第13話「影狼、外を見る」
杭を打ち込む金属の澄んだ音が、木立の幹に跳ね返って短く響いた。
松の木の根元に膝をつき、ジークが測量鎖の端を巻き取っている。真鍮の輪が擦れ合う微小な音が、湿った地面に吸われた。
「この松の幹を基点にして、角度を三度南へ振る。ルウが提供した密林の縁の空き地をなぞる線だ。これで森の外縁まで完全に直線上へ乗る」
ジークが泥のついた炭筆の尻で、手帳の測量図を叩く。
「影狼の縄張りを侵さず、土竜の水脈も跨がない。紙の上では、これ以上ない最適解だ」
「紙の上だけでは済まない。歩いて確かめる」
腰を上げ、外套の裾を払った。
密林の薄暗がりから、灰色の影が音もなく滑り出てくる。
成体に近い太い前肢。四つの爪が黒土を均等に掴み、落ち葉を踏む音すら立てない。ルウだった。右耳の欠けた先端をピクリと動かし、ジークが地面へ打ち込んだ鉄の小杭を見下ろす。
〈杭の位置、境界から三歩外側だ。縄張りへの侵入はない。ゆえに問題ない〉
「案内を頼む、ルウ。森が途切れる場所までだ」
〈案内ではない。境界の確認だ。理由は、外の人間が迷い込めば後始末が増えるからだ〉
ルウは尾の先を一度だけ横に振り、密林の縁に沿って歩き出した。
三歩後ろを、エレナが追ってくる。
紺の官服の裾には昨日の泥が固まって薄茶色の染みを作っていたが、足取りに迷いはなかった。両手で手挟みを胸に抱え、真鍮の万年筆の軸を握りしめている。
背後から、さらに一定の間隔を空けてノアがついてきていた。
灰色の外套のフードを目深に被り、視線は前を行くエレナの背中に注がれている。足音はルウと同じく、枯れ葉をほとんど鳴らさない。
木立の密度が、歩みを進めるごとに薄くなっていった。
頭上を覆っていた太い枝の天蓋が途切れ、木漏れ日の斑模様が広がり、やがて視界の上半分を淡い青空が占めるようになる。
風の通り道が変わった。
腐葉土の発酵した重い匂いが後ろへ引き、代わりに乾いた土埃と、陽を浴びた枯草の乾いた匂いが正面から吹き抜けてくる。
最後の大樹の幹を抜けた場所で、ルウの爪先がぴたりと止まった。
森の外縁だった。
木々が完全に途絶え、緩やかな起伏を持った草原が地平線まで波打っている。遮るもののない風が、下草の穂先を一斉に東へ倒していった。
ルウは前肢を揃え、境界の線の上に立ち尽くしていた。
黒い鼻先を高く掲げ、風の筋を何度も吸い込む。
〈……匂いが、違う〉
低い呟きだった。魔物語の調子が、開けた風に削られてやや散る。
「どう違う」
〈森の中には層がある。樹皮、腐葉土、獣の体液、淀んだ水。すべてが積み重なって厚みを作っている。外は……平らだ。何の遮りもなく、同じ風が同じ匂いを運んでくる〉
「平らな匂いか」
〈悪くはない。ただ、足の裏が落ち着かん〉
ルウは前肢を一本、森の外側の地面へ踏み出した。
草の根がぷつりと音を立てて潰れる。
爪が土を掴む。
止まる。もう一本の足を出す。
後肢を引きつけ、三歩、五歩、十歩。
木陰の外へ完全に身を晒した影狼は、草原の真ん中で歩みを止め、ゆっくりと首を巡らせた。
振り返り、自分が抜け出してきた森を見上げる。
〈……森が、外から見える〉
「見える。ルウ、お前にはどう見える」
〈……小さい〉
喉の奥から、乾いた息が漏れた。
〈どこまでも果てがないと思っていた。朝から晩まで走り回っても、木立の奥が続いていた。だが、外に出て見れば、ただの黒い塊だ。……俺は、ずっとあの中にいたのか〉
「そうだ」
〈……広いな、外は〉
ルウは腰を下ろし、前肢を揃えて草原の地平を眺めやった。背中の灰色の毛並みが、陽光を浴びて白く光を返す。
背後で、紙が擦れる音が立った。
エレナが手挟みを左腕に固定し、万年筆を走らせていた。
文字だけではない。
羊皮紙の余白に、素早い線で輪郭が描かれていく。
境界の草地に腰を下ろした影狼の頑丈な背中。外へ向けて立てられた太い耳。その向こうに広がる地平の起伏と、足元で踏み固められた枯草の束。
インクの線が、背骨の傾きと、わずかに跳ね上がった尾の先端を正確に捉えていた。
スケッチの下に、細い文字が連ねられる。
『影狼ルウ、初めて森の境界線を越える。外の空気を「平ら」と表現。己が棲まう樹海を外より視認し、その小ささに驚きを示す』
カリ、カリ、と金属先が紙を刻む音が、風のざわめきに混ざる。
ルウが耳を後ろへ倒し、首だけで振り返った。
〈あの人間は何をしている。先刻から紙を引っ掻いている音が耳に障る〉
「お前が外に出た瞬間を記録している。見たままを、言葉と絵で書き留めている」
〈俺のことも書いたのか〉
「書いている」
〈……何を書き留めた〉
視線をエレナへ移した。
「エレナ。書いたものを読め。ルウが確認を求めている」
エレナの手が止まった。
視線を紙面から上げ、正面に座る巨躯の狼と目を合わせる。
「……はい」
手挟みを胸の高さへ掲げ、端正な発音で、一行ずつ読み上げ始めた。
「境界の草地で足を止めたこと。匂いが平らだと評したこと。森を振り返り、自らの世界が小さく見えたと呟いたこと。……そして、外の広さを受け入れた時の、姿勢の静けさ」
朗読が途切れた。
風が紙の角をめくらせるパタパタという音だけが残る。
ルウは動かなかった。黄色い眼球を細め、エレナの顔をじっと見据えている。
やがて、喉の奥から硬い打撃音が一つ返った。
〈……その通りだ。俺が感じたことが、そのまま書いてある。事実と一致する〉
「正確か」
〈正確だ。嘘がない。ならば良い記録係だ〉
通訳の言葉を伝えると、エレナは膝の上で手挟みをきつく抱え直した。
手挟みの木枠の端を押さえていた指を、ゆっくりと緩める。
「……ありがとうございます」
〈礼は要らん。事実を書いただけだろう〉
ルウは立ち上がり、乾いた土を前肢で一度だけ蹴った。
〈十分だ。今日はここまでにする。理由は、腹が減ったからだ〉
「戻るぞ」
〈ああ〉
影狼は身を翻し、木立の影へと歩調を戻していった。
森の境界の木陰、大樹の太い幹の脇に、ノアが立っていた。
灰色の外套の襟に両手を差し入れ、一歩も日向へ出ることなく、その場に留まっている。
彼女の眼差しは、エレナの手元の手挟みに落とされていた。
手挟みの上で乾いていく黒いインク。その上に並ぶ文字の列。
エレナが前髪を直しながら歩き出す。その足取りは、先刻草原馬の背に乗っていた時と同じく、地面の起伏を自分の足裏で確かめる人間の歩き方だった。
ノアの指先が、外套の生地の上から、胸元の平らな板を強く押さえつけた。
衣擦れの微かな音が、木陰の奥で小さく鳴る。
彼女の視線は、エレナの歩幅を、呼吸を、紙の上を走るペン先の動きを、一つずつ追っていた。自分とは違う種類の時間を、目に焼きつけようとしているように見えた。
羨むだけの目ではなかった。手帳の厚みを、これから積み上がる量として測っている目だった。
冷たい風が木陰を吹き抜け、ノアの銀髪の端を少し揺らした。
彼女は唇をきつく引き結び、外套の襟を押さえていた右手を、ゆっくりと下ろした。
その指先は、血の気を失って白かった。
ジークが森の出口の地面へ、長さ六寸の鋳鉄の角杭を金槌で打ち込んだ。
カィン、カィン、と澄んだ鉄の音が、樹海と草原の境目に響き渡る。
杭の頭部が地面と同じ高さまで沈み、黒錆止めの油の匂いが土の匂いに混ざり合った。
「東端の基準杭、打設完了だ」
ジークが金槌を腰袋へ戻し、額の汗を手の甲で拭った。
「西の起点杭と合わせて、全線の両端が定まった。次は王都側の官道との接続計算だ」
「戻るぞ。風が冷たくなってきた」
手招きし、木立の中へ足を向けた。
エレナが手挟みを革鞄へ丁寧に収め、小走りで追いついてくる。
ノアは何も言わず、二歩後ろへ滑り込んだ。エレナとの間に、自分の身体を挟むような位置だった。
歩幅は、朝よりもほんの少しだけ、こちらに寄っていた。
三人分の足音が、木立の暗がりへ吸い込まれていく。
振り返ると、境界杭の頭が、夕日の最後の光を一点だけ返していた。




