第29話「接収と、新聞の黒枠」
雨が上がった翌朝の森は、濡れた鉄と腐葉土の生臭さに包まれていた。
中央トンネルの崩落現場を取り囲むように、鉄の蹄鉄が泥炭を踏み鳴らす規則正しい音が響いている。
南の工区から現れたのは、商業省の作業員ではなかった。
揃いの紺碧の陣羽織。胸当てには王冠を貫く抜身の長剣――王国正規軍、北方軍閥連隊の紋章が刻印されている。長槍を掲げた歩兵四十名が、泥炭の土手に沿って横一列に展開し、工事現場の外周を隙間なく封鎖していた。
作業小屋の前に、軍馬から降りた指揮官が進み出た。
革の長靴に真鍮の拍車を鳴らし、泥を避けるように歩幅を小さく刻む。
手にした羊皮紙を広げると、親方オットーと職人たちの前に立ち塞がった。
「布告する。草刈月七日午前に発生した中央坑道の崩落事故、ならびに火薬類の無許可使用による安全管理の破綻に鑑み、本鉄道敷設工区の全域を王国軍事統制局の直轄管理下に置く」
乾いた官吏の発音だった。
「現場監督官ブレンナーの告発を受理した。工事の遅延および現場の保安上の危機は、魔獣の予測不能な敵対行動に起因するものと断定された。これより、民間技術者および非公認の仲介人による一切の立ち入りを禁ずる」
オットーが鉄鋤を地面に叩きつけようとしたが、歩兵二名の長槍がその胸元へ交差して突き出された。
「ふざけんじゃねえぞ! 火薬を持ち込んだのは役人のほうだ! 俺たちのツルハシを取り上げる権利がどこの軍隊にあるってんだ!」
「反逆罪の適用を望むか、職人」
将校は視線を手元の書状から動かさなかった。
「道具をまとめ、直ちに森の外へ退去せよ。抵抗する者はその場で拘束する」
小屋の軒下から歩み出た。
左腕の三角布を右手で押さえ、歩兵たちの槍衾の前で足を止める。
「将校」
低く呼ぶと、男の眉根がわずかに動いた。
「……貴様が噂の『対話者』か。魔王を気取るのもそこまでだ。軍事法廷に引きずり出されたくなければ、奥の洞へ引き籠もっておれ」
「ここは土竜の坑道の上だ。鉄の杭をこれ以上無秩序に打ち込めば、足元ごと沈む」
「軍の工兵大隊にその程度の計算は不要だ。力ずくで擁壁を固め、軍用規格の軌道を敷設する。……貴様の指図は受けん」
将校が手甲の甲で合図を送ると、十名の兵士が作業小屋の内部へ踏み込み、机の上の測量器具や残された図面の残骸を木箱へ放り込み始めた。
オットーが歯噛みし、拳を震わせる。
商業省の旗が、どこにも見えなかった。クレベルが書類の枠で囲おうとした工区を、軍が横から丸ごと攫いに来ている。制度で囲う者と、力で潰す者が、同じ獲物を取り合い始めていた。
「イーサン、どうすんだ……! こいつら、本気で現場をぶんどる気だぞ!」
「オットー。道具を引け」
右手を挙げ、職人たちを制した。
「今は突っつく時じゃない。全員を連れて、南の宿場へ下がれ」
「だがよ……!」
「引け。飯の鍋は残していくな」
オットーは顎の無精髭を乱暴に毟り、泥炭へ唾を吐いた。
「……分かったよ! おい野郎ども、引き上げだ! 道具箱を背負え!」
職人たちが道具を担ぎ、兵士の監視を受けながら街道へ向けて列をなして退出していく。
工区の境界、木立の暗がりから、ルウが姿を現した。
牙を剥き、四本の太い爪を赤土に食い込ませている。
〈排除するか。理由は明白だ。約束を破った人間が、武器を持って縄張りを塞いでいる〉
「動くな、ルウ」
頭を振った。
「森の奥へ戻れ。境界の線から一歩も前に出るな」
〈……了解した。だが、監視は解かん〉
影狼は身を翻し、音もなく密林の奥へと消えていった。
三日後。
南の関所へ通じる踏み分け道から、駆けてくる足音が近づいてきた。
息を切らし、足をもつれさせながら現れたのは、エレナだった。
紺の官服の裾は泥に汚れ、手挟みも持たずに両手で抱え込んでいたのは、王都から届いたばかりの新聞の束だった。
大樹の洞の入り口へ飛び込んでくるなり、彼女の膝が敷き藁の上へ崩れ落ちた。
「……イーサンさん」
声が震えていた。
胸元を激しく上下させ、手にした紙面を震える両手で卓の上へ広げる。
「王都の……本府から……特報が……」
卓の上に投げ出された粗悪な灰色の新聞紙。
その中央、第一面に、太い黒枠で囲まれた大見出しが躍っていた。
『東部鉄道計画の破綻と寝返り――天才技師ジーク、帝国・軍閥利権連合に合流』
『大陸制圧用・軍用鉄道路線「鋼鉄の蛇」総設計主任に就任』
紙面には、かつてジークが作業台で引いていた測量図の一部が、軍用軌道の略図として転載されていた。
記事の本文には、ジークの談話とされる文言が並んでいる。
『魔物との共存などという蒙昧な空論に、技術の進歩を委ねることはできない。真の流通とは、鉄と力によって自然を従属させることでのみ達成される。我が設計図のすべてを、大陸を貫く軍用装甲列車の軌道へと捧げる』
記事の末尾には、報酬の内訳まで載っていた。過去の負債の全額免除。帝国工学院の終身名誉席。月俸、金貨三十枚。
背後で、紙が擦れる音が止まった。
ノアが作業台の脇に立ち、机の上の新聞を見下ろしていた。
銀髪が少し揺れ、灰色の外套の襟元を右手で押さえている。
エレナの両手が、敷き藁を強く握りしめた。
膝の上で握りこぶしが跳ねる。
「嘘……です……」
エレナの瞳から、大粒の雫が紙面の上へ落ちた。
黒枠の文字が涙を吸って滲み、青黒いインクが繊維に沿って広がる。
「ジークさんは……あんなに、図面を大切にされていたのに……! 草原馬の走りを褒めて、数字を合わせるために何日も徹夜して……! どうして……どうして敵の軍隊に、あの設計を渡してしまったのですか……!」
エレナは胸元に抱えた鞄に顔を押し当て、肩を震わせて泣きじゃくった。
人間側の文官として、あの男の引く線の熱量を誰よりも間近で書き留めてきたからこその、激しい落差だった。
洞の外の樹冠から、風切りの鋭い叫びが落ちてきた。
〈裏切り者だ! あの技師は外の軍隊に巣の位置を売ったぞ! 叩き落とせ!〉
足元の泥炭地からも、地中を擦り上げるような苛立ちの振動が届く。
〈……ジーク。約束、捨てた。坑道の記憶、全部外へ漏らした。許さん〉
森の全域へ、新聞の報せが魔物たちの通信網を通じて瞬く間に伝播していた。
中央を焼き払われ、トンネルを崩された魔物たちにとって、ジークの寝返りは決定的な不信の刃となっていた。
「裏切り者」という罵声が、枝から枝へ、土の割れ目から割れ目へと反響していく。
新聞の端を右手でつまみ上げ、二つに折った。
インクの油臭さが鼻をつく。
紙面の談話を、もう一度だけ目で追った。技師の口から出た言葉のはずなのに、数字が一つもなかった。
机の角へ腰を預けた。
「泣くな、エレナ」
静かに言った。
「……あの男は、図面のためなら何でもやる。最初から、そういう男だった」
「ですが……! 署名も、図面の写しも、本物です……!」
「ああ。本物だ」
それ以上、言葉を重ねることはしなかった。喉の奥に、拳の痛みとは別のものが、鈍く居座っていた。
洞の薄暗がりの中、ノアが一歩前へ進み出た。
彼女は泣き伏すエレナの傍らへ、するりと膝をついた。
灰色の外套の袖口から、白い指が伸びる。握りしめられたエレナの拳の上へ、冷たい掌がそっと重ねられた。
エレナが、濡れた睫毛を持ち上げた。
「……ノア、さん」
「貴女が泣くのは、あの男の図面を、この森の誰よりも近くで読んできたからでしょう」
低く平坦な声だった。慰めの調子はない。事実だけを置く、いつもの話し方だ。
「手帳は、どこにあるの。あの男が最後に口にした数字を、見せなさい」
エレナが鼻をすすり、震える両手を膝の上で組み直した。
「……野営地の、鞄の中です」
「なら、取りに行って。泣くのは、その数字を全部読み直してからにしなさい」
ノアは重ねた手に、わずかに力を込めた。
「私は、あの男の目を見たわ。でも、あの男が何を測っていたのかを知っているのは、貴女のほう。……私には書けないものを、貴女は持っているのよ」
エレナの喉が、ひくりと鳴った。
それから、ノアは初めて、彼女の名を棘のない声で呼んだ。
「エレナ。……私に、その数字を教えて」
エレナはしばらく目を見開いたまま動かず、袖口で乱暴に目元を拭った。
「……はい。すぐに、お持ちします」
エレナは立ち上がりかけた姿勢のまま、こちらを見上げた。
「イーサンさん。……本当に、このままでよいのですか」
「何がだ」
「ジークさんのことです。追わなくても。問い質さなくても。……あの方は、イーサンさんの一番の味方だと、私は思っていました」
「味方かどうかは、あいつが決める」
そう返した。
「……だが、あいつの道に、俺は口を出さないと決めた。あいつも、俺の道に口を出さない。それが、どんな形になってもだ」
「……それは、お別れの言葉ではないのですか」
「さあな。……ただ、あいつがどこへ行っても、俺はあいつの線を信じている。それだけは、変わらない」
それ以上は言わなかった。エレナはしばらくこちらの顔を見つめ、何かを言いかけて唇を結び、深く一礼した。
立ち上がり、洞の外へ駆け出していく背中を、ノアは膝をついたまま見送った。
やがて静かに立ち上がり、洞の入り口の薄明かりへ顔を向ける。
その双眸は、新聞の黒枠ではなく、どこか遠くを見ているようだった。数日前の雨の日、泥まみれのジークが小屋を出て行った背中を、思い返しているのかもしれない。
ノアの薄い唇が、微かに引き結ばれる。
「……三年前は、飯代のためだと言っていたわね」
誰に聞かせるでもない、低い呟きだった。
「今度は、何と引き換えなのかしら。……売る時にだけは、迷わない男よ。あの雨の日に、首を落としておくべきだったかしら」
ノアの呟きに、返す言葉を持たなかった。
卓の上の新聞を丸め、石の棚の奥へ押し込む。
外の工区の方向から、軍閥の兵士たちが打ち込む鉄杭の鈍い音が、一定の間隔を保って森の空気を震わせ始めていた。
* * *
その夜、洞の石卓に蝋燭が二本立てられた。
野営地から戻ったエレナが、革鞄から手挟みを取り出し、ノアの前へ差し出していた。黒枠の新聞は、すでに石の棚の奥に押し込まれている。
「ジークさんが最後に口にした数字は、この五頁です」
ノアは受け取った手帳の頁を、指で一枚ずつめくった。数字の列が、整然と並んでいる。
「……読めないわ。数字が、ではなくて、何を測っているのか」
「荷重の逃がし場所です。ここ、東の谷筋の頁だけ、森の実測と数字が食い違っています。あの日、言い争いの最中にジーク氏が叫んだ数字を、私が書き取りました。基礎杭は三尺で足りる、と。……でも、その深さには、古い排水空洞があるはずなのです」
「あの男は、それを知っていたのでしょう」
「はい。ご自分で図面に落とされた空洞ですから、知らないはずがありません」
ノアの指が、頁の余白で止まった。小さな字が、数行、書き込まれている。
「これは?」
「あ、それは公記録の本文には含めない、私的な控えです」
エレナが慌てて手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。
「……読んで、いいのかしら」
「はい。ノアさんなら」
ノアは蝋燭を寄せ、声に出さずに目で追った。
『ジーク氏、数字を読み上げる際、必ず一拍置く。癖だと思っていた。今は、嘘をつく前の拍だったのかもしれない。』
『ノアさんは、イーサンさんの背中を見ず、背中の向こうを見ている。守る人の見方。』
読み終えたノアは、しばらく動かなかった。
「……貴女は、何を見ているの」
問いは、責める調子ではなかった。
「私には、森が、守る場所と、守れなかった場所に見えるわ。貴女の目には、何に見えるの」
「人間の目から見た森です」
エレナは膝の上で手を組んだ。
「魔物の皆さんは、約束の理由を先に言います。腹が減ったから、卵が冷えるから、赤子が目を覚ますから。人間は、理由を後から作ります。……私は、その差が、とても綺麗だと思ったのです。だから、書いています」
「綺麗」
「はい。ノアさんには、当たり前のことかもしれませんが」
「当たり前では、ないわ」
ノアは手帳を閉じ、表紙を一度撫でた。
「私は、あの子たちの理由を、二十三年、耳で聞いてきたの。でも、それを綺麗だと思ったことは、一度もなかったわ。……貴女に言われて、初めて、そう見える」
エレナの頬に、ほのかな朱が差した。
「……恐れ入ります」
「貴女の目を、借りたいわ」
ノアは手帳を、エレナの方へ滑らせ返した。
「あの男の数字の、続きを読みましょう。私は、あの男の目を見ていた。貴女は、数字を見ていた。二人分で、一人の答えになるわ」
蝋燭が一本、短く爆ぜた。
二つの頭が、一冊の手帳の上に並んで、夜が更けるまで動かなかった。




