第16話「取り上げられた地図」
夜明けの風が、大樹の幹を濡らしていた。
洞の出口にかかる麻布を押し上げると、湿った冷気が鼻孔の奥を鋭く刺す。西の空にはまだ沈みきらない淡い月が残り、東の樹冠の隙間から、薄青い朝の光が地面の落ち葉へ斑に落ちていた。
足元の泥炭地を踏み分ける。
長靴の底に付着した泥が、歩みを進めるたび小石を噛んで、じゃり、と音を立てた。向かう先は東の密林、ルウが縄張りの境目として管理している古い松の木立だ。
灌木を抜けた平地、露に濡れた一本の倒木に、人影が腰を下ろしていた。
革の外套の肩口には白い霜が降り、両膝の上に置かれた指先が紫色に強張っている。ジークだった。焚き火を熾した形跡はなく、地面には踏み荒らされた霜の跡だけが散乱していた。
そのすぐ隣、半歩も離れていない濡れた落ち葉の上に、灰色の巨躯が伏せていた。
ルウだ。前肢の太い鉤爪を土に揃え、顎を引いてジークの横顔を見下ろしている。
足音に気付いた影狼の耳が、後ろへ素早く倒れた。
〈来たな、対話者〉
低く締まった声が、足元の土を震わせる。
「ルウ。一晩中そこにいたのか」
〈いた。理由は単純だ。この人間が境界の外へ出ようとしたからだ〉
ルウは前肢をやや動かし、ジークの靴の先を爪で示した。
〈外へ逃がすわけにはいかん。森の側に立った者が、勝手に縄張りの外の連中と約束を交わしたのだ。始末をつける前に消えられては困る〉
倒木の上で、ジークがゆっくりと首を巡らせた。
目の下に濃い隈が張り付き、唇の皮が乾燥して白く裂けている。
「……叱られていたよ」
掠れた声だった。膝の上に置いた両手を擦り合わせようとして、指の関節が軋んで途中で止まる。
「一晩中、隣に座り込まれてね。耳元でずっと唸られていた。言葉は一つも分からないが、叱られているのは分かった」
「ルウ。何を話した」
〈掟ではない。道理だ〉
ルウが立ち上がり、乾いた鼻息を地面の落ち葉へ吹きつけた。
〈影狼の群れでは、獲物の数も、狩場の荒れも、すべて群れ全体で共有する。一頭だけで抱え込むのは強さではない。群れに対する不義理だ。……そう教えた〉
ルウの言葉を、そのままジークに訳して渡した。男は顔をしかめて、苦笑いを浮かべる。
「……耳が痛いな。意味が分かっても、分からなくても」
ジークは外套の襟を固く引き合わせ、顎を引いた。
「毛並みだけは温かかったがね。凍え死なずに済んだのは、この監視役のおかげだ」
「戻るぞ。洞へ入れ」
告げると、ジークはよろめきながら立ち上がった。冷え切った膝の関節が衣服の下で小さく鳴る。
ルウは追ってこなかった。倒木の脇に前肢を揃え、森の奥へ向けて一度だけ尾を振ると、するりと密林の暗がりへと姿を消した。
大樹の洞へ足を踏み入れると、作業台の上の行燈から細い油煙が立ち上っていた。
ノアが作業台の正面に直立していた。
灰色の外套の留め金をきっちりと首元で締め、両手を作業台の木目の上に置いている。
台の上には、使い込まれた一枚の薄い布が広げられていた。
ノアがある場所から逃げ延びる過程で、幾年もかけて書き溜めた外の世界の地図。王都へ通じる裏道、調査局の管轄を外れた山裾の獣道、人目のない湿原の渡し場。細い線が、擦り切れた布の目に沿ってびっしりと書き込まれている。
ジークが引いた路線の第一案と第二案は、この布の上に引かれた抜け道を土台にして設計されていた。
洞に入ってきたジークの足音が、敷き藁の上で止まる。
ノアはジークを一瞥もしなかった。
薄い布の両端を、人差し指と親指でつまみ上げる。
布地が作業台を擦り、サラサラと音を立てた。
端と端を合わせ、二つに折る。折り目の角を指先で強く押さえ、四つに畳む。角の白く擦り切れた部分が、彼女の掌の中に四角く収まっていく。
「……ノア」
ジークが掠れた声を漏らした。手帳を提げていた指先が、外套の脇で小さく固まる。
ノアは畳み終えた布の塊を、外套の内側へ滑り込ませた。
外套の内側、布地の下へ完全に隠す。
「あの道の分は、返してもらうわ」
低く、感情の乗らない音だった。
ジークの頬から、朝の冷気とは違う色で血の気が引いていく。
「待ってくれ。あの抜け道がなければ、路線は王都の公道へ出るしかない。そうなれば調査局の関所を避けて敷設することは不可能になる」
「避ける必要など、もうないでしょう」
ノアの銀の視線が、ジークの胸元を射抜いた。
「貴方は商業省と手を結んだ。席を一つ渡したのでしょう。なら、その公認の道を使えばいいわ。堂々と、王国の兵士に見守られながら線路を敷けばいい。……私の逃げてきた道を踏む資格は、貴方にはないわ」
「……俺は」
「二日、私に話しかけないで」
ノアは横を通り抜け、洞の奥へ向かった。
吊り布が持ち上がり、落ちる。
重い静けさだけが、平らな作業台の上に残された。
追いかけて、呼び止めようとした。
だが口を開いた途端、喉の奥で言葉が絡まった。子供の頃から、ノアが本気で怒ると、まず舌が動かなくなる。二十三になっても、その癖だけは抜けていない。
あの布には、ジークの図面の土台だけでなく、外へ通じるすべての抜け道が書かれている。それを懐に隠したのは、ジークへの怒りのせいだけではない。
俺が、その道を伝って出て行かないように。
……出て行く気など、ないのに。
閉まった吊り布を、しばらく見つめていた。
石の作業台の上には、鹿革の地図だけが広げられていた。
森の内側、中央の大樹から四方へ伸びる獣道と、魔物たちの縄張りの境界線。
だが、その外側の広大な空間は、革の縁で断ち切られている。
ジークは作業台の端の丸太に腰を下ろし、革袋から羊皮紙を一枚取り出した。炭筆を握る。
ペン先が、紙面の上で浮いたまま止まった。
起点の小杭から外へ伸びるはずの線が、森の輪郭線を越えた途端、進むべき方向を失っていた。
公道を通せば、クレベルの部局だけでなく、軍閥の徴税所が三箇所ある。そこを通れば、線路の敷設権は即座に接収される。かといって、調査局の管轄を外れる安全な迂回路の地形データは、ノアの布の地図の中にしかなかった。
ジークの記憶にある大雑把な方位だけでは、地盤の硬度も、季節による川の増水域も割り出せない。
炭筆の先が、羊皮紙の端をかすかに叩く。
カチ、カチ、と鳴るだけで、黒い線は一本も引かれなかった。
「……数字が、組めない」
一日目の夕刻、ジークが机に額を落として呟いた。
「外の支柱がないんだ。梁の長さも、受ける荷重の逃がし場所も、全部あの布の道が起点になっていた。……俺の手元にある数字だけじゃ、空中へ向けて橋を架けるようなものだ」
作業台の向こう側で、明日の郵便網の運行記録を革紐で束ねながら、視線を向けた。
「それが、お前が省いたものの重さだ」
「……分かっているさ」
ジークは両手で顔を覆い、指の隙間から荒い息を吐き出した。
「分かっているんだよ。だが、俺は……俺の頭の中にある図面が、一番早く走る道だと思い込んでいた。ノアが何を抱えてあの地図を残したのか、その理由を一行も計算に入れずに、ただの便利な測量データとして消費しようとした。……欠陥住宅どころじゃない。地盤の調査を怠ったまま、土台を打ち込もうとしたんだ」
男の背中が、薄暗い洞の中で小さく丸まっていた。
声をかけることはしなかった。
棚から乾いたパンを一つ取り、作業台の角へ置く。それだけをして、洞の外へ出た。
二日目の朝も、森の空気は冷え切っていた。
南の境界の平地では、エレナが調査団の幕舎の前に机を出し、先日草原馬と並走して記録した台帳を清書していた。
真鍮の万年筆が規則正しく紙を引っ掻く音が、砂利道に小さく響く。
通りかかると、彼女は万年筆を置き、立ち上がって頭を下げた。
「おはようございます、イーサンさん」
「作業は順調か」
「はい。先日の草原馬の走行記録、数値の整合性を確認しております。……あの、ジークさんのお姿を今朝はお見かけしませんが」
「中で別の計算をしている」
「そうですか」
エレナは手挟みの紙束を揃え、整然とした文字の列を見つめた。
「ベルナルド様にも、先日の記録の写しをお見せいたしました。『魔物が自発的に荷を負うなど前例がないが、この数値の規則正しさは捏造できるものではない』と仰っておりました」
「そうか」
「……数字の裏にある理由、少しずつですが、本府の人間にも届き始めている気がします」
彼女の眼差しは澄んでいた。
その真面目な観察眼が、いま外の世界とこの森を繋ぐ唯一の細い糸になっている。
頷きを一つ返し、大樹の洞へ引き返した。
二日目の夜が更けても、ジークは作業台の前に座り続けていた。
足元の床には、丸められた羊皮紙の破片がいくつも転がっている。
手元の白紙には、消し炭で擦られた跡と、途中で途切れた不完全な直線の残骸が散らばっていた。
一本の線も、森の外へ届いていない。
ジークの右手は炭筆を握ったまま、机の木目に押し付けられて動かなかった。
己が踏み越えた境界の深さと、失った信頼の代償を、男は紙の上で、指先の麻痺として受け止め続けていた。
洞の奥から、ノアが足音を立てず現れた。
彼女はジークの背中を見ようともせず、作業台の隅に置かれた水瓶から、一杯の水を木椀に汲んだ。
ジークが顔を上げた。
その唇がかすかに動いたが、言葉にはならなかった。
ノアは椀の水を静かに飲み干すと、木器を台へ戻した。
コン、と硬い音が、静まり返った岩肌に小さく反響した。
彼女はそのまま踵を返し、奥の暗がりへと消えていった。
ジークは、空になった椀の底を見つめていた。
やがて炭筆を握り直し、白紙の左上に、一本だけ線を引いた。森の外へは、まだ届かない短い線だった。




