第3話「捕虜の論理と、設計図」
洞の最奥は、昼でも日が届かない。岩肌を伝う地下水が、同じ間隔で泥溜まりを打つ。湿った鉱物の匂いに、鉄錆の臭いが混じっていた。
壁の鉄環から伸びた太い鎖の先で、ジークが腰を下ろしている。両手首は革の帯で巻かれ、その上から鉄の輪が噛ませてあった。擦り切れた外套の肘に泥がこびりつき、乱れた茶髪が額に張り付いている。
木盆に乗せた椀の湯気が、薄暗い空間に白い筋を引いた。
「置くぞ」
盆を平らな石の上に滑らせると、椀の底が小さく鳴った。雑穀を煮崩した粥と、塩漬けの干し肉を細かく刻んだものだ。
ジークが瞼を持ち上げた。壁に後頭部を預けたまま、視線だけを盆に落とす。
「……思ったより早いな」
「何がだ」
「半日は転がしておく手順だと思っていたよ。飢えさせて、足元を見る。尋問の定石じゃないか」
革の帯を軋ませながら、ジークが椀を取り上げた。木匙は使わず、縁に直接唇をつけて粥をすする。一口飲むたびに、喉仏が上下した。
「悪くない味だ。誰が煮た?」
「ノアだ」
「昨日の昼、岩場で俺を氷みたいな目で見下ろしていた人物かい?」
「そうだ」
ジークの唇の端がやや引き攣り、すぐ元の薄い線に戻った。椀の縁を指先で擦り、残りの粥を流し込む。空になった器を盆に戻す手つきに、焦りの色はなかった。
「面白い組み合わせだな、君たちは。イーサン、聞いていいか。君はいつから獣どもの言葉が分かる?」
「物心ついた頃からだ。ノアに教わった。気づいた時には話せていた」
「習得できる体系なのか」
ジークの背中が、壁から離れた。鎖が擦れ合って、鈍い金属音を立てる。
「なら、他の人間にも移せる可能性がある。文法と発声の規則があるわけだ」
「分からない。ノア自身がどうやって覚えたのかは知らない。尋ねたことはあるが、答えなかった」
「……なるほどな。触れない領域というわけかい」
ジークは顎に手を当て、指で無精髭を引っ掻いた。
「いずれにせよ、今この森でその役目を代われる人間はいない。そんな希少な技能を持つ男が、なぜ一介の揉め事処理係に収まっているのか、ずっと疑問だったんだ」
「不満ならある」
「どんな?」
「朝から晩まで苦情が多すぎる」
ジークの動きが止まった。数秒の間を置いて、乾いた笑い声が岩肌に跳ね返る。
「正直で助かるよ。英雄譚の登場人物なら崇高な使命感を語るところだが、君は業務の負荷を口にする。そっちのほうが、よほど信用できる」
石の段に腰を下ろした。岩の冷気がズボンを通って、尻の皮膚に抜けていく。
「一つ聞く。昨日の十二人は、お前の私兵か」
「違う。傭兵団から借りた」
ジークは干し肉の欠片をつまみ、奥歯で噛み砕いた。
「一度きりの約束で、頭を下げて引っ張り出してきた。連中はもう森の外へ抜けている。俺の手元には、指一本残っていない」
「どうやって借り出した」
「話せば長くなる。飯代と過去の貸し借りさ。……話せる日が来たら話すよ」
「昨日の話の続きをしろ。外へ通じる道を作るとはどういうことだ」
ジークは外套の内ポケットに手を差し入れた。取り出したのは、掌に収まるほどの薄い真鍮板だった。表面に細かな歯車とガラスの窓が嵌め込まれている。
「没収されなかったのか」
「身包み剥ぐ習慣はないらしいな、君たちの森は」
ジークは真鍮板の端の小さな突起を、爪で弾いた。カチリと澄んだ音が響き、ガラスの内側に淡い光の筋が浮かぶ。大陸の起伏と街道の線が、青白い燐光になって描かれていた。
「王都からこの森の縁まで、荷を運ぶのに今は十七日かかる」
真鍮板の上に、細い指先が線を引いていく。
「道が荒れているからじゃない。領地をまたぐたびに、関税と荷留めの保管料を取られるからだ。七つの関所を通る間に、積み荷の価値の七割が手数料で消える。この森の素材を外へ売っても、現場の魔物たちには三割の端金しか残らない」
ジークの目が、板の光からこちらの胸元へ向いた。
「去年、王都で流行病が出た。傷口を洗う消毒薬の原料として、沼の泥藻の相場が十倍に跳ね上がったはずだ。だが、土竜や沼蛙の手元に、その銀貨は届いていない。外へ直接つながる安全な流通路があれば、その適正な利益で、土竜の沼地を買い足す工事を発注できた。今朝君が頭を抱えていた泥地の争いは、外の相場とつながっているんだよ」
聞いた言葉が、頭の中で先ほどの泥炭地と噛み合った。
三尺削られた泥。行き場を失った三十匹の幼生。それが森の外の商取引と結びついているなど、考えたこともなかった。
「君たちが管理する領域を安全に通す代わりに、正当な通行税と運賃を受け取る。その金で、影狼には新しい狩場を手配し、土竜には排水の溝を掘らせる。鋼甲獣には……あいつらは何を好む?」
「北斜面に生える黒苔だ」
「なら、その苔を計画的に育てる区画を確保すればいい。問題の原因が不足にあるなら、配分を成り立たせる資金の流れを作る。それが設計というものだ」
「俺は商人じゃない。ただの苦情の窓口だ」
「だから言っている。その窓口の負荷を分散させるんだ」
ジークは真鍮板の光を消し、平らな盤面を指の関節で叩いた。
「最初の一手は郵便だ」
「郵便?」
「いきなり荷を通せば、盗掘や小競り合いが起きる。まずは情報の網を張る。手紙が届いたという実績の積み重ねが、やがて物を通す信頼の土台になるんだ。手順を飛び越えた設計は、荷重に耐えきれず落ちる」
「森の内側で作るのか。外と繋ぐのか」
「内側が先だ。各種族の間で、紙に乗せた合意を往復させる。君が毎日泥の中を現場へ走り、口頭で仲裁している労力を、文書に肩代わりさせる。そうすれば君の足が空く」
「俺を楽にさせるのが目的じゃないだろう」
「構造全体の損失を防ぐためさ。一本の柱に荷重を全部預けていたら、その柱が軋んだ瞬間に屋根ごと崩れる。君が熱を出して一日寝込めば、この森の調整機能は完全に止まるんだ」
「……」
「それに、道ができれば人も通る。外の人間が森へ入り、森の連中が外へ出る。誰でも行き来できる場所になるのさ。閉じた箱より、風通しのいい家のほうが長持ちする」
行き来できる。
その言い回しだけが、胸の内側に引っ掛かった。悪くない、と一瞬思い、すぐに奥歯で噛み潰した。捕虜の口車に乗る顔を、洞の入口の闇にさらすわけにはいかない。
ジークの言葉は乾いていた。飾りのない数字と物理の論理で、事実の輪郭だけを突きつけてくる。
洞の入口にかかる吊り布が、音もなく揺れた。
「……聞いていたわ。最初から」
ノアの声が、背後の闇から落ちてきた。
足音はなかった。いつからそこに立っていたのか、気配すらつかめなかった。
彼女は真後ろまで進み、冷たい指を肩口に落とした。引き寄せるでもなく、ただ布地越しに重みを預けてくる。指の腹から伝わる冷気が、鎖骨のあたりを撫でた。
「この男、数字を並べるのが上手いのね。貴方が頷きそうになるところを、ちゃんと外さない」
肩に載った指が、ほんのわずかに強く沈んだ。
「外の話をする時の貴方の顔、いつもと違うもの。いつか貴方は、ここを出て行ってしまうわ」
違う、と言いかけた。
だが、何が違うのかを言葉にする前に、ジークの視線が刺さっているのに気づいて口を閉じた。自分でもまだ、うまく並べられない。
ジークが顔を上げた。鎖で縛られた両手を膝に置いたまま、ノアの立ち姿を見据える。
「……なるほど。そういう配置か」
ジークが低く呟いた言葉は、水滴の落ちる音に消えた。
膝の上の拳を解いた。
ノアの言う懸念は理解できる。外の論理を引き入れれば、今の危うい均衡は壊れるかもしれない。だが、壊れるのを恐れて現状を守ったところで、明日の朝も同じように四件の苦情を受け、午後は別の泥炭地で喉をすり減らすだけだ。
鎖の先端を繋ぎ直すだけの毎日に、終わりはない。
「ジーク。お前をこの洞から出す気はまだない。だが、設計の話は全部聞く」
「構わないよ。図面なら頭の中にいくらでもある」
ジークは壁に背中を預け直し、足を組み替えた。鎖の輪が足首で擦れる。
「一つだけ忠告しておくがね、イーサン」
「何だ」
「その手料理を作った嬢ちゃん、俺の喉笛を掻っ切る隙をずっと探しているぞ」
「知っている。料理の味に文句をつけなければ、今夜は切られない」
ジークの口の端がわずかに吊り上がり、喉の奥で息が漏れた。
「肝に銘じておくさ」
空になった盆を持ち上げ、立ち上がった。
ノアの指が肩から滑り落ち、衣擦れの音が暗がりに残る。彼女は何も言わず、一歩引いた位置から、ジークの足元を見つめ続けていた。
洞の通路を戻る背中に、冷たい空気と水滴の音が追いついてくる。
外の光が差し込む入口へ出た。
目を細めて、頭の中の棚に新しい一件を足す。捕虜の食事当番だ。
朝の四件は、少しも減っていなかった。




