第15話「ジークの焦りと密約」
作業台の上の羊皮紙に、数字の列が黒々と並んでいた。
ジークが炭筆を走らせるたび、木肌を擦る硬い摩擦音が洞の奥へ反響する。計算尺の真鍮の目盛りが、行燈の油煙に照らされて鈍く黄ばんでいた。
「西の起点から街道の合流点まで、枕木の必要数は四千本。道床に敷く砕石が荷車で八百台分。レールの鋳鉄に至っては、王都の工房が半年かけて吐き出す銑鉄の全量に匹敵する」
ジークは炭筆の先で紙面を突いた。
「森の郵便網で上がる通行料の蓄えを全部注ぎ込んでも、最初の一里を敷設する資材すら買えない。五年の歳月をかけて木の実と薬草を干して売り続けるかい? その間にバルトの同類が何度火を放ちに来るか、計算するまでもないだろう」
「数字は分かった」
壁の鹿革の地図から目を離さずに応じる。
「だが、手元にある石と木で始めるしかない。無理に速度を上げれば、どこかで梁が折れる」
「梁が折れる前に、柱の根元が腐るのさ」
ジークは計算尺を机に放り出した。鋭い音が石壁に跳ね返る。
外の樹冠から、風切りの鋭い羽音が落ちてきた。
中継杭の横に降り立った若鳥が、嘴に挟んでいた筒状の封書を、作業台の端へ無造作に落とす。
〈南の関所から飛脚が持ってきたぞ。青と金の封蝋だ。王都の紋章が入っている〉
封筒を取り上げた。
厚手の漉き紙の表面に、商業調査局の天秤章ではない、別の印が押されていた。
冠を戴く獅子と、交差する二本の天秤棒。王都本府、商業省本省の公印。
親指の爪を封蝋の縁に差し入れ、硬い蝋を剥ぎ取る。甘い樹脂の匂いが薄く散った。
中から現れたのは、整然とした筆跡で記された一枚の公文書だった。
斜め後ろから覗き込んだノアの指が、外套の肩口を強く引き絞った。布地が擦れ、衣擦れの音が耳元で鳴る。
「……何が書いてあるの」
「魔の森における物流実証実験への、王国商業省としての公式関与の申し入れ書だ」
書面の文言を、一行ずつ指で追った。
「本府は鉄道敷設に必要な資材および鉄材の調達資金を第一期分として全額拠出する。対価として、敷設路線の管理権の一部を本省へ委託し、運行の優先順位について協議の場を設ける……」
指が止まった。
末尾の日付は、二十日前。
宛名の脇に、受領を承諾した代理人としての署名が、見覚えのある筆跡で刻まれていた。
視線を公文書から外し、机の向こうの男へ据えた。
ジークは椅子から立ち上がろうとせず、膝の上に置いた両手の指先を組んでいた。
「知っていたのか」
一秒の間があった。
洞の天井から、水滴が一つ落ち、石の床で小さく弾けた。
「……知っている」
ジークの声から、いつもの軽薄な抑揚が完全に抜け落ちていた。
「いつからだ」
「三週間前だ。ベルナルドの調査団が来るより前に、商業省の担当者と関所の宿場で接触していた」
「なぜ言わなかった」
ノアの声だった。
低く、抑え込まれた平坦な響き。感情の熱を持たないその音が、洞の空気を凍りつかせる。
ジークは組んだ指を解かず、作業台の木目を凝視した。
「相談すれば、止められると思ったからだ」
腹の底で、何かが静かに冷えた。
「森に人を入れる話だぞ」
自分でも意外なほど、声は低かった。
「ここに住んでいる連中の誰にも聞かず、外の人間を中へ通す約束を、先に交わしたのか。苦情を聞くのが俺の仕事だ。お前は、その苦情を出す側の連中を、一人も数えなかった」
ジークの肩が、わずかに下がった。
椅子が床を擦る高い軋み音が一つ鳴った。
ノアが作業台を回り込み、ジークの眼前へ歩み寄る。
外套の裾は揺れず、踏み出した足音も立たない。
「出て行って」
「ノア、聞いてくれ」
ジークが初めて顔を上げた。
「資金がなければ、この線路は百年経っても動かないんだ。相手の担当者はハンス・クレベルという男だ。省内で外部との通商を推進している実務派で、森の自治権を完全に奪う気はないと言っている。席を一つ渡すだけで、鉄と石が手に入る。これが最短の図面だった」
「席を渡せば、次は椅子の数を増やしに来るわ」
ノアはジークの眼前半歩で立ち止まった。
右手が外套の内側へ滑り込み、収容札の冷たい板の角を衣越しに押さえている。
「外の人間はそうやって入ってくるのよ。頼まれもしないのに手を伸ばし、管理の網を被せて、最後は言葉ごと奪い去る。……貴方は、それを知っていた。知っていて、私たちが反対すると確信していたから、黙って署名を交わした」
「俺は、線路を動かしたかったんだ!」
ジークが拳を握り直し、膝の上で震わせた。
「郵便網が通った時、森が変わる足音が聞こえただろう! このまま手元にある木切れだけでちまちまやっていれば、いつか外の軍隊に焼き払われて全部灰になる! その前に、外の金を使ってでも既成事実を作るのが俺の役目だと思ったんだ!」
「貴方の役目ではないわ」
ノアの声は、火の消えた灰のように乾いていた。
「貴方は、私たちを計算に入れて裏切った。反対する私を排除し、イーサンが事後承諾せざるを得ない盤面を作った。……今すぐここから出て行って。二度と、その足をこの洞に入れるな」
ジークの唇が何かを紡ごうと動いたが、声は出なかった。
男の視線が、作業台の前に立ったまま動かないこちらの顔へ向く。
公文書の端を指で挟んだまま、視線を返した。
「……ジーク。今夜は森の縁へ行け」
ジークの喉仏が一度だけ上下した。
「イーサン、俺は」
「荷物を持って、外へ出ろ」
そう告げると、ジークはそれ以上何も言わなかった。
椅子から立ち上がり、手帳と計算尺を革袋へ押し込む。作業台の上に置かれていた炭筆を一本だけ拾い上げ、外套の胸ポケットへ差し込んだ。
足音を響かせながら、男が洞の入り口へ向かう。
吊り布を押し上げる際、革の外套が擦れる重い音がした。
布が下り、外の冷たい風の通り道が塞がれる。
洞の中に残ったのは、行燈の芯が油を吸う微かな爆ぜる音だけだった。
作業台の上の公文書を、平らにならした。
「追放するべきよ」
ノアが背後に立ち、肩越しに低く続けた。
「あの男は、自分の図面のためなら何でも売り払うわ。三年前の測量メモと同じよ。喉元が温まれば、また外の人間と手をつなぐ」
「ジークを放り出しても、この紙は消えない」
書面の末尾、クレベルの名が記された公印を指で叩いた。
「返答の期日は十日後だ。十日の間に、この紙への対応を決めなければならない。ジークを森の外へ捨てれば、あいつは王都へ戻ってクレベルの膝元に転がり込むだけだ。そうなれば、森の構造を知る人間が完全に敵の手に渡る」
背中越しに、ノアが息を詰める気配がした。
「貴方は、あの男を許す気なの」
「許してはいない。だが、感情で首を切っても、明日の防衛線は引けない」
公文書を二つに折り、石の棚の奥へ押し込んだ。
石の棚の奥で、折り畳んだ公文書の角が、行燈の火にちらりと光った。
返答の期日まで、あと十日。それまでに、森が答えを出さなければならない。




