第19話「焼かれた大樹の根」
南の境界の木陰に潜んでいた男は、商人風の外套を着込みながら、靴底に鉄鋲を打っていた。
コルトと名乗るその男は、二日前から調査団の野営地の外周をうろつき、測量用の杭の周囲の土を削り取っていた。商業省のクレベルが放った間諜だった。
作業台の上で、ジークが羊皮紙の端を小刀で削る。
「あいつに偽の図面を掴ませる。東の密林の奥へ誘導する迂回ルートだ。沼地の底なし泥炭層へ踏み込ませて、生け捕りにする」
ジークの引いた図面は、一見すると完璧な路盤図に見えた。等高線の乱れを巧みに均し、侵入者が行軍しやすいと誤認する勾配が描かれている。
だが、図面の右下、山裾の断層を示す記号の脇に、数行の細かい数値が炭で書き足されていた。
「この数字は何だ」
指先でその記号を指した。
「ああ、それかい?」
ジークは小刀の刃先を親指の爪で弾いた。
「北東の岩盤の深度比率だよ。ただのデタラメじゃ、本府の鑑定官が見れば三秒で偽物だと見抜かれる。本物の地質データを二割ほど混ぜておいたのさ。俺の測量の精度を見せつけてやれば、向こうの技師も疑う余地がなくなるからな」
「余計な真実を混ぜるな。偽物なら全部偽物で通せ」
「大丈夫だって。全体の方位は完全に狂わせてある。向こうがこの数字を読み解く頃には、足元が泥炭に沈んでいるさ」
ジークは図面を革筒に丸め、封蝋を押し当てた。
その日の夕刻、仕組まれた手違いを装って、革筒はコルトの手へ渡った。男は馬を急がせ、南の関所へ向けて駆けていった。
惨劇が起きたのは、その日の深夜だった。
足の裏に届いたのは、振動ではなかった。
熱だった。
土の奥深くを伝ってくる、乾いた亀裂の走る感触。腐葉土の冷気が一瞬にして吹き飛び、大樹の洞の入り口から、焦げ付いた硫黄と獣脂の臭気が流れ込んできた。
布を跳ね上げて外へ出た。
森の中央、樹齢五百年を超える大樹の根元が、真っ赤な炎の柱に包まれていた。
火の手は根の隙間から噴き出していた。
コルトが持ち去った地質データの中に、地表近くへ露出した硫黄混じりの褐炭層の深度が正確に記されていたのだ。クレベルの放った刺客は、森の奥深くへ迷い込むことなく、地下の炭層へ直結する亀裂へ正確に火炎壺を投げ込んでいた。
突風が吹き荒れ、火の粉が天蓋へ舞い上がる。
大樹の幹の中央、白銀の網が何重にも張り巡らされていた場所へ、黒煙が渦を巻いて吸い込まれていく。
中央の郵便結節点。
煙蜘蛛の長が、網の真ん中にいた。
八本の脚が熱風に煽られて縮れながらも、腹の先端から繰り出す最後の糸を、北の風切りへ向かう枝へ必死に繋ぎ止めようとしている。
〈……火が、下から……〉
頭の中に届いた言葉は、細い糸が切れるような途切れ途切れの残響だった。
〈……受領の、糸を……一本だけ……〉
「長、降りろ!」
叫びながら、燃え盛る大樹の根元へ駆け出した。
周囲の灌木が爆竹のように弾け、火炎が顔面の皮膚を焼く。
大樹の幹に飛びつき、炭化した樹皮に爪先を掛けた。
頭上で、太い横枝がボキリと折れる重い破砕音が鳴る。燃え盛る巨大な木組みが、網の真上へ向けて落下していった。
煙蜘蛛の長が、最後の糸を北の枝へ結びつけた瞬間だった。
火の塊が、白い網ごと長を押し潰した。
パチ、と一度だけ音が爆ぜ、長の気配が頭の裏側から完全に掻き消えた。
下層の窪みに、逃げ遅れた十数体の幼体たちが身を寄せ合っていた。
火の粉が幼い背中へ降りかかる。
身体が先に動いた。
折れた横枝を払い除けようと、左腕を火炎の渦の中へ差し入れた。
ジュッ、と皮膚の脂が焼ける音が耳元で鳴った。
激痛が肘から肩を突き抜け、視界が真っ白に染まる。
歯を食いしばり、左腕の感覚を力ずくで押し殺しながら、袖口で幼体たちを包み込んだ。右手で幹の割れ目を掴み、地面の黒土の上へ転がり落ちる。
背後で、大樹の根元が地響きを立てて崩落した。
中央の通信網を支えていた巨木が、火の粉を撒き散らしながら横倒しになり、泥炭の地面へ叩きつけられた。
泥の上に横たわり、左腕を見上げた。
外套の袖は完全に焼け落ち、肘から手首にかけての皮膚が赤黒くただれ、炭化した肉の破片が張り付いている。指先が硬直し、握ることも開くこともできない。
背後から駆け寄ってきたノアが、黙って膝をついた。
彼女の指が、懐から引き出した清潔な麻布を、手早く左腕へ巻きつけていく。
布が皮膚の傷口に触れるたび、引きつれるような痛みが走る。
ノアの顎の線が、石のように硬く強張っていた。傷口を縛る結び目を引く力は容赦なく、血の滲む布地を強く締め上げる。
「……動かさないで」
低く平坦な声だった。
その隣に、ジークが崩れ落ちるように膝をついた。
燃え落ちた大樹の巨躯を見つめる男の瞳に、炎の赤が映り込んでいる。
「……俺の、せいだ」
ジークの両手が、泥を掴んだ。
「あの地質データだ……クレベルは、あそこが燃えやすい炭層だと知って、急襲の刻限を早めたんだ……! 俺が、余計な数字を混ぜたせいで……!」
ジークの胸倉を掴む余力は、右腕にも残っていなかった。
立ち上がろうとして、足元がよろめく。
ノアが右脇を支え、身体を起こさせた。
「ジーク」
煤でかすれた喉から、短い言葉を絞り出した。
「悔やむ暇があるなら、図面を引け」
「……イーサン?」
「中央が死んだ。今、森中の線が切れている」
大樹が焼け落ちたことで、五大区画を結んでいた通信の結び目は完全に消滅した。
足の裏から届く地響きが、狂ったように乱れていた。
北の風切りが、中央からの連絡途絶に混乱して低空を飛び回り、南の沼蛙は火の粉を恐れて泥の奥深くへ潜り込んでいる。東の影狼は縄張りを侵されたと判断し、群れを率いて西の境界へ向けて牙を剥き始めていた。
誰かが間に入らなければ、夜が明ける前に森の内側で同士討ちが始まる。
「行くぞ」
左腕を麻布で胴体に固定し、右足を踏み出した。
「待ちなさい、イーサン」
ノアが右腕を掴んで引き留めた。
「腕が焼けているのよ。熱が全身に回っている。今走れば、傷口が腐るわ」
「走らなければ、明日には森が割れる」
掴まれた腕を、ゆっくりと外した。
ノアの冷たい指先が空を切り、外套の裾を握り直す。
「……なら、私も行く」
「お前はここに残れ。ジークを見張れ」
振り返らず、北の斜面へ向けて歩き出した。
夜通しの行軍だった。
北の山岳帯へ登り、風切りの長老へ向けて喉を絞り出す。
「中央は燃えたが、敵は退けた。北の空路を閉じるな。低空を保て」
東の密林へ下り、影狼の群れの前に立ちはだかる。
「動くな、ルウ。火は外の仕業だ。西の草原馬を疑うな。境界石を守れ」
南の湿地へ足を引きずり、泥の中に手を突っ込んで土竜を呼び出す。
「水脈を塞ぐな。泥炭に水を送れ。火を消す」
左腕の感覚は、夜半を過ぎる頃には完全に麻痺していた。
一言発するごとに肺の奥が焼け、声帯が乾いた摩擦音を立てた。
五つの区画を、自らの二本の足だけで巡り直す。
かつてジークが来る前に毎日繰り返していた、泥臭い火消しの作業。
だが今夜は、中央の柱を失った構造物を、ただ一人で下から支え続けるための時間だった。
東の空が白み始めた頃、大樹の根元へ戻り着いた。
大樹は黒い炭の骸となって倒れ伏し、白い灰が朝露に濡れて地面を覆っていた。
中央の糸場だった空間には、生き残った煙蜘蛛の若体たちが、六本の脚を動かして地面に散らばった灰を片付けていた。長の姿は、どこにもない。
作業台の前に、ジークが座っていた。
男の目の下は黒く窪み、手元の羊皮紙には、無数の新しい線が引き直されていた。
中央の大樹を通る線は、一本も残っていない。
北から東へ、東から南へ、南から西へ。
中央を迂回し、外縁部の中継点同士を直接結ぶ、幾重もの環状の線。
「……分散型だ」
ジークが顔を上げずに呟いた。
「中央の柱が一本折れただけで、全部が止まる図面を引いていた。俺の設計が甘かったんだ。……これなら、どこか一箇所が焼き払われても、残りの線が生きていれば通信は回る」
ジークは炭筆を置き、両手で頭を抱え込んだ。
「すまない、イーサン……。俺の浅知恵のせいで、あんたの腕を……」
「図面は、動くのか」
短く問うと、ジークは顔を上げた。
「……動かす。今度こそ、絶対に壊れない梁を組む」
作業台の平石の上に、右手を置いた。
左腕の包帯の隙間から、赤黒い血が少しだけ滲み出ている。
包帯の下の傷が、脈に合わせて熱く疼いた。
それでも、右手は石の上から離さなかった。中央の柱は折れた。次の梁を組むのは、これからだ。




