第17話「三割の前払い辞退」
三日目の夜明け前、石の壁に掛けた油皿の火が小さく爆ぜた。
芯の周りに溜まった獣脂が尽きかけ、煤の臭いが洞の天井へ薄く漂っている。
作業台の前に座り込んでいたジークが、手元の羽ペンを置いた。ペンの軸が机の木目を転がり、縁で止まる。
男の指先は黒いインクで汚れていた。人差し指の腹にはペン先を握り続けた深い窪みが残り、赤黒く窪んでいる。
机の上には、真新しい羊皮紙が一枚、平らに置かれていた。
インクはまだ完全に乾いておらず、湿った黒光りを放っている。
ジークは両手で顔を覆い、指の隙間からこめかみを強く擦った。無精髭の伸びた顎を突き出し、背もたれのない丸太の上で軋むように背筋を伸ばす。
「……できた」
掠れた声が、洞の床に落ちた。
奥の筵が持ち上がり、ノアが現れた。
灰色の外套を羽織り、首元の留め金は外したままだ。足音を立てずに歩み寄り、作業台の反対側、ジークの正面に立った。
視線は男の顔を通らず、机の上の羊皮紙へ直角に落ちている。
ジークは紙の端をつまみ、ノアの前へ滑らせた。
「読んでくれ」
紙の表面に並ぶ文字は、いつもの走り書きではない。字画の角が几帳面に揃えられた、王国公文書の書式に則った筆跡だった。
宛名は、商業省外部通商部首席書記官、ハンス・クレベル。
『先般取り交わした覚書のうち、第七項に定める「路線運行の優先順位に関する本省との協議」の約定を、本状をもって無効とする。これに伴い、第一期資金として提示された測量助成金の前払い分、総額の三割に相当する金員を全額辞退する』
末尾には、すでにジークの署名と個人の爪印が黒々と捺されていた。
ノアの指先が紙の縁に触れた。
爪の先で紙面をなぞり、一行ずつ確認していく。
「……三割を辞退すれば、手元の鉄材は買えないわよ」
平坦な声だった。
「測量の進捗は止まる。外の職人を雇う金も、境界杭を鋳造する費用も不足する。全部、自前で調達し直すことになるわ」
「分かっている」
ジークは膝の上に両手を置いた。
「不足分は、俺が森の外の定期便の段取りで稼ぐ。不足した資材は木で代用して、荷重の計算を一からやり直す。……五年かかるなら、五年かけて図面を引くさ」
「王都のクレベルは、この書状をただの不服従と受け取るかもしれないわ。席を取り上げられた役人は、別の手を使って入ってくる」
「その時は、別の防壁を組むだけだ」
ジークは目を逸らさなかった。
「出す前に、二人に見せる。……これが、今度から俺が引くすべての図面の条件だ」
ノアは書面から指を離した。
外套の内側へ右手を差し入れる。
取り出されたのは、四つに折り畳まれた薄い布の塊だった。
ノアが幾年もかけて外の世界を歩き、逃げ延びる過程で書き溜めた地図。折り目の角が白く擦り切れたその布を、作業台の中央、羊皮紙のすぐ隣へ無言で置いた。
サラリ、と繊維の擦れる音が机の上に広がる。
ノアの目が、一度だけこちらへ流れた。
「……一晩、一人で考えたの」
誰に向けた言葉かは、言わなかった。
「これは、私が逃げるために歩いた道。でも、逃げ道を握りしめていても、何も守れなかった。貴方が望むのが、出て行くことではなく、広げることなら」
布の端を、指で整える。
「広げる時は、私の道を使いなさい。隠しておく理由は、もうないわ」
返す言葉を探して、結局、頷くことしかできなかった。
「条件を足すわ」
ノアの声は、以前の拒絶の色を含んでいなかった。ただ、硬い石のように事実だけを置く。
「外へ出す書簡は、書いたその日に写しを三人に回すこと。毎日になるかもしれないわよ」
「毎日回す」
「約束を違えたら、その日のうちに貴方を穴に埋める。……土竜の手を借りるまでもなく、私が一人で」
「引き受けた」
ジークが短く応じた。
机の上の布の地図へ、男の手が伸びた。
乱暴に掴むのではない。指先で布の端をそっと持ち上げ、作業台の石の凹凸に合わせてゆっくりと広げていく。
王都へ至る裏道、調査局の管轄外にある湿地帯の抜け道、人目のない尾根筋。
細いインクの線が、再び薄暗い洞の中で呼吸を始めた。
ジークは計算尺を引き寄せ、布の上の山裾へ真鍮の縁を当てた。
「……第一案の勾配を五度緩める。尾根の硬い岩盤を避けて、ノアの通った沢沿いの獣道へ線を落とす。これなら資材の運搬重量を二割削れる」
炭筆の先が布の上を走る。
紙とは違う柔らかい感触に筆先が沈み、乾いた繊維へ黒い粉が吸い込まれていく。
「第二案はどうする」
棚から鹿革の地図を取り出し、作業台の端へ並べた。
「第二案は残す」
ジークは顔を上げずに答えた。
「クレベルがこの書状を受け取れば、必ず抜け穴を探しに来る。公道に近い第二案を警戒の囮にして、本命の資材はこの布の道から密かに運び込む。……表と裏の二本立てだ」
「資材の運び手は」
「草原馬に頼む。あの脚力なら、荷車の牽引も引き受けてくれるはずだ」
ノアが作業台の角に寄りかかり、腕を組んだ。
「草原馬は長話が好きよ。頼むなら、半日は草むらに付き合う覚悟をしなさい」
「三時間で切り上げる計算尺を作っておくよ」
「作っても、あの長老には通じないわ」
ジークの口端がわずかに上がり、すぐに元の真面目な線へと戻った。
洞の入り口にかかる布がめくられ、風が吹き込んできた。
朝の光が机の上の二枚の地図を照らし出す。鹿革の分厚い茶色と、使い古された布の灰色。二つの異なる素材の端が重なり、森の内と外が再び一つの平面として繋がっていた。
羊皮紙の書状を丸め、革の筒へ収めた。
「南の関所へ持参する。ベルナルドの調査団の飛脚に預ければ、明日の夕刻にはクレベルの机に届く」
「俺が走ろうか」
ジークが立ち上がりかけたが、手で制した。
「お前はここに残って、路線の計算を終わらせろ。布の道を使うなら、土竜の坑道との接合部の設計もやり直しだ」
「……了解した。日没までに仕上げておく」
ジークは手帳を開き、新しい頁へ向けて炭筆を構えた。
外套を羽織り、首の留め金を締める。
ノアが背後から歩み寄り、外套の裾についた土の塊を指で払い落とした。
その手が離れる際、布越しに二の腕を一度だけ強く掴んできた。
「気をつけて」
「関所の往復だ。揉め事は起きない」
「外の人間は、歩いているだけで揉め事を連れてくるわ。……早めに戻って」
「昼飯の前には戻る」
洞を出ると、外の樹海は朝霧に包まれていた。
湿った草を踏みしめ、南へ続く緩やかな斜面を下っていく。
背後の洞から、定規の滑る音が小さく追ってくる。振り返らず、書状の筒を懐の奥へ押し込んだ。
関所までは、往復で半日。昼飯には間に合う計算だった。




