第22話「ハンス・クレベルの問い」
南の境界の湿原に散乱していた油樽の残骸は、土竜たちの手で泥の下へと埋め戻されていた。
地表に残ったのは、歴青の揮発成分が放つかすかな油煙の気配と、九十人の傭兵団が踏み荒らした無数の靴跡だけだ。
街道へ通じる砂利道の手前に立った。朝の湿気を含んだ風が、頬に冷たい。
木立の向こう、街道の側から砂利を踏む規則正しい足音が近づいてきた。
馬車ではない。
黒塗りの長靴を履いた男が一人、供回りも連れずに歩いてくる。
仕立ての良い黒い羅紗の外套。襟元には銀の鎖で天秤の小章が吊るされ、歩みに合わせて微かに揺れていた。年の頃は四十半ば。細面で、剃り跡の青い顎を引いている。
右手に黒革の鞄を提げ、左手は袖口から覗いたままだった。
その左手の甲から指先にかけて、赤黒く引きつれた古い火傷の痕跡が走っている。かつて激しい熱に晒され、皮膚が一度融解して固まったような、ケロイドの筋だった。
男の足が、森の境界を示す平石の五歩手前で止まる。
「傭兵団長ブラントは、街道の詰所で小便を漏らしたまま震えておりました」
整えられた低い声だった。
事務机の上で決裁書を読み上げるような、一切の乱れを含まない抑揚。
「火炎壺の破片も、松明の灰も一つとして持ち帰らず、ただ『魔王が出た』と喚き散らすばかりでしてね。……無駄な傭兵費を計上させられましたよ」
「誰だ」
「王都商業省外部通商部、首席書記官ハンス・クレベルです」
男は右手の革鞄を足元の砂利の上に置いた。
左手の火傷痕の残る指を伸ばし、外套の襟元の埃を払う。
「ジークの署名入りの辞退届、拝見いたしました」
背後の木陰から、ジークが進み出てきた。
手帳を腰袋へ収め、腕を組んでクレベルと向き合う。
「届いたかい、首席書記官殿。前払いの三割は一銭も受け取っちゃいないぜ。俺たちの路線図は、俺たちの足で引く」
「結構なことです、技師殿」
クレベルはジークの顔を一瞥しただけで、視線をすぐにこちらへ戻した。
「ですが、私がここへ足を運んだのは、契約の破棄を咎めるためではありません。……対話者殿。貴方の顔を直接確かめるためです」
左腕の包帯の上から、指先を強く押し当てた。
「確かめてどうする」
「損害の計算ですよ」
クレベルは平石の上へ靴底を一歩進めた。
「貴方がどれほど危険な火薬庫であるか、王都の机の上では誰も正確に測れていませんからね」
木陰の暗がりから、ノアが足音を立てず滑り出てきた。
灰色の外套のフードを目深に被り、組んだ腕の中で、右の指だけが規則的に二の腕を叩いている。
クレベルの立ち位置から半歩も目を離さず、氷のような平坦な声で告げた。
「境界を越えないで。その足首を、今すぐ切り落とすわ」
クレベルは足を止め、ノアの顔を静かに見つめた。
「……二十余年変わらぬ美貌、という噂は真実でしたか。聴取院の逃亡記録に記されていた特徴と、寸分違わない」
ノアの指先が、外套の内側の板をきつく掴んだ。衣擦れの音が一つ鳴る。
「クレベル書記官」
間に入り、男を見据えた。
「用件を言え」
「事実をお伝えしに来ました」
クレベルは左手の火傷痕をさすり、視線を森の奥へ向けた。
「三十年前、この森から西へ五日程行った場所に、ハルデンという鉱山町がありました」
風が凪ぎ、砂利の擦れる音すら止まる。
「そこにはヤコブという行者がおりました。現在の貴方と同じく、土竜や影狼の言葉を解し、町と森の間の境界を一身に調停していた男です」
ジークが眉を動かさず、男の言葉を待った。
「ヤコブは無欲で、実直でした。毎日泥にまみれて魔物の苦情を聞き、町人が木を伐りすぎるのを止め、二十年間にわたって一滴の血も流させなかった。人々は彼を聖者と呼び、その善意に甘えきっていたのです」
クレベルの指が、首元の天秤章をなぞる。
「ある冬の朝、ヤコブは心臓の発作で死にました。眠るように、呆気なく」
足元の黒土が、かすかに冷え込んだように感じられた。
「町人は魔物の言葉を知りませんでした。ヤコブが定めていた細かな取り決めの意味も、何一つ理解していなかった。彼らはヤコブが残した安全な森を信じ込み、寒さをしのぐために境界の木を三本伐り倒した」
男の左手が、外套の縁を握り締める。
「影狼にとっては不可侵の約定違反であり、土竜にとっては水脈を断ち切る暴挙でした。……報復は夜半に始まりました。町は七日で焼き滅び、千二百人の住民のうち、生き残ったのは防空壕に潜り込んだ子ども数名だけでした」
クレベルが自らの左手の甲を掲げた。
引きつれたケロイドの皮膚が、朝の白光の下に剥き出しになる。
「私がその子どもですよ、対話者殿」
沈黙が境界の平地を覆った。
ジークの息を吐き出す音が、乾いて響く。
「善意の一人に全てを預ける仕組みは、最も美しく、そして最も無惨に壊れるのです」
クレベルの目は、憎悪に燃えてはいなかった。
計算尺の目盛りを読み上げるような、底冷えのする論理の光がそこにある。
「貴方が善人であるほど、貴方が死んだ時の被害が大きい。……誰か一人が欠けても続く保険を求めているだけですよ」
男は鞄を持ち上げ、こちらを真っ直ぐに射抜いた。
「イーサン殿。貴方が明日、石に躓いて谷へ落ちたら。あるいは病を得て床に伏したら。……あの言葉は、誰が訳すのですか」
喉の奥が乾き、言葉を探した。
だが、舌の上に乗る答えは一つもなかった。
毎朝の四件の苦情。影狼と土竜の睨み合い。
自分が現場へ走り、喉をすり減らして言い換えてきたそれらの均衡は、すべて自分の肉体の上にだけ乗っかっている。
自分が欠けた翌朝、森の魔物たちがどう動くか。
誰が境界を押し留め、誰が風切りの嘴を塞ぐのか。
答えを持たない口元を、ただ引き結ぶしかなかった。
「答えがないなら結構です」
クレベルは一歩後退し、街道へ背を向けた。
「私は商業省の手法で、この森に外枠を嵌めさせていただきます。貴方が生きているうちに、壊れない檻をね」
男は一度も振り返ることなく、砂利道を踏みしめて立ち去っていった。
靴音が遠ざかり、街道の彼方へ消えるまで、三人は立ち尽くしていた。
その日の夕刻、大樹の洞の作業台は重い静寂に沈んでいた。
ジークは丸太に座り込み、羊皮紙の上に置いた炭筆を握ったまま、一本の線も引けずにいた。
「……ハルデンの記録は、工学協会の書庫で読んだことがある」
ジークが掠れた声で呟いた。
「三十年前の急激な人口消失地帯。図面ではただの『廃村』としか書かれていなかったが……あれがそうだったのか」
ノアは壁の窪みの油皿に油を注ぎ足し、火打ち石を打った。
火花が散り、橙色の炎が揺れる。
「外の役人の繰り言よ。あいつらはいつも、過去の灰を他人の頭上へ撒き散らして道理を説くわ」
「だが、構造としては正しい」
ジークが炭筆を机に落とした。
「イーサン一人に荷重がかかりすぎている。郵便網で多少は分散できたが、最終的な翻訳の蝶番は、依然としてイーサンの耳と喉のままだ。……クレベルの言う通り、ここが折れたら線路ごと吹き飛ぶ」
左腕の包帯に右手を添えた。
火傷の皮膚が脈打つたび、肉の奥が鈍く痛む。
自分が死んだあとのことなど、考えたこともなかった。
今日を生き延び、明日の苦情を一件減らす。その場しのぎの鎖を繋ぎ直すことだけで、二十三年の歳月が埋め尽くされていたからだ。
だが、想像してみた途端、胸の奥が嫌な形に軋んだ。
自分が倒れる。翌朝、影狼は土竜を睨み、風切りは糸場の上で騒ぎ、ルウは洞の前に座ったまま、誰の言葉も届かず首を傾げる。ノアの冷たい手だけが、一人きりでそれを見ている。
皆が、散り散りになる。
死ぬのが怖いのではなかった。あの連中が、また一匹ずつ別々の方角へ離れていくことが、どうしても嫌だった。
石の腰掛けから立ち上がり、洞の外へ出た。
夜の冷気が、火照った額を叩く。
大樹の根元の焼け跡へ歩み寄った。
煙蜘蛛の長が命を落とした場所。黒い炭の粉が、夜露を吸って湿った土にへばりついている。
若体たちが低木の間に張った新しい糸が、月光を浴びて白く光っていた。
細く、頼りない糸だった。
かつての大樹を覆っていた幾千の幾何学の網に比べれば、あまりにも心もとない。
背後で、枯れ葉を踏む微かな足音がした。
ノアではない。
硬い革底が地面の小石を擦る、不慣れな足取り。
振り返ると、紺色の官服を着たエレナが立っていた。
肩から大きな革鞄を提げ、胸の前には厚紙の手挟みを両腕で抱え込んでいる。
「……夜分に、申し訳ありません」
エレナの声は低かったが、芯があった。
「こんな時間にどうした。野営地へ戻れ」
「手帳を、お見せしたくて参りました」
エレナは一歩進み出た。
手挟みを胸から離し、両手で差し出してくる。
受け取り、月明かりの下で頁を開いた。
そこには、この数日間の記録が細密な筆致で並んでいた。
草原馬の走行速度の数値表。影狼ルウが外の空気を吸った瞬間のスケッチ。そして、昨日の傭兵団が無力化された際の、種族ごとの配置と合図の分類図。
数字の横に、エレナの文字がびっしりと書き込まれている。
『風切りは高度三丈を境に視覚記号の認識率が変動する』
『土竜への指示は地盤の含水比率に依存。泥炭層では打撃の拍を半拍遅らせる必要がある』
『影狼は命令を拒絶するが、事実の不整合を提示すれば自発的に補修行動へ移行する』
魔物語の単語は一つも書かれていない。
だが、自分が直感と経験だけで捌いてきた魔物たちの生態の癖が、客観的な事実の記録として解体され、紙の上に固定されていた。
「クレベル様の仰ったことを、木陰で聞いておりました」
エレナが手袋を外した両手を、前で揃えた。
「三十年前に滅びた町の話も。……イーサンさんがいなくなった後のことも」
夜風が吹き抜け、手挟みの紙面を揺らす。
「私は、魔物の言葉は話せません。これからも話せるようにはならないと思います」
彼女は顔を上げた。
その瞳は揺らいでいなかった。
「ですが、見たものを書き留めることはできます。なぜ動いたのか、どうすれば争わずに済むのか。……言葉が通じない人間でも、この手帳を読めば、森の掟を守れるように書き残すことができます」
エレナの指先が、官服の裾を強く握り込んだ。
「イーサンさんが死んだ後、この森の真実を世界に残せるのは、私の記録です」
一語一語を区切るように、確かな声が落ちる。
「私に、書かせてください。貴方の背中を、最後まで」
手挟みを見下ろした。
インクの匂いが、夜の湿った腐葉土の気配と混ざり合っている。
ジークの図面とは違う。ノアの記憶とも違う。
消えていく自分の足跡を、外の人間の言葉で形にとどめようとする意志が、そこにあった。
「……好きに書け」
手挟みを閉じ、彼女の手元へ戻した。
「ただし、誇張はするな。見たままだけを書け」
「はい。事実だけを、一行も違えずに記録します」
エレナは手挟みを胸の前へ強く抱き留め、深々と頭を下げた。
木立の暗がり、十歩ほど離れた太い幹の陰に、人影があった。
ノアだった。
灰色の外套のフードの奥から、銀の視線が、手挟みを抱くエレナの背中に注がれていた。
彼女は呼吸の音さえ殺したまま、微動だにしない。
老いていく人間が、老いていく人間のために言葉を遺そうとする。その光景を、彼女は無言で見つめ続けていた。不老の身体には刻まれることのない時間の流れを、そこに見ているようだった。
そして、その時間を引き受けようとする背中から、彼女は最後まで目を逸らさなかった。




