第27話「午前の崩落」
午前半ばの森は、本来ならツルハシの音が止む時間だった。
大樹の洞の石卓で、分散型中継杭の資材帳簿に炭の印をつけていた。
卓の端に置かれた油皿の油が、細かく揺れ始める。
波紋は一つではなく、同心円を描いて皿の縁へ衝突した。
直後、足の裏の岩盤を、下から突き上げるような破裂音が貫いた。
ズウン、と内臓を揺さぶる重い衝撃。
遠くの梢から枯れ枝が何本も折れ落ち、洞の天井の割れ目から赤土の粉がサラサラと机の上へ降ってきた。
ジークが計算尺を取り落とした。真鍮の板が石の床で跳ね、甲高い音を立てる。
「……発破だ」
ジークの唇が強張り、指先が宙で止まった。
「中央トンネルの方向だぞ。なぜだ、午前の掘削は停止の取り決めだったはずだ!」
取り決め。
昨日、エレナが手帳の上で言った言葉が、頭の底で鳴った。あの合意は信頼の貯金だ、と。それが、今、足元で破られた。
返答する前に、地中から届く悲鳴のような振動が靴底を突き抜けた。
土竜の言語ではない。
断末魔の破砕音。圧縮された空気が地盤を引き裂き、支えを失った岩盤が雪崩を打って滑り落ちる、連続した地鳴りだった。
洞の布を跳ね上げ、南へ向けて駆け出した。
左腕のケロイドが、走る上下動に合わせて激しく脈打つ。包帯の内側で引きつれた皮膚が裂け、熱を持った痛みが首筋まで駆け上がった。右手で三角布の結び目を強く押さえ込み、泥炭のぬかるみを蹴破る。
背後からジークの足音が続き、さらにその後ろから、外套をはためかせたノアが風のように並走してきた。
中央トンネルの掘削現場へ通じる切り通しを抜けた瞬間、猛烈な土煙が視界を黄色く塗り潰した。
火薬の焦げた硫黄臭と、粉砕された生石灰の粉塵が鼻腔を突き刺す。
坑口の前に、職人たちが十数人、ツルハシやスコップを投げ捨てて立ち尽くしていた。
その中央、泥に汚れた官服の胸元を握りしめ、尻餅をついている男がいた。
ブレンナーだった。
油で固めていた髪は灰を被って白く汚れ、外れた金糸の襟章が泥の中に落ちている。
その数歩先、親方オットーが、襟首を掴み上げんばかりにブレンナーの頭上へ仁王立ちしていた。太い両腕の筋肉が痙攣するように震え、額の血管が青黒く浮き上がっている。
「てめえ、何をしでかしたか分かってんのか!」
オットーの怒号が、粉塵の煙を裂いた。
「俺が鍛冶場へ行ってる隙に、日雇いの若い奴らに火薬樽を運び込ませやがったな! 午前は手を出すなってあれほど念を押しただろうが!」
「わ、私は……期日を……審議会の期限が……」
ブレンナーの口から、引きつった弁解が漏れる。男の手は泥を掻くだけで、立ち上がることすらできない。
男たちの横をすり抜け、坑口の前へ立った。
惨状が目の前に広がっていた。
昨日まで丸太の支保工が整然と並んでいたはずのトンネルの入り口は、完全に姿を消していた。
天端の閃緑岩が二十間四方にわたって崩落し、何十屯もの巨石と崩れた赤土が、開口部を平らに埋め尽くしている。
崩落した土砂の山から、細い煙が立ち上っていた。
「中に、何人いる」
オットーへ視線を向けずに問うた。
オットーが顎の髭を鷲掴みにし、掠れた声を絞り出した。
「……四人だ。ズリ出しの若いのが二人と、支保工の楔を点検してた大工が二人。逃げ遅れた。……それに、穴の奥には」
オットーが言葉を濁す前に、足元の泥炭地が激しく振動した。
踵の骨を小刻みに打ちのめす、濁った反響。
〈……埋まった。主坑道、十丈にわたって圧壊。……母体二、幼体三。石の下〉
土竜の通信線が、地中で千切れていた。
岩盤が直下の空洞ごと押し潰されたのだ。人間の作業員四名と、土竜の巣穴五体。
閃緑岩の巨大な瓦礫の下、二重の生き埋め事故だった。
「掘るぞ」
足元の泥炭から、柄の長い鉄スコップを右手で引き抜いた。
ジークが駆け寄ってくる。
「待てイーサン、地盤がまだ締まっていない! 今手前を突っつけば、二次崩落が起きて余計に奥が埋まる! 荷重の逃げ場を計算させてくれ!」
「計算している間に、奥の空気が尽きる」
左腕の三角布を歯で噛み、さらに強く引き絞って胴体に固定した。痛む腕は使えない。
右手一本でスコップの柄を握り、瓦礫の斜面へ駆け上がった。
鋭利な岩の角が靴底を滑らせる。
赤土の層へ刃先を突き刺し、渾身の力で土砂を掻き出した。
ザシュッ、と重い湿った音が響く。
掘っても、掘っても、上から新しい砂利がサラサラと流れ落ちて穴を塞ぐ。右手一本の作業では、土砂の流出速度に追いつかない。
踵を崩落現場の岩肌へ打ち当てた。
超低音の打撃を二度、硬く叩き込む。
「土竜! 聞こえるか!」
返答は、足の裏の奥深くから、弱々しい拍となって返ってきた。
〈……聞こえる。だが、石が重い。爪が届かん〉
「下から掘るな! 外周の水脈を伝って、奥の空洞へ空気の穴を一本だけ抜け! 掘削は上からやる、呼吸だけを確保しろ!」
〈……了解。空気、抜く〉
地中の微細な振動が、岩盤の継ぎ目へ向けて移動していった。
次いで、首を巡らせて東の密林の縁を見つめた。
木立の暗がりに、灰色の毛並みが何本も揺れている。
ルウを先頭にした影狼の群れが、低く身を屈めて現場を凝視していた。
喉の奥の筋肉を引き絞り、鋭利な呼気を放つ。
「ルウ! 群れを入れろ!」
木立が割れた。
ルウが斜面を滑り降り、瓦礫の山へ跳び乗ってくる。その傍らには、一回り若い影狼が一頭、肩を並べていた。ルウの下で群れの巡回を任されている、シンだった。十頭を超える影狼が、影のように後に続く。
〈人間を助ける理由がない。掟を破って火薬を焚いたのは外の者だ〉
「土竜も埋まっている!」
スコップの刃を岩の隙間へねじ込みながら叫んだ。
「人間の鼻じゃ、奥の空洞の位置が探れない! 臭いを嗅げ! 生きている奴がいる場所の上に立て!」
ルウの耳が後ろへ倒れた。
〈……理由は受領した。土竜の同盟者を掘り出す〉
影狼たちがそろって瓦礫の斜面へ散らばった。
黒い鼻先を岩の割れ目へ押し当て、激しく息を吸い込む。
三秒後、斜面の上層、巨大な閃緑岩の巨塊の前で、ルウが前肢の爪を岩肌に打ちつけた。
〈ここだ。下に汗の臭いと、土竜の体液の臭いがある。空洞の天井は、この岩の直下だ〉
「オットー! てこ棒を持ってこい!」
岩の上から怒鳴りつけた。
呆然としていたオットーが、弾かれたように顔を上げた。
「おい野郎ども、何突っ立ってやがる! 樫の丸太と金てこ全部分捕ってこい! 魔物が場所を教えてくれてんだ、人間が引いてられるかあ!」
三十人の職人が、工具を抱えて雪崩を打って斜面へ取り付いた。
ジークが先頭に立ち、瓦礫の傾斜を指図する。
「右側の小石から掻き出せ! 巨岩の支点が狂うと下に落ちる! 狼の足元を踏むな、指示された線だけを掘れ!」
雨と泥にまみれた作業が始まった。
土煙が吹き荒れる中、人間と魔物の身体が入り混じる。
職人が鉄のてこ棒を巨岩の隙間へ差し込み、四人がかりで体重を預ける。
浮き上がった隙間へ、影狼たちが太い前肢を差し入れ、鋭利な爪で砂利の塊を掻き出す。狼の強靭な顎が、支保工の折れた丸太を咥えて後方へ引き抜く。
地表の黒土が割れ、土竜の成体が三頭、泥の中から爪を突き出した。
崩落した土砂の下側から、泥を液状化させて外へ押し流していく。
人間が岩を持ち上げ、狼が瓦礫を払い、土竜が泥を流す。
叫び声も、命令もない。
ただ、道具の擦れ合う金属音と、荒い呼吸の音だけが斜面に満ちていた。
右手でスコップを振るい続けた。
手のひらの皮が擦り切れ、柄に血が滲む。
左腕の包帯は泥と汗を吸って真っ黒に汚れ、熱を持った傷口が心臓の鼓動と同じ速さで脈打っている。感覚が麻痺し、腕全体が他人の肉のように重い。
それでもスコップを止めなかった。
掘らなければ、失われる。
煙蜘蛛の長が炎に呑まれた夜の光景が、網膜の裏側に焼き付いていた。二度と、あの灰を森の土の上に増やさせはしない。
一刻が過ぎた頃、巨大な閃緑岩が、ギリ、と重い音を立てて横へずれた。
その直下に、大人が一人這い入れるほどの暗い隙間が開いた。
中から、湿った冷気と、咳き込む人間の声が漏れ出てくる。
「……お、親方……!」
「いたぞ! 生きてる!」
職人たちが歓声を上げ、穴の中へ腕を差し入れた。
引きずり出されたのは、煤と泥に塗れた四人の若い作業員だった。
擦り傷と打撲はあるが、全員が自力で呼吸をしていた。土竜が直前に掘り抜いた空気穴のおかげで、窒息を免れていたのだ。
続いて、穴の底から、湿った黒い頭部が姿を現した。
土竜の母体が二頭、背中の皮膚に幼体を抱えながら、泥炭の上へ這い上がってくる。
爪の先が欠け、体毛に瓦礫の粉がびっしりとこびりついていたが、五体すべてに欠けはなかった。
ルウが鼻先を寄せ、幼体の背中の匂いを一度だけ嗅いだ。
〈……全員、揃っている。欠損なし〉
斜面の上に、全員がへたり込んだ。
職人たちは泥の上に大の字になり、荒い息を吐き出している。
オットーが引きずり出された若い作業員の頭を、泥だらけの手で何度も小突き、それから自らも地面に腰を落とした。
奇跡だった。
大崩落の瓦礫の下から、死者が一人も出ずに全員が救出されていた。
人間も、魔物も。
スコップの柄から右手を放した。
鉄が石の上に落ち、石を打つ音が一つ鳴る。
膝の力が抜け、赤土の斜面に片膝をついた。
左腕の痛みが、遅れて激痛となって押し寄せてきた。歯を食いしばり、呼吸を整えようと深く息を吸い込む。
背後で、足音が止まった。
振り返ると、ジークが立っていた。
男の顔面は土煙で黒く汚れ、手にした図面入れの革筒は、泥に塗れて角が潰れていた。
ジークの視線は、完全に埋没した中央トンネルの坑口に注がれていた。
木製の支保工はすべて圧壊し、敷設されていた仮設レールは飴細工のように捻じ曲がっている。
崩落した閃緑岩の巨塊は、もはや人間のツルハシで掘り抜ける規模を越えていた。
復旧には、数ヶ月を要する。
草刈月の末日の検収期限など、完全に消し飛んでいた。
ジークの指が、泥に汚れた手帳の縁を強く握りしめた。
紙の束が、ミシミシと音を立てて歪んでいく。
男の顎の線が、見たこともない硬さで強張っていた。
木立の陰から、エレナが手挟みを抱えて駆け寄ってきた。
その紺色の官服は泥に塗れ、万年筆を持つ指先が震えている。
さらに奥の大樹の根元には、ノアが立っていた。
雨に打たれるのも構わず、動かない眼差しで、崩落現場とジークの背中を見つめている。
冷たい風が、粉塵の煙を吹き払っていった。
救出の熱気が引いたあとの工区には、壊滅した線路の残骸と、重い泥の匂いだけが沈んでいた。




