第2話「静かな侵入者」
西の空に、百を超える風切りが集まっていた。
天蓋の隙間から見える灰色の雲の下で、細い翼が渦を巻いて旋回している。細い首の骨を持つこの翼竜の亜種は、周囲三里の気圧の変化を、肌で読み取る習性があった。
大樹の洞の出口で立ち止まり、上空を見上げる。風切りの翼が空気を切る鋭い音が、梢を叩いて、断続的に降ってきた。
〈金属の匂いだ。人間の道具の匂いだぞ。動いている〉
風切りの言葉は、視覚と嗅覚が混ざった独特の像になって、頭に落ちてくる。鉄の青い冷気。焦げた機械油の黄色。西から北西へ傾いていく大気の流れ。
「ノア、北西だ」
背後で衣擦れの音がした。手入れされた銀髪を肩に流し、ノアが外へ出てくる。暗い瞳が、森の西側を見ていた。
「金属の器具を使っているわ。数は十二、三。馬に乗っているにしては、足並みが揃いすぎている」
「機械仕掛けか」
「あるいは魔力補助。どちらにせよ、これまでの密猟者とは違うわ」
これまで森の境界を越えてきた人間は、決まって騒々しかった。松明を焚き、銅鑼を鳴らし、得体の知れない樹海への恐怖を、数と光で押し隠そうとする。
今回の気配には、それがない。無駄な物音を立てず、測ったような一定の速度で、木々の間を縫ってくる。
足の裏に、西の沢のほうから硬い衝撃が届いた。
〈先頭の三体、やられた。毒の霧だ。動けん〉
鋼甲獣の皮膚を打つ、重い振動だった。
地を蹴って走り出そうとした瞬間、袖を掴まれた。指先が、布越しに骨を掴む。
「待って、イーサン」
「鋼甲獣が膝をついている。毒だ」
「全体を把握してから動きなさい。目の前の火を消しに走って、いつも別の場所を焼くでしょう」
掴まれた袖を引かず、足を止めた。
ノアの言い分が筋の通ったものだとは、分かっている。直情で現場に飛び込めば、相手の描いた盤面に乗せられる。
「……各区画へ通達を出してくれ。風下から距離を取るように」
「もう流したわ」
ノアの細い指が、胸の高さで空気を撫でるように動いていた。森の地下を巡る精霊の魔力の筋に触れ、言葉を介さず、警告の意図だけを森全体に広げている。
高台の巨岩を這い上がると、西の沢を見下ろす視界が開けた。
侵入者の部隊は、三つに分かれていた。
左右の二組が、派手に木々を薙ぎ払い、森の防衛本能を誘っている。その背後、枯れ沢の底を縫うように、本隊が滑り込んでいた。囮と本隊を分け、囮の逃げ道まで計算した配置だ。誘導されていると気づくまで、時間がかかる。
「……何者かが、現場の外から盤面を描いている」
呟いた隣で、ノアが岩肌に掌を置いた。
「イーサン、あそこの岩棚」
沢を見下ろす遥か上の突起に、外套をまとった人影が一つ、直立していた。武器は構えていない。双眼鏡に似た真鍮の筒を目に当て、黙って眼下の動きを見ている。
目を沢に戻した時には、遅かった。
本隊は西の沢の奥深くに入り込み、十数本の太い鉄杭を地面に打ち込んでいた。先端が青白い火花を散らす。地中を走る魔力の水脈が、杭の熱で次々に焼き切られていく。
土竜の坑道が、内側から押し潰された。
踵の骨に、引き裂かれるような短い振動が突き刺さる。
〈……坑道、潰れた。中に、幼体〉
斜面を滑り降り、沢へ走った。
坑道の入り口に着いた時には、崩れた赤土が穴を塞いでいた。素手で土を掻き分けたが、中から鼓動は返ってこない。四つの小さな脈動が、土の中で止まっていた。
頭上で、乾いた破裂音が響いた。
毒霧を散らそうと急降下した風切りの群れが、人間側の投網弾に捕らえられたのだ。羽の骨が折れる嫌な音とともに、灰色の翼が一羽、梢を折って落ちてくる。
ノアが両腕を差し出し、落ちてきた個体を受け止めた。翼の付け根から吹き出した赤黒い血が、白い指の間を伝って地面を濡らす。布を裂いて傷口を縛り、冷気を当てて血を止める。教えられた手順ではない。過去に何度も同じ手当てを重ねてきた手つきだった。
沢の向こうでは、鋼甲獣の先頭三体が霧の中で倒れ伏し、重い甲羅を泥に沈めていた。
立ち上がり、坑道の前に靴底を深くめり込ませる。
頭の奥の血が引いていく。
毎朝、全種族の苦情を同時に聞き分けてきた耳が、いま初めて、敵の配置を解くために研ぎ澄まされていた。
足音を聞き分ける。
沢を抜ける侵入者は十二名。十一人の足取りは軽く、一人分だけが、歩幅を狭めて地面を抉っている。背負い籠に杭打ちの機械を積んだ男だ。その重い足取りは、沢の最奥の水源へ、まっすぐ向かっていた。
踵を硬く引き、地面を三度打った。土竜の言葉で、短く叩く。
「杭の列の下を、沈めろ。足首の深さだ。生き埋めにはするな」
砂利交じりの黒土が、下から水を吸ったように緩んだ。打ち込まれたばかりの鉄杭が次々に傾き、機械を背負った男を含む数名が、膝まで泥に取られて動きを止める。
次に、喉の奥の息を鋭く絞り、高い音を鳴らした。人間の喉では出せない音域を、ノアに教わった代用の母音で補う。
「霧を押し返せ。北東の風に乗せて、人間の頭上へ落とせ」
上空で待っていた百を超える翼が、一斉に傾いた。吹き下ろされた突風が毒霧を巻き上げ、放った側へ押し戻す。沢の底から、激しい咳き込みと、足掻く水音が響いた。致死性の薬ではない。体を痺れさせるだけの霧だ。動けなくなる陣営が、入れ替わっただけだった。
それでも、倒れた三体の周りで、鋼甲獣の群れが地団駄を踏んでいた。仲間を傷つけられた巨獣たちは、泥に沈んだ人間を踏み潰したがっている。だが群れの長は、重い頭を上げたまま、微動だにしない。
相手が人間でも対話者でも、筋の通らない命令は無視する種族だった。
巨獣の前へ進み出た。
「お前たちの倒れた三体を、風下から引きずり出す。俺が手を貸す」
〈指図か〉
「発注だ。杭だけを踏み折れ。人間は踏むな。その代わり、北斜面の苔の件を俺が預かる。今月中に原因を突き止める」
鋼甲獣の長は、長い沈黙ののち、巨体を沈めて首を一度だけ縦に振った。
〈……杭だけだ〉
黒い鋼の塊が、波になって沢を駆け下りた。人間の悲鳴は上がらない。響いたのは、鉄杭が次々にへし折れる金属音だけだった。
最後に、密林の木陰へ向けて低く吠えた。
「追うな。囲め。森の外へ続く道を、一つだけ開けておけ」
木立の暗がりから影狼たちが滑り出て、泥に汚れた十二名を、牙を見せずに円く取り囲んだ。唯一開いた西の抜け道へ、武器を捨てた男たちが足を引きずって走り出す。誰も背後から襲われない。
指示は四つ。それぞれ一言ずつ。
あとは各々の種族が、日頃の縄張り争いで身につけた、最も合理的な動きを取っただけだった。
沢の騒乱が引いていく。
喉が張り付き、渇きで息が詰まった。
退けたとはいえ、代償は小さくない。潰れた坑道に四体。折れた風切りの翼が九枚。痺れて動けない鋼甲獣が三体。
坑道の前に腰を落とし、乾いた土に触れた。中から返る気配は、何もない。
視線を上げると、遠くの岩棚の人影は、まだその場から動いていなかった。真鍮の筒を下ろし、こちらをまっすぐ見下ろしている。
外套の裾で泥を払い、岩棚へ向けて歩き出した。
岩場に着いたのは、沢の音が完全に静まってからだった。
近づく足音を聞き、男は真鍮の双眼鏡をゆっくり革袋に収めた。
年は二十代半ばほど。擦り切れた革の外套に、黒ずんだ機械油の染みがこびりついている。右手には、薄い真鍮板と歯車を組んだ複雑な器具を提げていた。
こちらに気づいても、逃げる素振りはない。
「……お前が図面を引いたのか」
腰の短剣の柄に手を掛けたまま問うと、男は両手を胸の高さまで上げて見せた。指に武器は握られていない。
「ジーク。初めまして、イーサン」
「名前を知っているのか」
「この森で魔物の言葉を話す人間は、一人しかいないと聞いた。消去法だよ」
滑らかな口調だが、語尾に王都とは違う訛りが混じっていた。
「お前の部隊は終わったぞ」
「知っている」
「なぜこの森を攻めた」
ジークは即答せず、衣服の裾についた草の種を指で払った。
「君に会うためだよ。言い直すなら、君の力を確かめるため」
指先が、鞘の金具に食い込んだ。
「……そんな理由で、森の魔物を殺したのか」
「傷つけた。それは事実だ。申し訳なかったと思っている」
芝居がかった響きのない、乾いた声だった。
「……坑道で、土竜の幼体が四体死んだ」
「聞いている。四体」
ジークは視線を逸らさなかった。
「名前を、教えてほしい」
「土竜に名前はない。個体ごとに、地中を叩く振動の型がある」
「なら、その型を。覚えておく」
男は手元の歯車仕掛けの板を指で弾いた。
「でも、他に方法がなかったんだ。君には平時じゃ会えない。外から近づけば、ノアという人物が先に察知して排除する。交渉の余地なく、ね」
否定する言葉は出なかった。
ノアは、外から境界へ近づく人間を、理由も聞かずに追い払う。今まで例外はなかった。
「君に頼みたいことがある。対価は払う。俺の知識、全部」
「断る」
「三週間、君の行き先を見ていた」
ジークは声の調子を崩さず、言葉を継いだ。
「毎朝、北の泥地。昼は、鋼甲獣の縄張りの境。夕方は、南端の淀み。同じ三か所を同じ順番で回り、同じ種類の揉め事を、同じやり方で収めている」
奥歯が噛み合わさった。
「収めても、三日後には戻ってくる。そうだろう。根が別にあるからだ。君は毎日、鎖の先端だけを直している。根に触れる時間がない。君が一人で、全種族の言葉の窓口をやっているからだ」
今朝、途中で打ち切った考えが、頭をよぎる。影狼、鋼甲獣、北斜面の苔。
「……だから、攻めたのか」
「確かめたかった。三十分で君は森全体を動かした。だが、戦争は一日三十分も起きない。毎日起きているのは、苦情のほうだ。そっちには、君は毎日、たった一人で立っている」
足元の草が風に揺れた。
「俺が作りたいのは、この森から外へ通じる道だ。君が一人で受けている言葉を、君が走らなくても届く形にする。そのために、各種族と直接話せる人間が要る。一人でいい」
「……俺を使いたいってことか」
「対等な協力者として頼みたい。俺が持っているのは設計図だけだ。でも君は、この森に生きているすべての種族と言葉を交わせる」
ジークの目が、まっすぐ向いていた。
「俺一人では動かせない。君一人でも、今の状況は変わらない。どうする」
背後の木立から、硬い声が落ちてきた。
「断って」
ノアだった。いつの間にか背後に立っていた。腕を組み、冷え切った視線をジークに据えている。
「この男の話は嘘じゃないかもしれない。でも、貴方がこの男と組んだら、貴方は変わる。今まで通りには、いられなくなるわ」
ノアの指先が、外套の袖に触れた。引くでもなく、ただ布地を押さえている。その指が細かく強張っていた。
「……それが嫌なの、私は」
ジークはノアを一瞥した。
「……なるほど。だから」
何かを呟いたが、風の音にかき消されて聞き取れなかった。
短剣の柄から指を離した。
「ジーク。お前をこの森へ連行する。対価として、俺の話を全部聞け。そのあとで、俺が判断する」
「構わない」
ジークは両手首を揃え、前に差し出した。
手慣れた仕草だった。
「……捕まるのは初めてじゃないな」
「三回ほど。長い話になるよ」
腰の革袋から麻縄を取り出し、差し出された手首に巻きつけた。麻の繊維が手のひらに擦れる。
ノアは何も言わず、横に立っていた。触れていた指は、袖から離れていた。
眼下の沢から、傷ついた魔物たちの唸り声が、途切れ途切れに上がってくる。
縛り目を一度引き絞った。ジークが手首を揺らした。
「結び方、悪くないじゃないか。二回目より、ずっといい」
返事はせず、縄の端をもう一度、強く引き結んだ。




