第28話「砕けた設計図、男たちの決裂」
救出された四人の作業員が担架で運ばれていくのを、工区の天幕の軒下から見届けていた。
空の底が鉛色に濁り、湿った風が冷気を孕んで吹き抜ける。天蓋の梢を激しく揺らしていた風が止んだ直後、大粒の雨がぽつり、ぽつりと赤土を叩き始めた。
中央トンネルの坑口を埋め尽くした閃緑岩の巨塊は、雨水を吸って黒光りしている。
土煙は雨に叩き落とされ、代わりに立ちのぼったのは、砕けた岩肌から漂う冷えた石粉の臭いと、湿った泥の生臭さだった。
背後で、泥を踏む足音が止まった。
ジークだった。
革筒を抱えた腕が下がり、肩口から雨が滴っている。男は崩れた坑口へ一度だけ目をやり、それから、こちらを見た。
「イーサン。話がある。二人だけで」
「ここで言え」
「職人に聞かせる数字じゃない」
声は低く、疲れていた。
「手戻りの工程と、第二期の拠出の話だ。……小屋を借りる」
少し迷ってから、頷いた。
軒下の隅から、ノアとエレナがこちらを見ている。
「ノア、エレナ。小屋には誰も入れるな」
「……何の話なの」
ノアの声は平坦だった。眼差しがジークの横顔を一度なぞり、こちらへ戻る。
「手戻りの話だ」
「記録は」
エレナが手挟みを抱え直して言った。
「後でいい」
ノアは何も言わなかった。小屋へ向かう二人の背中を、動かずに見送っていた。
板張りの作業小屋の中央には、木製の作業卓があった。泥の跳ねた測量図が、広げられたままになっている。
卓の端に放り出された計算尺の目盛りに、雨漏りの雫が一つ落ちた。
筵を下ろすと、雨音が小屋の内側を丸く包んだ。外の足音も、職人たちの声も、遠くなる。
左腕の三角布は土砂と汗で真っ黒に汚れていた。右手で握っていた鉄スコップを、壁際へ立てかける。鉄が板壁に当たり、ゴトリと低い音が響いた。
ジークが卓の角に手をつき、測量図の上へ炭筆を置いた。
ジークの声は低く、雨がその大半を呑んでいった。
卓の上の図面に、炭の線が何本も増えていく。ジークは一枚を引き寄せ、一枚を脇へ押しやり、また一枚を裏返した。こちらは時々、短く頷いた。
どれほど経ったのか。屋根板を叩く雨が、一度弱まり、また強くなった。
筵の向こうに、二つの人影が立っていた。ノアと、エレナだった。入れるなと言った手前、戸口の外で、動かずに待っている。
ジークの目が、その影へ一度だけ動いた。
それから、炭筆を卓に叩きつけた。
「……手戻りだ!」
折れた芯が、卓の上で跳ねた。
「天端の岩盤が抜けた! 閃緑岩の崩落面を均して、新たに木枠を組み直すだけで最低四十日だ! 草刈月の末日どころじゃない! 第二期の資金拠出は、これで完全に吹き飛んだ!」
ジークの指が、滲んだ図面の上を荒々しく這う。
「ブレンナーの野郎は関所の詰所へ逃げ帰った! あいつは本府の審議会で、事故の原因を『魔物の突発的な暴走』として報告書を上げるはずだ! そうすれば、商業省の手を離れる! 軍閥の工兵隊が正規の討伐令を掲げて進駐してくる口実が、完璧に揃っちまったんだよ!」
男の背中が、呼吸のたびに大きく上下した。
「分かっていたはずだ、イーサン! 午前を二時間回していれば、発破の火薬量を半分に分散できた! 職人を急かさずに、手掘りで閃緑岩の亀裂を確かめながら掘り進められたんだ!」
卓の反対側で、立ち上がった。
「ブレンナーが火薬を持ち込んだのは、あいつの焦りだ」
「その焦りを生んだのは、誰の判断だ!」
ジークの目が、赤黒い血走った光を宿した。
「あいつが独断で走る前に、俺たちが工程の現実を受け入れていれば防げた事故だ! 午前中の停止なんていう融通の利かない縛りを後生大事に抱え込んで、結果として何が残った! トンネルは埋まり、線路は砕け、職人も土竜も死にかけたんだぞ!」
「死ななかった」
「紙一重だったんだよ!」
ジークの拳が、卓の天板を強く叩いた。
乾いた破砕音が、雨足の強まる外の空気へ抜けていく。
その音と同時に、筵が跳ね上がった。
「おやめください! イーサンさん、ジークさん!」
エレナが飛び込んできた。その後ろで、ノアが戸口に立つ。
二人の目に映ったのは、卓を挟んで睨み合う男たちの姿だった。
どちらも、振り向かなかった。
「奇跡は二度起きない! 次に崩れたら、次は確実に死人が出る! 土の機嫌を取りながら引けるほど、鉄の道は軽かねえんだ!」
卓を回り込んだ。
泥のついた右手を伸ばし、ジークの革外套の胸倉を掴み上げた。
布地を強く巻き込み、男の身体を無理やりに引き寄せる。
ジークの顎が上がり、荒い息が顔面に吹きつけてきた。
「数字のために約束を踏み躙るなら、お前の引く線路はただの墓標だ!」
喉の底から絞り出した声が、二人の間のわずかな隙間を殴りつけた。
エレナが、悲鳴のような声を上げた。
「イーサンさんの左腕が……!」
「下がりなさい」
ノアがエレナの肩を掴んで引き戻した。灰色の外套の裾が、雨を含んで重く揺れる。
構わず、声を叩きつけた。
「魔物の言葉を切り捨てて通した道に、誰が荷を乗せる! 外の軍隊と同じ理屈で土を踏み荒らすなら、最初からここへ鉄を持ち込むな!」
喉が裂けそうだった。
「俺は、お前の鉄道で、この森を広げたかったんだ! 潰すために引いた線なら、いらん!」
ジークの奥歯がギリと鳴った。
男の両手が、胸倉を掴むこちらの右腕に伸び、手首を力任せに掴み返してくる。
「綺麗事だけで鉄の道が走るかよ! ここで止まったら、また俺の設計図は紙屑なんだ!」
ジークの形相が歪んだ。
「王都の机の上で没にされ、路地裏で売り払ってきたあの図面と同じだ! やっと……やっと大地の上に線が引けると思ったんだよ! 借金までして付き合ってきたんだ、あんたのクレーム処理に一生付き合ってられるか!」
男は戸口のほうへ、顔を振り向けた。
「帝国の連中は、俺の線を欲しがってる! 借金は帳消し、席も金も用意するそうだ! 魔物の機嫌を取らなくても、線は引ける! あっちなら、俺の図面は紙屑にならねえんだよ!」
数字を叫ぶ前に、ジークは一拍だけ息を止めた。
「東の谷筋の基礎杭は、三尺あれば足りる! 荷重は六百屯まで逃がせる! 軍用の重軌道だろうが、あの谷なら押し通せるんだ! 魔物の穴の心配なんざ、いらねえんだよ!」
エレナの手が、手挟みの上を走った。泣きそうな顔のまま、記録官の手だけは止まらなかった。
エレナの喉から、声にならない息が漏れた。
ジークの右拳が、下から顎先へ向けて突き上げられた。
鈍い衝撃が頭蓋を揺らし、視界が白く弾ける。
掴んでいた胸倉の布地が千切れ、重心が後方へ流れた。
背中が板壁に強く叩きつけられる。
左腕のケロイドに激痛が走り、三角布の中で肉が引き裂かれるような熱が噴き出した。
息を整える間もなく、踏み込んできたジークの身体へ向けて、右の拳を真っ直ぐに突き出した。
乾いた肉の破砕音。
右拳の骨が、ジークの左頬の骨をまともに捉えた。
男の首が横へ跳ね、足元が泥水の上で滑る。
ジークの身体が作業卓の端を薙ぎ倒し、床板の隙間から浸入していた泥水の中へ背中から崩れ落ちた。
卓の上の羊皮紙が宙を舞い、湿った床面へ叩きつけられる。
計算尺が跳ね、泥の中に半ば埋まった。
「ジークさん!」
エレナが叫んだが、ノアの手がその肩を離さなかった。
荒い息を吐き出しながら、壁に背を預けて立った。
右手の拳から血が滲み、雨水と混ざって床板へ滴り落ちる。
ジークの拳は、最初から最後まで、顔と胸ばかりを狙っていた。包帯を巻いた左腕には、一度も触れなかった。
泥の中に倒れたジークは、すぐに立ち上がらなかった。
口の端から垂れた血を手の甲で拭い、床に散らばった濡れた図面を見つめている。
やがて、男は軋むような動作で上体を起こした。
泥水に浸かった羊皮紙の束を、震える両手で掻き集める。
破れ、泥に塗れ、インクの溶け出した図面。
それを一枚ずつ胸元へ抱え込み、外套の内側へ力任せに押し込んだ。拾いきれなかった数枚が、泥の中に残った。
裏返しになった一枚だけは、他のどれよりも丁寧に、折り目をつけずに収めた。
ジークは立ち上がった。
膝の力が抜けかけ、壁に手をついて身体を支える。
腫れ上がった左頬を泥で汚したまま、男は一瞥もこちらへ向けなかった。
ただ、胸元に抱えた図面の膨らみを右手で強く押さえつけ、足を引きずるようにして小屋の戸口へ向かう。
戸口に立つノアの前で、男は足を止めた。ノアは道を空けなかった。男は何も言わず、半身になって、その脇を抜けた。
筵を押し上げる手が、一度だけ止まった。
「……割に合わねえ仕事だったぜ、魔王様」
振り返らずに吐き捨てた声は、乾いていた。
筵を押し上げた男の背中が、外の冷たい雨の中に晒された。
工区の広場には、オットーをはじめとする職人たちが立ち尽くしていた。
誰も言葉を発しない。
手にしたツルハシやスコップを雨に打たせながら、全身を泥に染めて歩み出てきた主任技師の姿を、ただ見つめている。
木立の陰には、ルウを先頭にした影狼の群れが、濡れた毛並みを低く垂らして並んでいた。
黄色い眼球が、雨の中を歩くジークの足元を黙って追っている。
戸口の脇で、エレナが立ち尽くしていた。
胸の前に抱えた手挟みの紙束が、吹き込む雨で濡れている。
握りしめられた真鍮の万年筆の軸が、小さく震えていた。
エレナは唇を噛み締め、去っていく男の背中を見つめたまま、動かずにいた。
その瞳に溜まった水分が、雨の雫とともに頬を伝って落ちる。
戸口を出たノアが、雨の中で立ち止まった。
灰色の外套のフードを目深に被り、雨水が銀の毛先から滴り落ちている。
彼女は瞬きひとつせず、ジークの歩調を見据えていた。
その双眸に宿る光は、いつもの冷徹な拒絶だった。三年前に測量メモを売った男の背中を、彼女は今、売ったあとの背中として見送っている。
去っていく男の肩は、悪びれる様子もなく、ただ抱えた図面の重みで傾いでいた。
ジークは一度も足を止めなかった。
泥炭に足を取られながら、森の外へと続く南の街道の踏み分け道へ向けて、まっすぐに歩き続ける。
破れた図面を抱えた細い背中が、雨煙の白さの中へと小さくなっていく。
やがて、境界の平石を越え、木立の向こう側へと完全に姿を消した。
追わなかった。
激しい雨が、作業小屋の屋根板を隙間なく叩き続けていた。
床板の隙間から流れ込む泥水が、置き去りにされた計算尺をゆっくりと覆い隠していく。
壁に寄りかかったまま、右手で左腕の包帯を強く押さえ直した。
拳に残った痛みが、どちらの骨のものか、もう分からなかった。




