第21話「九十人の傭兵団と、消された松明」
南の湿原を越えて届いたのは、鉄輪の軋みと重い蹄の響きだった。
木立の切れ間から吹き込んでくる風に、酸敗した獣脂と歴青の粘つく臭いが混ざっている。以前のバルト領主の私兵団が携えていた素焼きの壺ではない。荷車に積まれた大量の木樽から漏れ出す、濃度の高い軍用油の臭気だった。
大樹の洞の前に据えられた石卓の端で、ジークが測量図の上に真鍮の分度器を落とした。
「……九十人。正規の傭兵団だ。荷車の数は十五台。積んであるのは全部、精製歴青の油樽だな」
「兵の装備は」
左腕の包帯の結び目を右手で確かめながら問う。
「鎖帷子の上に煮革の鎧。長柄の斧と油撒き用の長柄杓を揃えている。……森を制圧する気じゃない。端から油を流し込んで、外縁部ごと全部焼き払う陣立てだ」
ジークが炭筆を握り締める。
「クレベルの差し金だ。コルトの持ち帰った偽図面で炭層の位置は割り出したが、肝心の路線図の裏が取れなかった。だから、森の半分を丸焼きにして更地にし、力ずくで直轄地に組み替える腹積もりだ」
洞の暗がりから、ノアが足音もなく現れた。
灰色の外套の裾を夜気に揺らし、銀の双眸を南の空へ据えている。
「殺すのね」
「殺さない」
「あいつらは油樽を持ってきているのよ。煙蜘蛛の長がどうやって焼かれたか、見ていたでしょう」
「殺せば、次の部隊が百五十人で来る。火を消す理由にならない」
足の裏に、鋭く乾いた打撃が届いた。
土竜の振動だ。地中の奥底から突き上げてくる拍は、いつもの鈍い調子を失い、細かく激しく岩盤を叩いていた。
〈……足音、重い。泥の底まで油の臭いが染みている。……長を焼いた臭いと同じだ〉
頭上の梢から、風切りが急降下した。長老格の個体だ。太い横枝に爪を深く食い込ませ、嘴を激しく鳴らす。
〈空から全部見えているぞ! 樽を並べている! 燃やす気だ! なぜ待つ、当然引き裂くべきだ!〉
東の藪を割り、ルウが進み出てきた。
毛並みを逆立てることもなく、四肢を揃えて低く構えている。だが、剥き出しにした白い牙の根元から、細い呼気が糸のように漏れていた。
〈密林の全三十頭、配置を完了した。理由は不要だ。中央の大樹を焼かれた落とし前をつける〉
森全体が、張り詰めた弓の弦のように引き絞られていた。
煙蜘蛛の長が焼け落ちた灰は、まだ大樹の根元に白く残っている。
その灰を踏み荒らそうとする鉄の列に対し、全種族の神経が一本の怒りの線となって束ねられていた。
外套の襟を右手で引き上げ、南へ続く踏み分け道へ足を踏み出した。
「配置通りに動け。合図があるまで、爪も嘴も出すな」
土竜へ向けて踵を一度強く踏み、風切りへ向けて喉の奥で短い呼気を放つ。
返事は求めなかった。背後で、ノアとジークが黙って足音を揃えて続いた。
南の湿原と樹林の境界は、かつてない異臭に満たされていた。
低木が力ずくで薙ぎ払われ、湿った赤土の上に十五台の荷車が横一列に並べられている。荷台に積まれているのは、大人の胴回りほどもある分厚い樫の油樽。箍を固く巻かれた樽の表面から、黒い歴青がじわりと滲み出していた。
荷車の周囲を固めるのは、揃いの革鎧を纏った九十名の傭兵たちだ。
手には松明と、油を散布するための銅の長柄杓。先頭で馬上に跨がる男は、赤髭を蓄え、頬に古い刃物の傷痕を持つ屈強な偉丈夫だった。
傭兵団長ブラント。王都の裏街道で放火と略奪を請け負ってきた手配師だ。
「おい、樽の栓を抜け! 湿地に全部ぶちまけろ!」
ブラントが抜身の直刀を抜き放ち、手綱を乱暴に引いた。馬が泥を跳ね上げる。
「水草ごと焼き尽くせば、魔獣どもなんぞ這い出てくる隙もねえ! 逃げ出してきた頭から首を刎ねて、本府のクレベル様に届けてやるんだ!」
兵士たちが大槌を構え、先頭の荷車の油樽の栓を叩き割ろうとした。
木立の影から、平地の中央へ歩み出た。
包帯を巻いた左腕を外套の内側に吊り、右手を自然に下げたまま、泥の上に靴底を置く。
足音が草を踏んだ瞬間、九十人の傭兵たちの視線がそろってこちらへ突き刺さった。
「……何だ、餓鬼が一人か?」
ブラントが馬首を巡らせ、刃先をこちらへ向けた。
「バルトの私兵どもを素っ裸にしたってのは、貴様か。魔王だかなんだか知らねえが、丸腰で出てくるとは良い度胸だな」
答えず、足元の黒土を見下ろした。
右足の爪先をやや引き、地面の表層へ向けて、三つの拍を硬く打ち込んだ。
土竜への打鍵。
「沈めろ。荷車だけだ」
十五台の荷車の真下で、大地が突如として波打った。
地中の土竜たちが一斉に地下水脈の泥を地表へ押し上げたのだ。固く踏み固められていたはずの赤土が、一瞬にして粘度の高い泥濘へと反転する。
ゴボリ、と鈍い破砕音が連なった。
荷車の重い車輪が、泥の底へ一気に呑み込まれる。
軸木が軋みを上げて傾き、荷台に固定されていた樫の樽が、固定用の縄を引きちぎって前方へ滑り落ちた。
「なっ……地面が!? 樽を押さえろ!」
ブラントが怒号を上げたが、遅かった。
斜面を転がり落ちた三十を超える油樽が、泥濘の傾斜に沿って傭兵たちの足元へ向けて雪崩を打った。
草むらの影から、灰色の巨躯が飛び出した。
ルウ率いる影狼の群れだ。
狼たちは兵士の肉には目もくれず、転がる樽の側面へ向けて太い前肢と頑丈な頭部を叩きつけた。
衝撃で樫の側板が砕け散る。
栓が吹き飛び、内部に満たされていた黒い精製歴青が、激しい飛沫を上げて噴出した。
泥濘に足を取られていた傭兵たちの頭上へ、大量の油が降り注ぐ。
顔面から肩、鎖帷子の隙間、革鎧の継ぎ目へ、粘つく黒い液体が容赦なく染み込んでいく。
「うわあっ! 目が、目が見えねえ!」
「油だ! 歴青を被ったぞ!」
悲鳴が上がり、九十人の隊列が一瞬で瓦解した。
武器を構えるどころではない。兵士たちは泥炭の中に膝をつき、顔にへばりつく油を手甲で必死に拭い落とそうともがく。だが、拭えば拭うほど、歴青は皮膚の溝へ入り込み、全身を真っ黒な油膜で塗り固めていく。
退路を塞ぐように、樹上から無数の白い糸が雨のように降り注いだ。
煙蜘蛛の若体たちだ。
中央の大樹を失った若い蜘蛛たちが、低木の梢から六本の脚を激しく動かし、超高強度の粘着糸を兵士たちの足首と腰回りへ巻きつけていく。
泥炭に足を取られ、油に塗れた兵士たちの下半身が、蜘蛛の糸で地面へ縫い止められる。
動けない。
武器を拾うことも、荷車へ駆け戻ることもできない。
九十名の武装集団は、わずか三分で、自らが持ち込んだ燃料の海の中に膝をつく黒い塊へと成り果てていた。
静寂が平地に落ちた。
聞こえるのは、泥の中で油を吐き出す兵士たちの荒い喘ぎ声と、馬から転げ落ちて腰を抜かしたブラントの歯の根が合わない音だけだった。
頭上から、巨大な風切り音が降りてきた。
天蓋の梢を割り、風切りの長老が滑空してきた。
翼を広げれば二丈に迫る灰色の巨躯。
その鋭利な嘴の先端に、一本の松明が咥えられていた。
赤々と燃え盛る火の粉が、風を孕んで激しく尾を引いている。
長老は低空で旋回し、油まみれになって身動きの取れない傭兵たちの真上、わずか一丈ほどの高さで滞空した。
嘴をわずかに開くだけでいい。
火のついた松明が地上へ落ちれば、歴青の海は一瞬にして火炎地獄へと変わる。
全身に油を被った九十人の男たちは、炎に包まれて骨まで焼き尽くされる。
彼ら自身が、この森を焼き滅ぼすために持ち込んだ火によって。
「ひ……っ!」
ブラントの喉から、空気の抜けるような悲鳴が漏れた。
顔面を黒い油で汚した傭兵団長は、泥の上に尻餅をついたまま、後方へ向けて無様に両手を掻いた。
股間から温かい液体が染み出し、黒い歴青の膜を割って泥炭へと広がっていく。
「た、助けてくれ……! 頼む、火を落とすな! 悪かった、命令されただけなんだ……!」
周囲の兵士たちからも、嗚咽と懇願が雪崩のように湧き上がった。
「燃やさないでくれ!」
「母ちゃん、助けてくれ!」
九十人の屈強な男たちが、頭上の小さな松明の火の粉を見上げ、涙と鼻水で油を溶かしながら大地に額を擦りつけていた。
長老の黄色い眼球が、冷酷な光を放つ。
嘴の端が少し緩み、松明の柄が指一本分、下方へ滑り落ちかけた。
大股で一歩、前へ踏み出した。
泥炭を踏み抜く革靴の音が、平地に響く。
「使うな」
短く、低く放った。
怒鳴り声ではない。毎朝の苦情を仕分けるときと同じ、淡々とした実務の声だった。
長老の翼が一瞬、空気を強く叩いて制動をかけた。
〈……対話者! こいつらは大樹を焼きに来たのだぞ! 仲間を焼いた同じ油を被っている! 落とせば一瞬で終わる、当然だ!〉
「火は使わない約束だ」
長老の真下へ歩み寄った。
「森に火を入れれば、煙蜘蛛の糸場がまた煤を吸う。土竜の泥炭が焦げる。……こいつらの命のために、森の土を汚す価値はない」
長老の細い頸骨が、悔しげにきしりと鳴った。
数秒の沈黙ののち、風切りは翼を傾け、平地の脇にある浅い水たまりへ向けて嘴を振った。
松明が落下する。
――じゅっ。
濁った泥水に火先が没し、白い湯気と細い煙が一つ立ちのぼって、消えた。
平地の空気が、凍りついたように止まった。
燃え上がるはずだった火は消え、残されたのは、泥と油の冷たい重みだけだった。
泥炭に手を突いて震えているブラントの眼前へ、ゆっくりと歩み寄った。
膝を曲げ、腰を落とす。
油まみれの男の顔と、視線の高さを合わせた。
ブラントは息を呑むことすら忘れ、見開かれた瞳を痙攣させてこちらの顔を見つめ返している。
「怪我はないな」
淡々と問うと、男の顎が細かく上下した。
「立て」
短く告げた。
男は動かない。泥に尻をついたまま、瞳だけを痙攣させている。
「罰は一つだ」
右手の指先で、割れた樽から流れ出た黒い歴青の溜まりを示した。
「お前たちが森に流し込もうとした油だ。一滴残らず布で拭え。樽の破片は、東の松の根元へ積め。……終わるまで、ここから出さない」
「ふ……拭く、のか? 俺たちが……?」
「森を焼く道具を持ってきたのは、お前たちだ。片付けるのも、お前たちだ」
ルウへ向けて、右手を一度振った。
影狼たちが二歩、後方へ下がる。煙蜘蛛の糸が泥の表面で緩み、兵士たちの足枷が外れた。
最初に動いたのは、ブラントだった。
震える手で外套を脱ぎ、泥の上の歴青の溜まりへ、その布を押し当てる。
油を吸った外套はずしりと重く、すぐに絞らねばならなかった。
それを見て、傭兵たちが一人、また一人と泥の中へ膝をつく。
上着を脱ぎ、荷車の幌を引きはがし、泣きながら黒い油を拭っていく。
木立の前では、影狼たちが音もなく円を描いて座り込み、その手元をじっと見張っていた。
ルウが、低く喉を鳴らす。
〈手が止まっているぞ〉
傭兵の一人が、悲鳴を上げて布を動かし直した。
頭上では、風切りの長老が、空になった松明の柄を足爪に挟んだまま、不機嫌そうに旋回している。
日が傾き、湿原の空が茜色に変わる頃、泥の上の黒い溜まりは、薄い染みにまで小さくなっていた。
最後の樽の破片が、東の松の根元に積み上がった。
九十人の傭兵たちは、全身を油と泥に染めたまま、肩で息をして立っている。
「……終わり、ました」
ブラントの声は、完全に掠れていた。
「ああ。帰れ」
背を向けたまま告げた。
「お前たちが仲間に語る恐怖と、今日拭い落とした油の重さを、一生忘れるな」
ブラントは泥の中から跳ね起きた。
直刀を投げ捨て、革鎧の留め金を引きちぎり、油で重くなった上着を脱ぎ捨てながら、街道へ向けて狂ったように走り出す。
「ま、魔王だ……! 森の魔王だああああっ!」
絶叫が木立の天蓋を揺るがした。
それを合図に、九十人の傭兵たちが同時に雪崩を打って駆け出した。
靴を泥に取られた者は素足で小石を踏み越え、転んだ仲間を踏みつけ、油で真っ黒になった顔のまま、我先にと森の外へ逃げ惑う。
泣き叫ぶ声と、泥水を跳ね上げる無様な足音が、南の街道の彼方へ吸い込まれるように消えていった。
湿原の風が、煤の臭いを薄めながら吹き抜けていく。
平地には、乗り捨てられた十五台の荷車と、泥の中に沈んだ無数の武器、そして東の松の根元に積み上げられた樽の破片の山だけが残されていた。
背後で、ジークが息を深く吐き出し、膝の上に両手を突いた。
「……信じられないな。一滴の血も流さずに、九十人の傭兵団を完全に解体しちまった」
手帳を取り出したジークの手先が、まだわずかに強張っていた。
「王都の噂は、これで決定的なものになるぞ。軍隊を前にしても一言も怒鳴らず、指先一つで自然を操り、敵を生かして絶望を刻みつける……。完璧な『魔王』の伝説の完成だ」
「噂はどうでもいい」
足元の泥炭地を見下ろした。
「土竜、拭い残しの油を頼む。水脈へ染み込ませるな。泥で包んで外へ出せ」
足の裏へ、地中から短く落ち着いた振動が返ってきた。
〈……了解。泥で包んで、外へ出す〉
ノアが影のように隣へ歩み寄り、灰色の外套の裾で、こちらの右腕の袖口についた油の飛沫を丁寧に拭い取った。
その指先は相変わらず冷たかったが、皮膚に触れる力加減は静かで、揺るぎがなかった。
「……よく止めたわね、火を」
「朝の苦情が増えるだけだ」
そう返し、大樹の洞へ向けて歩き出した。




