第25話「通訳補助エレナ」
南から吹き抜ける風が、湿った赤土の臭いと砕石の粉塵を巻き上げていた。
大樹の洞の前に据えられた石卓の上には、三分割された工区の割り振り図が広げられている。ジークが真鍮の分度器の角で、北の山岳帯の取り付き道路と、南の泥炭地の排水溝を交互に指した。
「オットーの連中、午前の掘削制限を守ってはいるが、その分だけ資材の運搬速度を上げている。結果として、動線の端と端で軋みが出始めたな」
「どこだ」
左腕を吊るした三角布の位置を右手で直す。
「北の第三工区と、南の排水幹線だ。北じゃ高台の砕石降ろしで風切りの営巣地の下に粉塵が舞い上がっている。南じゃ排水溝の掘り割り部が、土竜の未明の換気孔に干渉しかけている。……両方とも、今すぐ現場で境界の引き直しをやらなきゃ、作業員が道具を放り出すぞ」
ジークが言い終えるより早く、頭上から鋭い羽音が落ちてきた。
風切りの若鳥が一羽、石卓の端の枯れ枝へ爪を立て、嘴を打ち鳴らす。
〈白い粉が巣に入ったぞ! 卵が白くなっている! 人間の車を止めろ、今すぐだ!〉
ほぼ同時に、足裏の黒土が下から突き上げられた。
踵の骨を小刻みに叩く、不規則で硬い打撃音。
〈……南の溝。深すぎる。赤子の部屋の天井、削られた。泥を戻せ。埋め直さねば、上を崩す〉
二つの要求が、完全に重なっていた。
北の山岳帯と、南の泥炭地。距離にして三町半。同時に駆けつけることはできない。
どちらか一方の現場へ走れば、残された側で爪かツルハシが振るわれる。
「……耳が足りないな」
ジークが炭筆を置き、腕組みをして眉間を指の背で擦った。
「北の風切りはオットーの職人が直接相手をしたら、投石と嘴で現場が血の海だ。南の土竜も、一言間違えれば地盤を抜かれて荷車が埋まる。……どちらか一方を捨て置くわけにはいかないぞ」
外套の襟を右手で合わせ、周囲を見渡した。
ノアは洞の入り口で、手入れ用の油布で短剣の刀身を拭っている。彼女を南へ向かわせれば、土竜の抗議を待たずに工区の人間を排除しかねない。
視界の端、調査団の天幕の脇で、木製の手挟みを抱えて直立している姿があった。
エレナだった。
紺色の官服の裾に泥をつけたまま、こちらの手元と手帳の間を真剣な眼差しで往復させている。
大股で歩み寄り、彼女の目の前で足を止めた。
「エレナ」
「はい、イーサンさん」
彼女は手挟みを抱え直した。真鍮の万年筆の軸を握る指先が、やや強張る。
「南へ行け」
エレナの瞬きが一度止まった。
「……南、ですか?」
「排水溝の現場で、土竜が工事の中止を求めている。掘削が換気孔に触れた」
「ですが、私は……魔物の言葉を解しません。直接お話しすることは……」
「話す必要はない」
腰の革袋へ右手を差し入れ、平たい木板を一枚引き出した。
かつてジークとともに考案した、共通シンボルの泥板の写しだ。
表面には、指の腹で抉り取られた三つの溝と、丸い窪みが並んでいる。
「これを持っていけ。土竜の坑道口の土の上に、この板を平らに置け」
板の表面を親指で示した。
「中央の丸い窪みを、親指先で二度強く叩く。そのあと、板の横の地面を小石でト、トンと一拍置いて打て」
エレナが手挟みを左脇へ挟み、両手で木板を受け取った。
板の端を握る彼女の指が、白くなるほど力んでいる。
「……この記号は、何を意味するのですか」
「『境界確認の要請』と『対話者が後で向かう』という事務連絡だ」
「事務、連絡……」
「和解を取り結ぶ必要はない。オットーの職人たちにツルハシを置かせ、この記号で土竜の爪を止めろ。半刻の間、双方をその場で座らせておけばいい」
エレナは木板の凹凸を見つめた。
表面の溝を人差し指でなぞる。
「土竜が……記号を受け取ったかどうかは、どのように確かめればよいでしょうか」
「板の上に、泥の団子が一つ置かれる。それが受領の印だ。泥が乗るまで、その場から動くな」
エレナの喉仏が上下した。
背筋が伸び、官服の合わせ目を左手で引き寄せる。
「……承知いたしました。職人方を止め、板を叩いて待機させます」
「任せる」
背を向け、北の山岳帯へ向けて駆け出した。
北の斜面へ取り付くと、砕石の白い粉塵が風に巻いて視界を塞いでいた。
高台の作業台の脇で、オットーの配下の職人三名が、手押し車を抱えたまま立ち往生している。
頭上からは十羽を超える風切りが低空をかすめ、嘴から小石をばら撒いていた。
「止まれ!」
右手を突き上げ、喉の奥から鋭い破裂音を放った。
風切りたちが急旋回し、岩棚の枯れ松へ爪を掛ける。
〈対話者! 粉を止めろ! 巣の卵が冷えるぞ!〉
「オットー!」
斜面の下へ向けて怒鳴る。
「散水用の革袋を上へ上げろ! 砕石に水を打ってから滑り台へ流せ! 粉を立てるな!」
斜面の下から、オットーの野太い怒声が返ってきた。
「おい、水樽を運べ! 砂利にぶっかけろ! 埃立てて鳥の旦那方を怒らせんじゃねえぞ!」
職人たちが走り、水を含んだ砕石がしっとりと重い音を立てて木製の滑り台を流れ落ち始める。
風切りの長老が嘴を鳴らし、羽毛の埃を払った。
〈……湿っていれば構わん。ただし、飛ぶときは知らせろ、当然だ〉
北の揉め事を収めるのに、二十分を要した。
泥の斜面を一気に駆け下り、南の工区へ向かった。
左腕のケロイドが、走る振動のたびに脈打ち、熱を帯びた痛みが肩口へ突き抜ける。
足元の黒土が、南へ進むにつれて湿り気を増していく。
南の泥炭地が見えた瞬間、足を緩めた。




