第26話「泥団子の受領」
騒乱は起きていなかった。
排水溝の掘削現場には、ツルハシを地面に突き刺した五人の職人が、腕を組んで黙り込んでいた。
溝の縁、掘り起こされた黒土の窪みの前に、一人の人影が膝をついている。
エレナだった。
紺の官服の膝を泥炭に浸したまま、微動だにせず地面を見つめている。
彼女の正面、わずか三歩の距離に、土竜の成獣が二頭、泥の中から上半身をせり出していた。
太い前肢の鉤爪を黒土に食い込ませ、湿った鼻先をひくつかせている。
エレナの両手は、膝の上で握り固められていた。
肩の筋肉が強張り、吐き出す息が白い膜を作って揺れている。
その足元、二頭の土竜とエレナの間に、先ほどの木板が置かれていた。
板の表面。
丸い窪みの上に、湿った黒土を丸めた団子が、一つ、確かに乗せられていた。
草を踏み分け、歩み寄った。
足音に気付いた土竜が、前肢の爪を土から引き抜いた。
〈……対話者、来たな。この人間の打った音、受け取った〉
地中から届く鈍い振動が、踵を打つ。
〈……溝をあと三尺東へ振れ。それなら、換気孔は避ける〉
「受領した。オットーに東へ振らせる」
踵で一度踏み抜き、合意を返した。
土竜たちは頭部を沈め、音もなく泥炭の奥深くへ潜っていった。
泥の上に膝をついたままのエレナの前へ立ち、腰を落とした。
彼女は顔を上げない。
握りしめられていた両手の指先が、白くこわばったまま、膝の布地を掴み続けていた。
「エレナ」
声をかけると、彼女の肩が小さく跳ねた。
ゆっくりと持ち上がった顔は、冷気で青ざめていたが、見開かれた瞳の奥には確かな焦点が残っていた。
「……団子が、置かれました」
掠れた声だった。
「教わった通りに、石で叩きました。動かないでくださいと職人さんにお願いして……爪が出てきても、手を引かないようにして……」
木板を右手で拾い上げた。
表面の泥団子は崩れておらず、土竜の爪痕が表面に一筋刻まれている。
「よくやった」
短く告げた。
エレナの息が、肺の底から一気に抜けた。
固く握られていた両手の指がゆっくりと解け、泥で汚れた掌が、膝の上で一度だけ小さく震えた。
彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばした。
目元に朱が差し、呼吸のたびに胸元の布地が大きく上下する。
「……通じました、イーサンさん。言葉が分からなくても、約束の形があれば……止まってくれました」
「仕組みが機能した証拠だ。立ち上がれ。泥がしみるぞ」
「あの……もう一点、気づいたことがあります」
エレナは手挟みを開き、数枚前の頁を指で押さえた。
「先日、影狼とオットー親方の間で『午前は発破と杭打ちを止める』と取り決められました。土竜は午前、夜の記憶を整理する時間だと伺いました。その時間を守られたことで、今日、ツルハシを置いてほしいという依頼が、受け入れられやすかったのだと思います。信頼の貯金があったから、板が通じたのです」
彼女は一度、言葉を区切った。
「あの合意は、今日の私を守っています。……ですから、あれが破られた時は、通じないどころでは済まない気がして」
「記録しておけ」
「はい。すでに、書いてあります」
手を差し出すことはせず、自ら立ち上がった。
エレナは泥炭に手を突いて自力で立ち上がり、手挟みの金具を指先で確かめた。
その足取りには、先刻までの怯えの色は消えていた。
工区の境界、木立の暗がりに、人影があった。
ノアだった。
灰色の外套を羽織った細い影が、十歩離れた茂みの陰に直立している。
銀髪が木漏れ日を浴びて淡く光っていた。
彼女の眼差しは、泥板を抱えるこちらでも、泥を払うエレナの服でもなく、二人の間に残された足跡の距離に落ちていた。
魔物語を解さぬ人間が、記号を介して魔物と合意を取り交わし、その成果を分かち合っている。その間に生まれた、言葉を必要としない重みを、彼女は測っているようだった。
ノアの指先が、外套の袖口を強く握り込んだ。
衣擦れの微かな音が、木陰の奥で小さく鳴る。
彼女は唇をきつく引き結び、一言も発することなく、その光景を冷たい眼差しの底で見つめ続けていた。
オットーが遠くで大声を張り上げた。
「おい! 溝を東へ三尺振るぞ! 土竜の旦那方の換気口を避けるんだ! ツルハシを担げ!」
職人たちの足音が再び響き始め、鉄と石がぶつかり合う音が、森の空気を震わせた。
エレナが小走りに追ってくる。膝には泥がついたままで、手挟みだけが汚れていなかった。
日が傾く頃、大樹の洞へ戻ると、石卓の端に木椀が二つ並んでいた。
どちらも薬草の湯気を立てている。色も、匂いも、ほとんど同じだった。
「……二つ要る理由があるのか」
「私のは、朝から煮ていたわ」
卓の向こうで、ノアが膝を抱えるように座っていた。視線は、椀に向いていない。
「あの人のは、先ほど置いていかれたの。『泥で冷えるといけませんから』って」
声は平坦だったが、爪の先が、卓の縁を小さく叩いていた。
どちらから取るべきか、一瞬考えた。
考えた時点で、間違いだったらしい。
「……両方飲む」
「そう。なら、私のを先にしなさい」
ノアが椀を取り、こちらの右手へ押し付けるように持たせた。
「熱いうちに。……手は、まだ冷たくないわね?」
指が手の甲をなぞる。確かめるというより、居場所を主張する触れ方だった。
椀を傾けた。苦味の奥に、ほのかな甘さがある。
「甘いな」
「蜂蜜を足したの。貴方、苦いと残すでしょう」
「失礼します! 午後の記録を――」
戸口で、エレナが足を止めた。
椀を持つこちらの右手と、そこへ添えられたノアの指を、一度ずつ見る。
それから手挟みを抱え直し、石卓の反対側へ歩み寄ると、もう一つの椀を、こちらの前へ静かに押し出した。
「そちらは、私が淹れました。甘くはありませんが、土竜の泥を落とすのに効く薬草です」
「どちらも飲むと言った」
「では、順番を記録します」
エレナはさらりと言って、万年筆を構えた。
「ノアさんのお椀が先、私のが後。……記録上は、同点です」
ノアの肩が、ほんのわずかに揺れた。
「同点にしておいてあげるわ」
「恐れ入ります」
二杯の薬草汁を、順番に空けた。
どちらの味が良かったかは、口に出すと面倒になる気がして、言わずにおいた。
空の椀を置くと、ノアが卓を回り込み、隣の丸太椅子へ腰を下ろした。
「疲れたわ」
「そうか」
「肩を貸しなさい」
返事を待たず、銀の髪が右肩に乗る。
エレナの万年筆が、一瞬だけ止まった。それから何事もなかったように、また紙の上を走り出す。
「ノアさんが洞を守ってくださるから、私たちは外へ出られます。……記録しておきます」
ノアの頭が、肩の上で少しだけ動いた。
「……よく見ているのね、貴女」
「記録官ですので」
その声が、ほんの少しだけ笑っていた。
* * *
その夜、洞の前の平地で、ノアが焚き火の薪をくべていた。
エレナが記録を終えて戻ってくると、彼女は顔を上げずに言った。
「昼間、土竜の前で、手を握りしめていたわね」
「……はい。気づかれていましたか」
「あの子たちは、握った手を、警戒の合図だと読むの。貴女が怖がっているのは、伝わっていたはずよ。伝わっても、待ってくれたのは、貴女が動かなかったから」
エレナは手挟みを抱え直した。
「どうすれば、よいのでしょうか」
「魔物の言葉は、教えないわ。それは私の分」
ノアは火かき棒の先で、薪の位置を一つずらした。
「貴女には、待ち方を教える。……座って」
エレナが焚き火の前の平石に腰を下ろすと、ノアはその両手を取った。冷たい指が、握り込まれていた拳をゆっくりと解く。
「待つときは、手を膝に置くの。握らない。握ると、急かしているように見えるから」
「はい」
「それから、拍の間を、数えない。数えると、返事を欲しがる顔になるわ。……音が途切れたら、息を一つ吐いて、足の裏を、土に預けるの」
「足の裏を、預ける」
「やってみなさい」
エレナは目を閉じ、靴底を地面に押し当てた。しばらくして、小さく息を吐く。
ノアは、そのまま隣に腰を下ろした。
「……どう」
「何も、聞こえません」
「当然よ。貴女の耳は、人間のものだもの」
「ですが」
エレナは目を開けた。
「土が、冷たいことは、分かりました。夕方の湿り気が、足の裏に上がってくるのが」
「それが、あの子たちの、一日の始まりと終わりよ」
ノアの声は、いつもより柔らかかった。
「聞こえなくていいの。待てる人間は、それだけで、あの子たちには信用できる人間よ」
エレナは小さく頷き、手挟みの頁をめくりかけて、やめた。
焚き火の爆ぜる音の中で、二人はしばらく、何も書かず、何も話さなかった。




