第1話「鎖の先端と、泥の仲裁」
足の裏を押し上げてきたのは、土の奥で脈打つ鈍い地鳴りだった。
その揺れは踵の骨から膝を抜け、背骨の節々を小刻みに叩く。石壁に掛けた鹿革の地図が、かさりと音を立てた。
洞の出口へ向けていた足を止める。足元を見ると、土間に敷いた粗朶の隙間から、黒い土粒が跳ねていた。
〈……北の境界石。また動いた。沼、三尺侵食〉
土竜の地響きだ。人間の耳には地滑りの前触れにしか聞こえない地底の音が、頭の裏で苦々しい言葉になる。
「また影狼か」
〈……影狼。夜になると、縄張りを押し広げる。泥の縁、削られた。ムカデの幼生、三十。行き場、失くした〉
こめかみに指を当て、強く押し回した。皮膚の下で、血管が硬く脈打っている。
影狼が北の境界を削り始めたのは、雪解けの今春からだ。原因をたどれば、西の荒野から鋼甲獣の群れが東へ張り出した。押された影狼が北へ逃れ、その影狼が土竜の泥炭地を踏み荒らす。鋼甲獣が西を捨てたのは、北斜面の黒苔が大量に枯れたからで、苔が枯れた理由は――。
そこまで考えて、無理やり思考を断ち切った。
考え続ければ、手が止まる。今朝の仕事は、その連鎖の果てにある三尺の泥地だ。
「分かった。昼過ぎに泥地の南端で話をつける。影狼の若頭を呼んでくれ」
〈……期待しない。あの若頭、言葉を聞かん〉
「俺が話す。呼んでおけ」
靴底にまとわりついていた震えが、引き潮のように地中の奥へ沈んでいった。
壁の鹿革へ歩み寄る。棚から炭のかけらを拾い、北の湿地を示す歪な円の脇に、新しい黒点を一つ押し当てた。炭が擦れて粉が散り、人差し指の先が黒く汚れる。
洞の奥から、乾いた麻布の擦れる音が近づいてきた。
「若頭を呼んでも、来ないわよ」
ノアの声だった。抑揚のない、平らな音で天井を叩く。
「来なければ、来るまで呼び直すだけだ」
「呼ぶたびに、貴方の足が減るわ。代わりの足はないのに」
「座っていても、泥は戻らない」
炭のかけらを棚へ戻し、布巾で指の腹を擦った。黒ずみは皮膚の溝に入り込み、完全には落ちない。
洞を出ると、朝の薄日も届かない針葉樹の天蓋が広がっていた。
まず南へ向かう。腐葉土が靴の重みで潰れ、発酵した酸っぱい匂いが立ちのぼった。斜面を二町ほど下ると、水草が灰色の泥水に浸かる南の沼地に出る。水面から突き出た朽木の上に、青黒い背中が二つ並んでいた。
水際へ歩み寄り、膝を折って泥に手を置く。
「沼蛙の長」
水面が小さく波立ち、濁った目玉が二つ、浮草の隙間から持ち上がった。
〈朝から騒々しいことだ。念のため言うが、先刻の利息の話なら、まだ受け取っていない〉
「利息の話じゃない。取引だ。ムカデの幼生が三十、北で住処を潰された。南の浅瀬の隅を、三日貸せ」
水面下の喉袋が大きく横に膨らみ、濁った空気が泡になって泥から抜けた。
〈善意というものは、そもそも信用しかねる。泥を分ければ、こちらの藻が減る。不利益と言えなくもない〉
「善意じゃない。昨夜、影狼の若い群れが動いた方角と、森を出た刻限を渡す。北の浅瀬で魚が跳ねている場所も三箇所教える」
沼蛙の眼球が、少し奥へ引いた。水面を覆う膜が細かく揺れる。
〈……三日だ。四日目の朝には出ていってもらう。念のため、もう一度言う。四日目だ〉
「三日で出す」
話は五分でまとまった。
草陰に身を寄せていたムカデの幼生たちに合図を送る。指ほどの太さしかない幼い脚が、泥の上を慌ただしく掻き、一列になって南の浅瀬へ滑り込んでいった。数えると三十。欠けはない。
膝を払って立ち上がった瞬間、頭上の枝が激しく揺れた。羽ばたきが空気を裂き、鋭い風が落ちてくる。
〈北の沼だ! 影狼が入ったぞ。若い連中が十二! 土竜が穴から這い出ている、急げ!〉
風切りの甲高い叫びだった。風圧で外套の裾がめくれる。
泥を拭う余裕はない。地を蹴り、南の淀みから北の境界へ、斜面を駆け上がる。
足の裏に、細かい破砕音がいくつも突き刺さってきた。怒りに任せて地盤を突き崩す、土竜の脈動だ。数が多すぎる。十や二十ではない。巣穴という巣穴から、成体の土竜が這い上がってきている。
息が上がり、冷えた空気で気管の奥が引きつった。
木立を抜けると、強烈な泥炭の匂いが鼻を衝いた。
北の泥地は、もう境界の体をなしていなかった。
掘り返された黒土と腐った倒木を挟み、十歩ほどの距離で、二つの群れが向かい合っている。
影狼は十二頭。体は成獣に近いが、毛並みにはまだ幼い斑が残る若い群れだ。身を低く屈め、剥き出しの白い牙の隙間から、唸り声を漏らし続けている。腹の皮が肋骨に張り付くほど痩せていた。北の斜面で獲物を奪われ、空腹に耐えかねて、独断で動いたのだと一目で分かる。
対する土竜は、湿った黒土から上半身を出し、太い前肢の鉤爪を地面に突き立てていた。爪の後ろには、柔らかい皮膚の幼体たちの頭が蠢いている。
人間の耳には、獣の唸りと湿った地響きが混ざった、不気味な物音にしか聞こえない。けれど自分には、そのすべてがはっきりした意味になって、頭に満ちてくる。
影狼の先頭が、半歩前へ出た。
〈ここは通る。獲物のいる奥へ。邪魔をするな〉
応えるように、足元の泥が跳ね上がった。土竜の爪が土を裂く。
〈通すか。踏み荒らして、また埋めさせるつもりか〉
背筋が粟立った。
影狼の「通る」という音と、土竜の爪が土を叩く「埋める」という振動は、拍がよく似ている。声のかすれや、土を叩く強さが少しずれるだけで、一方には「通過」と届き、他方には「侵略」と響く。
このままぶつかれば、聞き違いだけで殺し合いが始まる。
泥炭地へ踏み込んだ。睨み合う双方のど真ん中へ、大股で割って入る。
「止まれ」
まず影狼の低い喉鳴りで発し、すぐに踵で地面を二度、硬く踏み抜いた。土竜への制止の合図だ。
唸り声が途切れ、土を削る音が止まる。二十以上の視線が、中央に立つ一人に突き刺さった。
「どちらも、まだ何も奪っていない」
泥の染みた外套の裾を握り直し、影狼の正面を見据えた。
「通るだけだと言ったのは影狼。埋められると聞いたのは土竜。同じ拍で、別の意味に届いている。ここから先は、俺が言い直す。一言ずつだ」
影狼の若頭格が喉を詰まらせ、低く吐き捨てた。
〈通る〉
半拍遅らせ、爪先で泥を小さく叩いて、土竜の言葉に置き換える。
「『縁だけを借りる』」
土竜の長が前肢を浮かせ、泥を擦り合わせた。
〈踏み荒らして、埋めさせる〉
喉の奥の息を抜き、影狼の耳に届く高さに合わせる。
「『この前の傷が、まだ痛んでいる』」
影狼の耳が、後ろへわずかに倒れた。
魔物の言葉は、人間の声帯で出すには、音域も息の配分も違いすぎる。息を吸いながら発音し、舌の根を巻き、腹筋を締めて喉を震わせる。一言訳し損じれば、そのまま牙と爪がぶつかる。綱渡りだった。
影狼が不満を吐けば、角を丸めて、土竜の腹に響く言葉に直す。土竜が頑なな拒絶を地中に打てば、過去の恐怖を訴える言葉に整えて、影狼に渡す。
三十分近く、泥の中で言葉の往復を続けた。
やがて、影狼の先頭が鼻先を低く下げた。
〈……今日は、引く。だが、獲物がない〉
「南の浅瀬に魚がいる。道は俺が案内する。土竜の縄張りは踏ませない」
若頭格は背を向け、木立の影へ跳んだ。残る十一頭が、音もなく後に続く。泥の中の土竜たちも、爪を抜き、ゆっくり黒土の奥へ消えていった。
泥炭地が凪いだ。
太腿の筋肉が引きつり、その場に膝をついた。ぬかるんだ泥がズボンを通って、皮膚の熱を奪っていく。
約束していた影狼の若頭は、結局姿を見せなかった。午後の面談は、何も果たされないまま流れた。
自分が来るのが半刻遅れていたら。あの一言の言い換えを、少しでも間違えていたら。いま足元に広がっているのは、泥ではなく血の海だったはずだ。
泥炭に手を突いて立ち上がる。
今日の衝突は防いだ。怪我人も出ず、浸食も止めた。
けれど、何一つ解決していない。
影狼が飢えているのは、鋼甲獣に縄張りを追われたから。鋼甲獣が動いたのは、北斜面の苔が枯れたから。
根は手つかずのままだ。自分はただ、ちぎれかけた鎖の先端を毎日拾い集め、泥を被りながら繋ぎ直しているだけだった。明日になれば、別の場所で鎖が切れる。同じように喉をすり減らして走ることになる。
洞へ戻ると、ノアが石の作業台の脇に立っていた。
作業台の上には、冷めきった野草の煮汁の椀が置かれている。
「終わったの」
「ああ」
「若頭は」
「来なかった」
短く返し、壁の鹿革の前へ歩み寄った。
棚から炭の小片をつまみ上げる。北の湿地の輪郭線、黒点が重なって黒い染みになりかけている場所へ、新たな黒点をもう一つ、硬く押しつけた。
炭が砕け、黒い粒が乾いた床へ落ちて跳ねた。




