第20話「夜の問いと、ドッペルゲンガー」
洞の天井の割れ目から、夜風がかすかな細い唸りを引いて吹き込んでいた。
敷き藁の上に横たわった身体は、泥炭の底へ沈み込んだように動かない。左肘から手首にかけて巻かれた麻布は、内側から滲み出た体液で硬く強張り、熱を持った皮膚が脈打つたびに引きつれていた。
一晩中森を駆け回った足の裏の感覚は消え失せ、意識の輪郭は泥の底へ溶け落ちている。
呼吸の合間に、遠くの作業台のほうから、硬い木片の触れ合う音が届いていた。
油皿の薄い橙色の光が、石の壁に二つの輪郭を映し出していた。
ジークは丸太に腰掛けたまま、膝の上の手帳をめくる手を止めていた。視線は、作業台の端で薬草の束を小刀で刻んでいる女の横顔へ向けられている。
小刀の刃が草の節を断ち切るサク、サクという同じリズム。その手元には一切の迷いがない。昨夜の火災から丸一日、一睡もしていないはずの身体に、疲労による筋肉の緩みは見られなかった。
ジークが炭筆を机の上に置く。
転がった炭が縁に当たって止まる音に、小刀の刃先が止まった。
「……ノア」
男の声は低く、掠れていた。
「一つ、聞いてもいいかい」
ノアは顔を上げず、刻んだ草の山を木皿の端へ寄せた。
「作業の邪魔よ」
「設計屋の悪い癖でね。構造の辻褄が合わない箇所があると、気になって図面が引けなくなるんだ」
ジークは両手を組み、指の関節を鳴らした。
「最初の襲撃の夜から、ずっと違和感があった。君の反応速度だ。風切りが上空で身を翻すより早く風向きを読み、影狼が茂みを揺らす前に視線を向ける。……それだけじゃない。君は疲れない。イーサンが倒れ込むほどの距離を歩いても、息の乱れ一つ見せない。それに、先日の旅人だ。外の人間を一人残らず追い払ってきた君が、あの男にだけは火を貸した」
ノアの指先が、薬草の茎を一本、無言でつまみ上げる。
「何より、寸法だ」
ジークの視線が、ノアの額から顎の線、そして滑らかな皮膚へと移る。
「三年前、隣領の宿場でイーサンの噂を聞いた。銀髪の母親のような女と二人で、森の奥に住んでいるとね。……その時の話と、今の君の姿が完全に一致する。人間なら、三年経てば目元に小皺の一つも増える。だが君の皮膚には、時間の経過が刻まれていない」
ジークは椅子を引かず、重心を少し前へ傾けた。
「ノア、君は人間なのか」
洞の中の空気が、ふっと密度を増した。
小刀が木皿の縁に置かれる。カン、と澄んだ音が小さく反響した。
ノアはゆっくりと首を巡らせ、ジークを正面から見据えた。
その瞳の奥には、動揺も、警戒の色すら浮かんでいない。冬の朝に凍りついた沼の水面のように、平坦な光が宿っている。
「違うわ」
遮るもののない、澄んだ低音だった。
「私はドッペルゲンガーよ」
ジークの喉仏が一度だけ上下した。
男は言葉を返さず、組んだ指をじっと見つめている。
「二十三年前、この森の境界で死にかけた人間の女を見つけたわ。赤ん坊を抱えて倒れていた女よ。……その女の輪郭と顔を模して、私はこの形になった。死んだ母親の代わりとして、イーサンを育ててきたのよ」
ノアは自らの白い掌を見下ろした。
爪の形も、指の節の太さも、二十三年前に写し取った寸法のまま変わっていない。
「私は老いない。病にも罹らない。あの子が死ぬ日まで、この姿のままここに残るわ」
「……イーサンは、知っているのか」
「知らないわ。話す必要がなかったもの」
ノアは小刀を取り直した。
「外の人間を排除してきた理由も、それで分かったでしょう。あの子の生活に余計な異物を混ぜさせないためよ。……貴方も含めてね」
ジークは手帳の表紙を掌で撫でた。
羊皮紙の擦れる音が、沈黙の間に落ちる。
「……なるほどな」
男は天井を仰ぎ、乾いた息を肺から押し出した。
「頑丈すぎる梁だと思ったよ。人の寿命で測れる構造じゃなかったわけだ」
それ以上、ジークは何も尋ねなかった。
手帳を開き、新しい頁へ向けて炭筆を走らせ始める。
薬草を刻むサク、サクという音が再び重なり、夜の底へと沈んでいった。
目を覚ましたとき、洞の入り口にかかる布の隙間から、薄青い朝の光が差し込んでいた。
身動ぎをすると、左腕の筋肉が激しく引きつり、鋭い痛みが肩まで突き抜けた。包帯の下の皮膚が、熱を持ったまま固まっている。
敷き藁の上に半身を起こした。
足音もなく、ノアが近づいてきた。
手には湯気を立てる木椀と、新しい麻の包帯の束が握られている。
敷き藁の脇に膝をつき、椀を床へ置いた。
「動かさないで。傷口が張り付いているわ」
ノアの指が、昨夜巻いた古い包帯の結び目を解いていく。
血と体液で固まった繊維が皮膚から剥がれるたび、焼け爛れた肉の表面が冷気に晒され、歯の根が噛み合わさった。
露出した左腕の皮膚は赤黒くただれ、炭化した肉の縁が引きつれたケロイドの筋を作っている。
ノアは木椀の薬湯に浸した清潔な布を取り、傷口の周りを丁寧に拭った。
その手つきに迷いはない。だが、指先の動きがいつもよりわずかに遅かった。
「……イーサン」
頭頂部の上から、声が落ちてきた。
視線を包帯へ落としたまま、ノアが言葉を継ぐ。
「話があるわ」
「何だ」
「私は人間ではないわ」
布を動かすノアの手が、ぴたりと止まった。
「ドッペルゲンガーよ。魔物の一種。二十三年前に死んだ貴方の母親の姿を模して、あの子の代わりに貴方を育ててきたの」
洞の中の空気が止まる。
その名前は、先日の焚き火の向こうで聞いたばかりだった。
外の樹冠から、風切りの鳴き声が遠く聞こえていた。
ノアは顔を上げない。ひんやりした指先が、包帯の端を握ったまま強張っている。
「……ずっと、騙していたのよ。貴方の母親の肉親でも何でもない、ただの化け物よ。年をとることもなく、貴方が老いていくのを外から見届けるだけの異物だわ」
右手を伸ばした。
痛まないほうの腕を伸ばし、包帯の端を握りしめていたノアの白い指の上に、自分の掌を重ねた。
冷え切った指先が、皮膚越しに伝わってくる。
指の力を込め、彼女の手を包み込んだ。
「……知っていた」
それだけ告げた。
ノアの顎が跳ね上がり、銀の髪の隙間から暗い瞳がこちらを向いた。
「いつから」
「十歳の頃だ」
視線を彼女の顔から逸らさずに答える。
「冬の朝、薪を割っていたお前の指先が刃を滑らせた。皮膚が裂けたのに、血が一滴も出なかった。傷口の肉が、数秒で元の形に戻っていくのを見た」
「……なら、なぜ何も言わなかったの」
「言う必要がなかった」
ノアの手の甲を、親指で強く擦った。
「お前はずっとノアだった。朝に煮汁を作り、魔物の言葉を教え、俺が泥に沈めば引き上げてくれた。……知っていたのは正体ではなく、お前という存在だ」
言いながら、喉の奥がかすかに詰まった。
「……ただ、十歳の俺は、それを口にしたらお前がいなくなると思っていた。だから黙っていた。……それだけだ」
二十三年分の年齢差が、この時だけ、逆さまになった気がした。
ノアの瞳が、かすかに揺れた。
唇が開かれ、何かを言おうとして、再び結ばれる。
重ねられた掌の下で、強張っていた彼女の指先から、ゆっくりと力が抜けていった。
「……馬鹿ね」
掠れた囁きが漏れた。
「化け物に育てられた人間なんて、外の世界では誰も認めないわよ」
「外の連中が認めるかどうかは、俺の仕事じゃない」
右手を離し、膝の上へ戻した。
「包帯を巻け。午前中に、分散型の新しい中継杭を見に行く」
ノアは一度だけ深く息を吸い込み、麻布を手に取った。
引きつれたケロイドの上へ、新しい包帯が幾重にも巻き重ねられていく。傷口を圧迫する力加減は、先刻よりも確かな硬さを持っていた。
巻き終えた布の端が、手首の関節のすぐ上で固く結ばれる。
洞の出口へ向かうと、作業台の前にジークが立っていた。
男は丸めた羊皮紙を革筒に収め、腰の帯へ差し込んでいるところだった。
目が合ったが、ジークは昨夜の会話について一言も触れなかった。ただ、机の上の真鍮の定規を指で叩く。
「東の密林と北の山岳帯を繋ぐバイパス杭の候補地、三箇所出しておいたぞ。ルウの縄張りの北端だ」
「向かう」
外套を羽織り、左腕を布の内側に収めた。
外の空気が、焦げた灰の匂いをまだ薄く含んで顔を撫でる。
焼け落ちた大樹の根元では、煙蜘蛛の若体たちが六本の脚を動かし、新しい通信用の網を地表近くの低木へ張り巡らせていた。
頭上から、風切りが急降下して横枝に爪を立てた。
〈東の空路、確保したぞ。煙は晴れた〉
「受領した」
踵で地面を二度叩き、返事を返す。
背後で、ノアが足音を立てず追いついてきた。
灰色の外套の裾が風に揺れる。彼女は何も言わず、半歩後ろに並んだ。
朝露を踏み分け、三人は東の木立へ向けて歩き出した。




