↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/26

第17話「三割の前払い辞退」


 三日目の夜明け前、石の壁に掛けた油皿の火が小さく爆ぜた。

 芯の周りに溜まった獣脂が尽きかけ、煤の臭いが洞の天井へ薄く漂っている。

 作業台の前に座り込んでいたジークが、手元の羽ペンを置いた。ペンの軸が机の木目を転がり、縁で止まる。

 男の指先は黒いインクで汚れていた。人差し指の腹にはペン先を握り続けた深い窪みが残り、赤黒く窪んでいる。

 机の上には、真新しい羊皮紙が一枚、平らに置かれていた。

 インクはまだ完全に乾いておらず、湿った黒光りを放っている。

 ジークは両手で顔を覆い、指の隙間からこめかみを強く擦った。無精髭の伸びた顎を突き出し、背もたれのない丸太の上で軋むように背筋を伸ばす。

「……できた」

 掠れた声が、洞の床に落ちた。

 奥の筵が持ち上がり、ノアが現れた。

 灰色の外套を羽織り、首元の留め金は外したままだ。足音を立てずに歩み寄り、作業台の反対側、ジークの正面に立った。

 視線は男の顔を通らず、机の上の羊皮紙へ直角に落ちている。

 ジークは紙の端をつまみ、ノアの前へ滑らせた。

「読んでくれ」

 紙の表面に並ぶ文字は、いつもの走り書きではない。字画の角が几帳面に揃えられた、王国公文書の書式に則った筆跡だった。

 宛名は、商業省外部通商部首席書記官、ハンス・クレベル。

『先般取り交わした覚書のうち、第七項に定める「路線運行の優先順位に関する本省との協議」の約定を、本状をもって無効とする。これに伴い、第一期資金として提示された測量助成金の前払い分、総額の三割に相当する金員を全額辞退する』

 末尾には、すでにジークの署名と個人の爪印が黒々と捺されていた。

 ノアの指先が紙の縁に触れた。

 爪の先で紙面をなぞり、一行ずつ確認していく。

「……三割を辞退すれば、手元の鉄材は買えないわよ」

 平坦な声だった。

「測量の進捗は止まる。外の職人を雇う金も、境界杭を鋳造する費用も不足する。全部、自前で調達し直すことになるわ」

「分かっている」

 ジークは膝の上に両手を置いた。

「不足分は、俺が森の外の定期便の段取りで稼ぐ。不足した資材は木で代用して、荷重の計算を一からやり直す。……五年かかるなら、五年かけて図面を引くさ」

「王都のクレベルは、この書状をただの不服従と受け取るかもしれないわ。席を取り上げられた役人は、別の手を使って入ってくる」

「その時は、別の防壁を組むだけだ」

 ジークは目を逸らさなかった。

「出す前に、二人に見せる。……これが、今度から俺が引くすべての図面の条件だ」

 ノアは書面から指を離した。

 外套の内側へ右手を差し入れる。

 取り出されたのは、四つに折り畳まれた薄い布の塊だった。

 ノアが幾年もかけて外の世界を歩き、逃げ延びる過程で書き溜めた地図。折り目の角が白く擦り切れたその布を、作業台の中央、羊皮紙のすぐ隣へ無言で置いた。

 サラリ、と繊維の擦れる音が机の上に広がる。

 ノアの目が、一度だけこちらへ流れた。

「……一晩、一人で考えたの」

 誰に向けた言葉かは、言わなかった。

「これは、私が逃げるために歩いた道。でも、逃げ道を握りしめていても、何も守れなかった。貴方が望むのが、出て行くことではなく、広げることなら」

 布の端を、指で整える。

「広げる時は、私の道を使いなさい。隠しておく理由は、もうないわ」

 返す言葉を探して、結局、頷くことしかできなかった。

「条件を足すわ」

 ノアの声は、以前の拒絶の色を含んでいなかった。ただ、硬い石のように事実だけを置く。

「外へ出す書簡は、書いたその日に写しを三人に回すこと。毎日になるかもしれないわよ」

「毎日回す」

「約束を違えたら、その日のうちに貴方を穴に埋める。……土竜の手を借りるまでもなく、私が一人で」

「引き受けた」

 ジークが短く応じた。

 机の上の布の地図へ、男の手が伸びた。

 乱暴に掴むのではない。指先で布の端をそっと持ち上げ、作業台の石の凹凸に合わせてゆっくりと広げていく。

 王都へ至る裏道、調査局の管轄外にある湿地帯の抜け道、人目のない尾根筋。

 細いインクの線が、再び薄暗い洞の中で呼吸を始めた。

 ジークは計算尺を引き寄せ、布の上の山裾へ真鍮の縁を当てた。

「……第一案の勾配を五度緩める。尾根の硬い岩盤を避けて、ノアの通った沢沿いの獣道へ線を落とす。これなら資材の運搬重量を二割削れる」

 炭筆の先が布の上を走る。

 紙とは違う柔らかい感触に筆先が沈み、乾いた繊維へ黒い粉が吸い込まれていく。

「第二案はどうする」

 棚から鹿革の地図を取り出し、作業台の端へ並べた。

「第二案は残す」

 ジークは顔を上げずに答えた。

「クレベルがこの書状を受け取れば、必ず抜け穴を探しに来る。公道に近い第二案を警戒の囮にして、本命の資材はこの布の道から密かに運び込む。……表と裏の二本立てだ」

「資材の運び手は」

「草原馬に頼む。あの脚力なら、荷車の牽引も引き受けてくれるはずだ」

 ノアが作業台の角に寄りかかり、腕を組んだ。

「草原馬は長話が好きよ。頼むなら、半日は草むらに付き合う覚悟をしなさい」

「三時間で切り上げる計算尺を作っておくよ」

「作っても、あの長老には通じないわ」

 ジークの口端がわずかに上がり、すぐに元の真面目な線へと戻った。

 洞の入り口にかかる布がめくられ、風が吹き込んできた。

 朝の光が机の上の二枚の地図を照らし出す。鹿革の分厚い茶色と、使い古された布の灰色。二つの異なる素材の端が重なり、森の内と外が再び一つの平面として繋がっていた。

 羊皮紙の書状を丸め、革の筒へ収めた。

「南の関所へ持参する。ベルナルドの調査団の飛脚に預ければ、明日の夕刻にはクレベルの机に届く」

「俺が走ろうか」

 ジークが立ち上がりかけたが、手で制した。

「お前はここに残って、路線の計算を終わらせろ。布の道を使うなら、土竜の坑道との接合部の設計もやり直しだ」

「……了解した。日没までに仕上げておく」

 ジークは手帳を開き、新しい頁へ向けて炭筆を構えた。

 外套を羽織り、首の留め金を締める。

 ノアが背後から歩み寄り、外套の裾についた土の塊を指で払い落とした。

 その手が離れる際、布越しに二の腕を一度だけ強く掴んできた。

「気をつけて」

「関所の往復だ。揉め事は起きない」

「外の人間は、歩いているだけで揉め事を連れてくるわ。……早めに戻って」

「昼飯の前には戻る」

 洞を出ると、外の樹海は朝霧に包まれていた。

 湿った草を踏みしめ、南へ続く緩やかな斜面を下っていく。

 背後の洞から、定規の滑る音が小さく追ってくる。振り返らず、書状の筒を懐の奥へ押し込んだ。

 関所までは、往復で半日。昼飯には間に合う計算だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。