↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/27

第0話「朝露と四件の苦情」


 王都の下町、煤けた酒場の隅で、行商人が声を潜めた。

「東の森の魔王の話を知っているか」

 麦酒の泡が、卓の上で静かに潰れる。

「凶悪な魔物どもを、言葉一つで統べているそうだ。影狼も、鋼甲獣も、空を覆う翼竜も、あの男の前では頭を垂れる」

「男? 魔王だろう」

「姿は人間らしい。だが、側には二人の美少女を侍らせているという。銀の髪の氷のような女と、筆を握った黒髪の娘だ。どちらも魔王の足元に跪いて離れないそうだ」

 隣の席の荷役人が、ジョッキを置いた。

「狡猾な参謀もいるって話じゃないか。金と鉄の算盤で、王都の喉首まで押さえたとか」

「ああ。軍隊を一滴の血も流さずに丸裸にした。逆らえば、翌朝にはパンも薬も届かなくなる。恐ろしい男だよ、あの魔王は」

 誰かが十字を切った。誰かが銅貨を卓に置いて、そそくさと席を立った。

 ――そんな魔王にも、ただの苦情処理係だった朝がある。

* * *

 夜明け前の大樹の洞には、いつも重い湿り気が沈んでいる。

 皮袋の栓を抜き、昨夜汲んだ水を一口だけ含んだ。舌の奥がわずかに痺れる。北の沢には鉄の渋みが混じっていて、雨のあとはとくに強い。壁の窪みの油皿に火打ち石を打つと、細い火花が二度散った。乾いた麻糸の灯心が燻り、橙色の光が丸く広がる。

 壁の鹿革には、炭で引いた歪な線が網の目のように重なっている。

 北の岩棚、西の砂地、南の淀み、東の深い茂み。線が交わるところには、黒い点がいくつも打たれていた。古い点は革に馴染んで鈍く沈み、昨日足した点は指でなぞると黒い粉が付く。

 革靴の紐を締め直した。一度ほどいて、乾いた泥を爪で弾き落とし、足首の上で固く結ぶ。外套を羽織り、襟の金具を留めた。

 洞の出口の厚い布を押し上げる。

 朝の冷気が額に触れた。濡れた腐葉土と、青い草をこすったような匂いがする。

 一歩、土を踏み出す。

 靴底が沈みきる前に、頭の上から声が落ちてきた。枝葉の音の合間に、嘴を打ち合わせる硬い響きが混じる。

〈ふん、雲が低い。飛びにくいぞ。何とかしろ、当然だ〉

 上層の枝に爪を立てた風切りだった。細い首を傾げ、片目だけで見下ろしてくる。

「雲は、俺の管轄じゃない」

〈対話者の管轄でない物事が、この森にあるか? ないだろう、当然だ〉

 言い返す間もなく、西の草地から風が吹き抜け、別の音を運んできた。四本の脚が不揃いに地面を蹴る、乾いた音だ。

〈昨日の草と、今日の草が違うぞ! なあ、昨日の草を返してくれ!〉

 草原馬の鼻息が、遠くの草むらをざわつかせる。昨日の草と今日の草の違いなど、人間の目にも舌にも、一生分からない。

 五歩目。東の密林の影から、地面すれすれを這う低い唸りが滑り込んできた。

〈若いのが十二頭、勝手に出たな。止めよ。誰の群れかは、言わん〉

 影狼だ。肝心なことを言わずに丸投げしてくるのが、毎度のやり口だった。

 八歩目を踏むと、足元から、水気の抜けない粘つく音が這い上がってきた。

〈念のため申すが、借りた情報の利息は、まだだろうか。そもそも三日経っている〉

 南の淀みに沈んでいる沼蛙だ。

「利息は取らない約束だ」

〈取らない、とは言っていない。ただし、聞いていない、とは言った。念のため〉

 洞の前の平地に出るまでの十歩で、四件。

 どれも声の高さが違い、速さが違い、要求の筋道もねじれている。

 風切りの声は耳のすぐ上で鋭く鳴る。草原馬の訴えは、横腹を突くように急かしてくる。影狼の唸りは足首に絡みつき、沼蛙の催促は、靴底の泥のようにまとわりつく。

 瞼を下ろし、暗闇の中で四つの要求を頭の棚に並べ直した。優先順位を決めるのに、二秒。誰にも代わってもらえない、毎朝の二秒だ。

 目を開け、息を吐きながら口を動かす。

「風切り、昼前には東から風が入る。飛ぶならそれまで待て。草原馬、北の斜面を見に行け。昨日の草の根が残っている。影狼、若い連中は腹が減れば昼には戻る。群れの名前を言わないなら、それ以上の手は打たない。沼蛙、北の浅瀬で魚が跳ねている。利息の代わりにその場所をやる」

 四つの気配が、それぞれの方向へ少し引いた。

 納得したわけではない。口を挟む隙を、一時的に塞がれただけだ。風切りは爪を研ぐように枝を鳴らし、蹄の音は遠ざかり、狼の影は茂みの奥へ溶け、泥の音は水草の根元へ潜った。

 額の汗を、袖口で拭った。

 王都の学術院が編んだ古い調査記録には、この森がこう書かれている。「知性なき獣の巣窟。意思疎通の成立せぬ空白地帯」。

 実態は正反対だった。

 言葉が通じないのではない。全員が自分の都合で喚き散らし、そのすべてが、ほぼ完全な意味を持って頭に流れ込んでくる。話の通じる相手が多すぎる。終わりのない実務の泥沼だった。

 背後で、吊り布が持ち上がる気配がした。足音はない。

 ひんやりとした指先が、首筋に触れた。銀の髪が肩口に落ちる。

 ノアが背中から腕を回してきた。

 彼女の鼻先がうなじに押し当てられ、肺の奥まで確かめるような、長く深い呼吸が落ちてくる。冷えた肌着越しでも、体温の差が分かった。

「……今日も生きてる。確認」

「毎朝その確認をするな」

「するの。貴方が私の知らない夢を見て、どこかへ行ってしまう気がするから」

 返す言葉を探したが、見つからない。

 ノアは腕を解かないまま、背伸びをして額の生え際に唇を寄せた。触れたところは冷たく、すぐに離れる。

「……子ども扱いするな」

「二十三でしょう。私から見れば、まだ立ち上がったばかりよ」

 ノアの手が伸び、額にかかった前髪を耳の裏へ押し込んだ。その指が髪の先を離れるまでに、わずかな間があった。

 背中に回された彼女の外套の内側で、固くて平らな板の角が、肩甲骨に当たった。

 物心ついた頃から、抱かれるたびに、この冷たい感触が背にあった。一度だけ「それは何だ」と尋ねたが、「古い荷物よ」と返されて以来、二度と口にしていない。

 ノアは無言で、外套の襟元を整えた。泥の跳ねた裾を指先で弾く。道具を手入れする職人のような、淀みのない手つきだった。

 魔物の言葉を教えたのも、この手だ。

 気づいた時には、口から別の声が出ていた。彼女が隣に座り、毎日飽きもせず、発声と耳の傾け方を叩き込み続けた結果だ。なぜノアが魔物の言葉をすべて知っているのか、自分は今も知らない。教わったという事実だけが、日々の仕事の土台になっている。

 ノアの視線が、壁の鹿革へ向いた。

「印、また足したのね」

「影狼と土竜が揉めている」

「今月で何回目かしら」

「五回目だ」

 ノアは人差し指の先で、北の沼地のあたりをなぞった。炭の粉が、彼女の白い指の腹に薄く移る。

「根本は鋼甲獣の移動よ。あっちを先に動かさないと、押し出された影狼が沼へ入る連鎖は止まらないわ」

「分かっている。だが鋼甲獣は交渉に乗らない。あいつらは言葉を聞いた上で、平然と無視する」

「貴方の提示する条件が悪いのよ。鋼甲獣には確実な利益が必要よ。感情論は弾かれるわ」

 ノアの指摘には、無駄がない。

 高い木の上から見下ろすように森の骨組みを捉え、自分にない鳥の目で、危機の輪郭を切り取る。自分にあるのは、地面を這い回る獣の耳と、数百件の苦情処理の経験だけだ。

 二つの視線が重なって、ようやくこの森の均衡は保たれていた。

 洞の奥の石組から、薄い湯気が上がっている。

 ノアが昨夜仕込んだ、干し肉と野草の煮汁だった。木匙で鍋底を掻く音が、洞の壁に小さく響く。椀を受け取ると、木の縁から指先へ熱が伝わった。

「……今日の昼、沼地の南端に行く」

「土竜のところね」

「影狼の若頭を呼んだ。顔を合わせさせて、境界の引き直しをする」

 ノアは椀を両手で包んだまま、湯気の向こうから視線を外さなかった。

「若頭は来ないかもしれないわよ」

「来なければ、また別の手を打つだけだ」

「貴方はいつもそうやって、自分が動く回数を増やすのね」

「座って待っていても、苦情は減らない」

 椀を飲み干し、石の台に置いた。硬い音が一つ鳴る。

 この仕事に誇りがあるかと問われたら、首を横に振るしかない。朝から晩まで、他人の苛立ちと要求を受け止める。魔物の言葉でまともにやり取りできる人間は、この森に自分とノアの二人だけだ。

 誰かがやらなければ、次の朝にはどこかで血が流れる。それだけの理由で、毎日靴の紐を締め直している。

 ……いや、それだけではない。

 影狼の遠吠えも、土竜の愚痴も、風切りの羽音も、ここの連中は朝からうるさい。うるさいが、そのうち一つでも欠けた朝は、きっと静かすぎる。それは困る。そう思っていることは、誰にも言ったことがない。

 足の裏に、かすかな震えが届いた。靴底から脛の骨へ、鈍く重い振動が上がってくる。

 土竜だ。北の沼の底から、苦情の第一波が這い上がってきた。

 約束の午後まで、まだ半日ある。それでも彼らは待てない。穴の奥で泥を掘り返しながら、今この瞬間も腹を立てている。

 外套の襟を立てた。

 炭の粉で黒くなった指先を軽く握り込み、洞の出口の厚い布を押し上げる。

 外の空気が、昨日と同じ冷たさで顔を叩いた。

 一歩踏み出すより先に、頭上の枝が鳴った。

〈遅いぞ、対話者。次の苦情が待っている〉

「分かっている。順番に聞く」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。