せ、背筋を崩さない。
「公記録係として、測量の起点から候補路線の終端まで、すべての数値を実見して台帳へ記載する義務があります」
「走るぞ」
「ついてまいります」
返答に淀みはなかった。
背後で、天幕の支柱の陰からノアが姿を現した。
影のように歩み寄ると、こちらの左肘の布地を外側から指で挟み込む。
薄い唇は横に結ばれたままだ。視線はエレナの足元、手入れされた泥のない短靴へと落とされていた。
「馬に乗ったことはあるの」
ノアの低く平坦な問いに、エレナが万年筆の軸を握り直す。
「王都の騎兵学校で、基本の手綱捌きは習得しております」
「森の馬は、手綱で曲がらないわ」
ノアはそれ以上語らず、こちらの外套の襟元を黙って引き寄せた。首の留め金の位置を二分ほど左へずらし、布地の皺を爪先で払う。指先が離れる際、冷たい皮膚がうなじをかすめた。
「イーサン、落とさないで」
「振り落とされるような乗り手なら、途中で置いてくる」
短く返し、西の平地へ向けて歩き出した。
樹林が途切れると、視界のすべてが草の海へと切り替わった。
視界の果てまで続くうねるような緑の波。その中央、風の通り道に、巨大な灰色の影が四つ立っていた。
草原馬だ。
人の背丈の倍近い肩高を持つ長老格の個体が、湿った鼻孔から白い息を鋭く吹き出した。四本の脚はそれぞれ独立した関節を持ち、地面の起伏に合わせて微細に筋肉を伸縮させている。
大股で歩み寄り、立ち止まった。
「長老」
〈来たな、対話者!〉
腹の底を揺さぶるような大声が、草むらの上を吹き抜けた。
〈鉄の棒を敷く場所を探すのだろう! 風切りから聞いたぞ! 測量とやらを手伝ってやってもいい!〉
「頼む。背中に機材と人間を乗せて走ってもらいたい。同じ速度で直進できるか」
〈乗せるのか! ふん、二人までなら荷にもならんぞ!〉
巨躯が前肢を折り、草地へ腹を近づけた。毛並みは冬毛が抜けきっておらず、触れると熱を帯びた獣の脂の匂いが立ちのぼる。
背負い袋から測量儀を取り出し、背骨の脇の平らな鞍部へ革紐で縛り付けた。
振り返ると、エレナが手挟みを両手で抱えたまま、草原馬の巨大な関節を見上げていた。
「乗れ」
「……はい」
彼女の短靴の爪先が、あぶみを探して宙をさまよう。見当たらず、馬の背の分厚い灰色の毛束を両手で強く握りしめた。
膝を押し上げ、彼女の細い腰を片手で支えて背の上へ押し上げる。外套の布越しに、強張った筋肉の硬さが伝わってきた。
自身も跳び上がり、長老の首の根元へ跨がった。
〈後ろの人間、落ちそうか? 落ちるなら言えよ、なあ!〉
「落ちない。走りを均一に保て。合図するまで止まるな」
〈よし、行くぞ!〉
巨躯が立ち上がった瞬間、視界の高さが倍に跳ね上がった。
次の瞬間、足元の草地が後方へ吹き飛んだ。
草原馬の疾走は、普通の軍馬の駆歩とは根本的に異なる。
上下の跳ねがない。四本の脚が地面の起伏を関節の伸縮で吸収し、背の上は水平に保たれたまま、風景だけが猛烈な速さで後ろへ滑り去っていく。
正面から叩きつけてくる風が、外套の襟を激しく打ち鳴らした。
背後で、衣服の擦れる音が激しく鳴った。
エレナが長老の毛並みに両膝を強く押し当てている。左手で真鍮のインク瓶の口を布で押さえ、右手に握った万年筆の先を、手挟みの白紙へ必死に擦りつけていた。
風圧で紙の端がバタバタと暴れる。
彼女は唇を固く噛み、万年筆の金属先を紙の繊維へ深くめり込ませていた。
走る速度、風向き、左右に見える巨岩の目印。
数字の羅列が、震える筆跡で刻まれていく。
インクの飛沫が彼女の白い手首に散ったが、袖口で拭う動作すらせず、ただ前方の地平と手元の羊皮紙の間を視線が往復し続けていた。
一刻ほど走り続け、最初の測量標となる突き出た岩棚の手前で、首筋を叩いた。
「止まれ」
四本の脚が同時に草を削り、長い制動ののちに巨体が静止した。
鼻孔から吹き出た蒸気が、乾いた草の上に白い塊となって漂う。
背から滑り降り、地面を踏んだ。土は硬く、車輪を通すに十分な締まりがある。
背後で、エレナが馬の脇腹から足を滑らせた。
着地の瞬間、膝の力が抜けて草の上へ倒れ込みそうになる。伸ばした左腕で彼女の肩口を受け止めると、紺の制服越しに小刻みな震えが伝わってきた。
肩から手を放すと、彼女は地面に両足で踏みとどまり、乱れた前髪を手首で払った。
「……失礼いたしました」
「手帳を見せろ」
エレナは手挟みを開いて差し出した。
羊皮紙には、中央の起点からこの岩棚までの歩数換算値、地形の傾斜角、土壌の湿度が、整然とした表の形に落とし込まれていた。
筆跡は風で幾分か流れていたが、数字の末位まで一切の乱れがない。
長老が大きな頭部を横に傾げ、巨大な鼻先をエレナの手帳へ近づけた。草の混じった荒い呼気が、紙の端をめくらせる。
〈おい、対話者!〉
「何だ」
〈この人間、走りながらずっと指を動かしていたぞ! 紙の上を引っ掻いて、何をしていたんだ!〉
「見たものを記録していた。お前たちの走った距離と、地面の硬さだ」
長老は大きな耳を前後に動かし、手帳を抱き直すエレナをまじまじと見下ろした。
〈ふん! 俺たちは走りながら考えるがな! 走りながら書くのは、それに似ているぞ! 面白い人間だな、おい!〉
通訳の言葉を待たず、長老の喉鳴りの響きを聞いていたエレナが、顔を上げた。
「……今、何と仰ったのですか」
「走りながら考えることと、走りながら書くことは似ている、と。お前を面白いと言っている」
エレナの指が、手挟みの縁を擦った。
「似ている、ですか」
「草原馬は走ることと思考が分離していない。お前が手帳を離さなかったのを見て、そう判断したらしい」
エレナは手挟みの紙面を見下ろした。
数字の並びの最下段、余白の部分に、小さな文字で数行の文章が書き殴られていた。
『草原馬の長老、依頼を誇りとして受領。速度の提供を、自らの価値の証明と位置付けている』
指先でその一行を示した。
「これは測量の数字ではないな」
「……はい」
「公記録の本文には含めません。私の私的な控えです」
「なぜ書いた」
「数字だけを提出しても、本府の監査官には伝わらないからです」
彼女の眼差しが、真っ直ぐに向いていた。
「なぜ魔物が人間の道具を背負って走るのか。なぜ衝突もせずに境界を越えられるのか。その『理由』が抜け落ちていれば、外の人間はまた力ずくで馬を徴発しようとします。……数字の外にあるものを残さなければ、この記録は半分しか役に立ちません」
足元の草が風に揺れた。
長老が前肢の蹄で地面を叩き、土埃を小さく上げた。
「消すな」
「え?」
「その文章は、報告書に残せ。ベルナルドにもそのまま読ませろ」
エレナの手が止まり、それから、深く一度だけ顎を引いた。
「……承知いたしました」
再び馬の背へ跨がり、西の境界へ向けて手綱を合わせた。
陽が傾き始め、草の海が赤みを帯びていく。
草原馬の蹄が再び大地を打ち鳴らし、風が耳元で激しい唸りを上げ始めた。
背後で、エレナが手挟みの紙を膝で押さえ直した。次の一行を書くために、彼女は顔を上げて地平を見ている。




