第14話「帰り道を探す旅人」
二日後の夕暮れ、東端の基準杭の沈み具合を確かめに、森の縁へ出た。ノアが、半歩後ろをついてきていた。
杭の前に、先客がいた。
街道を一人で歩いてきたらしい男が、膝を折って、鉄の頭を掌でなぞっている。薄茶の外套に、擦り切れた革の背負い袋。年は四十を過ぎたあたりに見えた。
背後で、枯れ葉が鳴った。
ノアが、横をすり抜けていった。
外から境界へ近づく人間は、理由も聞かずに追い払う。今まで例外はない。灰色の外套の裾が翻り、腰の小刀の柄に白い指が掛かる。
男が顔を上げた。
両手を胸の高さに上げて見せる。武器はなかった。敵意も、怯えもない。ただ鼻先を風上へ向け、深く息を吸った。
ノアの足が止まった。
五歩の距離で、二人は向かい合った。男は何も言わず、ノアも何も言わない。冬の沼のような静けさが、数えるほどの間、続いた。
やがてノアは、柄から指を離した。
「……火を借りるだけよ。夜明けには出て行って」
「ありがとう。そのつもりだ」
男の声は穏やかだった。ノアは男の顔から目を外し、先に木立へ戻っていった。
「これは、何の印だ」
ヨナが杭の頭を指で叩いた。
「線を引くための目印だ」
「線か。人は、地面に線を引くのが好きだね」
どこか懐かしむような口ぶりだった。
名乗りもしない旅人を前に、刃を抜かずに退く。そんなノアは、記憶にない。
男は「ヨナ」と名乗った。
洞の前の平地で焚き火を囲み、煮汁の椀を渡す。ヨナは両手で受け取り、湯気に顔を寄せて目を細めた。
ジークは丸太に腰を下ろし、閉じたままの手帳を膝に置いて、男を眺めている。エレナは手挟みを開き、万年筆の先を紙に当てた。
頭上の枝で、風切りが短く鳴いた。
〈人間が増えた〉
ヨナの目が、鳴き声より先に枝のほうへ動いた。
人間の耳には、ただの鳥の声に聞こえるはずだった。
「お名前と、ご職業を伺ってもよろしいでしょうか。記録官の務めですので」
「ヨナ。職業は、今は旅人だ」
エレナは律儀にそう書き留め、顔を上げた。
「旅の目的は」
「探し物でね。……人じゃない。群れを探している」
「群れ、ですか」
「仲間の群れだ。私は、人の中で長く暮らしすぎた」
ヨナは椀を膝に置いた。
「薬屋の手伝い、橋の番、荷馬車の御者。六十年と少しになる」
「六十年?」
ジークの眉が上がった。
「君、どう見ても四十そこそこだが」
「そう見える形を選んだからね」
焚き火が爆ぜた。誰も笑わなかった。
「見ていてくれ」
ヨナが右手を差し出し、掌を上に向けた。
その輪郭が、ほどけた。
骨ばった指が縮み、爪の形が変わり、節が少し太くなる。手の甲に走る細かな傷と、爪の間に残った泥の色までが、揃っていく。
見慣れた手が、そこにあった。
自分の右手を、膝の上で握り直した。同じ形をした別の手が、焚き火の向こうで、同じように指を折る。
「……君の手だ。借りた」
エレナの万年筆が止まった。ジークが小さく息を呑む。
ヨナの手は、瞬きの間に元の形へ戻った。
「擬態種、と呼ぶ人間もいるらしい。ドッペルゲンガーと。ごく一部の学者を除いて、人間は私たちを知らない。知らないまま、隣に座っている。薬屋の主人も、橋の番も、案外そうかもしれないよ」
「そんな魔物がいるなんて、聞いたことがありません」
エレナの声が掠れた。
「だろうね。見つからないよう、そう暮らしてきた」
ノアは焚き火から一歩離れた暗がりに立っていた。腕を組み、外套の襟を押さえている。火の明かりが届かず、表情は見えなかった。
ジークが顎に手を当てた。
「写せるのは見た目だけか。骨格まで寸法が合うのか」
「見たものは、骨の寸法まで写せる。写した相手が死んでも、形は残る」
ヨナは自分の顔を、指で軽く叩いた。
「今のこの顔も、もうどこにもいない男のものだ」
ジークは短く唸り、手帳を開きかけて、また閉じた。
「……仲間同士は、どうやって見分ける」
「匂いだ。形は変えられても、匂いだけは変えられない」
ヨナは焚き火に目を落とした。
「ただ、厄介なことがある。形を写すと、中身まで引っ張られるんだ。人の形を取れば、人のように考えはじめる。人は、群れを離れて独りで生きる生き物だからね。気づくと私も、群れを出ていた。一度も帰らないまま、何十年も」
「戻ればいいだろう」
「戻り方を忘れた。……それに」
ヨナは笑った。
「人の中で暮らすのも、悪くなかった。だから迷う。最近になって、急に群れの匂いが恋しくなった。年を取らない身には、見送る数ばかりが増えていくからね」
誰も、すぐには何も言わなかった。
ノアの分に取り分けた椀が、焚き火の脇で冷めきっていた。口をつけた形跡はない。
外套が、小さく擦れる音を立てた。
ヨナがこちらを見た。
「この森には、魔物の言葉を話す人間がいると聞いた。魔物の群れの近くなら、仲間の気配が残っているかもしれないと思ってね。心当たりは?」
「ない」
正直に答えた。
「そうか。……いや、無理を言った」
ヨナは残りの煮汁を飲み干し、礼を言って、焚き火の脇で外套に包まった。
夜が深くなっても、ノアは暗がりから動かなかった。
やがて洞へ戻る背中を追い、入口の布の前で声を掛けようとして、やめた。
彼女の指が、外套の襟を握ったまま、白く強張っている。
聞けば、答えるだろう。そういう気がした。だが、聞いたら、何かが変わる。それが何かは、分からなかった。
分からないまま、口を閉じた。いつからか、そういう癖がついていた。
朝霧が、森の縁に溜まっていた。
ヨナは背負い袋を肩に掛け、街道へ向かう小道に立っていた。見送りに出たのは、こちらとノアだけだった。ジークとエレナは、まだ洞で眠っている。
「世話になった。煮汁が、うまかった」
「また来るなら、火は貸す」
「覚えておくよ」
歩き出したヨナは、すれ違いざまに足を止めた。
ノアの前だった。
男は何も言わず、ノアの顔をじっと見ていた。昨夜、境界で見せたのと同じ、鼻先を風上へ向ける仕草が、一瞬だけあった。
「……良ければ、君も」
言いかけて、唇が止まった。
ノアの肩が、微かに動いた。
ヨナは目を伏せ、小さく首を振った。
「いや。なんでもない。忘れてくれ」
背を向け、霧の中を歩き去っていく。薄茶の外套が小さくなり、やがて白に溶けた。
ノアは動かなかった。男の消えた先を、長いこと見ていた。
「……知り合いか」
「いいえ。初めて会った人よ」
平坦な声だった。嘘とも本当とも、聞き分けられなかった。
「ただ」
ノアが外套の襟を、もう一度押さえた。
「……いい匂いの人だったわ。それだけ」
それ以上は、聞かなかった。
街道へ続く小道の上に、霧が戻ってくる。
ノアは日が高くなるまで、そこから動かなかった。




