第24話「狼の挨拶と、爪の溝」
南の工区は、すでに騒乱の様相を呈していた。
木立の端が二十間ほど切り開かれ、剥き出しになった黒土の上に、丸太の足場が組まれている。
中央で大声を張り上げていたのは、背の低い、樽のように横幅のある男だった。
頭に汗止めの麻布を巻き、袖を千切った革胴着から、丸太のように太い腕を剥き出しにしている。顔中を覆う赤茶色の無精髭。右手の親指の爪は、過去に石で潰されたのか平たく割れていた。
親方オットーだ。
「おい、もっと深く掘れ! 腐葉土を漉き取らねえで砂利を入れたら、雨一発で線路が踊り出すぞ! 手を動かせ、飯の種が逃げちまうぜ!」
オットーが樫の柄の大きな鉄鋤を地面に突き刺す。ドス、と鈍い破砕音が鳴る。
その作業の手が、唐突に止まった。
木立の暗がり、十歩ほど離れた下草の隙間に、灰色の影が落ちていた。
成体に近い太い前肢。四つの爪を土に食い込ませ、黄色い眼球を瞬きもせずにこちらへ据えている。
ルウだった。
その背後、密林の陰から、さらに二頭の影狼がするりと姿を現す。
牙を剥くでもなく、唸り声を上げるでもない。ただ、彫像のように直立し、作業員たちの手元を冷徹に見つめていた。
足場の丸太の上で、リコという名の若い石工が手元を狂わせた。
手にした十斤の大槌が、指先から滑り落ちる。
ガラン、と甲高い金属音を立てて小石の上へ転がった。拾い上げようとした指先が、樫の柄の上で二度滑った。
「お、親方……! で、出ました……! 狼です、化け物です……!」
四十人の職人たちが一斉に動きを止めた。
ツルハシを構えたまま腰を落とす者、荷車の陰へ後退る者、鉄鋤の刃先を胸の前に突き出す者。
オットーが顎の髭を鷲掴みにし、地面へ唾を吐き捨てた。
「チッ、またかよ! おいジークの旦那! 話が違うじゃねえか! 安全は保証するって言ったのはどこのどいつだあ!」
オットーが鉄鋤を地面から引き抜き、大股でこちらへ詰め寄ってきた。
男の身体から、乾燥大蒜の刺激臭が真っ直ぐに吹きつけてくる。
「魔獣の巣窟だってなぁ聞いてたがよ、仕事中に喉首狙われてたんじゃ、いくら腕のいい職人でもツルハシが振れねえぜ! 飯食う時も寝る時も、背中に穴が開くほど睨まれてちゃ商売上がったりだ!」
オットーの二歩手前で足を止めた。
「ルウは喉首を狙っていない」
淡々と告げると、オットーが太い眉を吊り上げた。
「ああん? 狙ってねえだと? あの目を見ろ、獲物の品定めそのものじゃねえか!」
「境界の確認に来ただけだ」
右手を上げ、ルウの方へ向けた。
「ルウ。前へ出ろ」
密林の縁から、影狼が進み出た。
歩調は均一で、足音を立てない。
職人たちがざっと三歩後退り、大槌の柄を握る手に汗が滲む。
ルウはオットーの五歩手前、掘り起こされた赤土と草地の境目で足を止めた。
前肢を揃え、腰を落とす。
そして、鼻先を低く下げ、地面の土へ向けて一度、深く呼気を吹きつけた。
魔物語の硬質な響きが、喉の奥から発せられる。
〈我らは東の密林の群れだ。この草の筋より奥を狩場とする。……お前たちが掘る土の匂い、受領した〉
オットーが怪訝そうに目を瞬かせた。
「……おい、今、なんて唸ったんだ」
「挨拶だ」
オットーの目を見て、一言ずつ翻訳した。
「『自分たちは東の密林の群れだ。この草の筋から奥が縄張りだ。お前たちが土を掘る理由と、その境界の匂いを確認した』と言っている」
ルウが前肢の爪を伸ばし、掘り起こされた土の縁に、横一文字の深い溝を刻んだ。
〈この溝を越えて木を伐らぬ限り、牙は立てん。理由は、無駄な損耗を避けるためだ。……ただし、土の上の香辛料の汁は拭え。地下の同盟者が眠れんと騒いでいる〉
「『この溝を越えなければ、襲うことはない。理由のない戦いはしないからだ』」
続けてルウの要求を渡す。
「『ただし、飯の汁を地面に垂らすな。地下に住む土竜が苦情を立てている。作業の時間を分ける』」
静寂が工区を満たした。
風が吹き抜け、ルウの灰色の毛並みを揺らす。
オットーは鉄鋤を握ったまま、地面に引かれた爪の溝と、直立する影狼の姿をじっと見比べた。
やがて、男の手首から力が抜けた。
鉄鋤の石突きが地面に落ち、コトンと硬い音が鳴る。
「……魔物が、挨拶するたぁ世も末だな」
オットーは髭を手の甲で乱暴に擦った。
「話が通じるってのは本当だったのかよ。境界を引いて、筋通してきやがった」
「守れるか」
「当たり前だろ、誰に物言ってやがる」
オットーは肩を回し、後ろの職人たちへ向けて怒鳴り散らした。
「おい野郎ども、聞いたな! あの溝より奥の木に手をつけたら、この親方のツルハシが頭に落ちると思え! それから残飯の鍋だ! 穴掘って灰被せて、土の下へ汁を染み込ませるな! 筋通されたら職人は引けねえんだよ!」
職人たちが互いに顔を見合わせ、やがて大槌を持ち直した。
先刻までの怯えの色が、作業の緊張感へと置き換わっていく。
「それから、もう一つ条件がある」
オットーを見据えて告げた。
「午前の二時間は、発破と杭打ちを止めろ。土竜が夜の記憶を整理する時間だ。掘削は午後からにしろ」
オットーは眉の端を跳ね上げたが、地面に引かれた爪痕を見下ろし、鼻から太い息を吐いた。
「……午前に砕石を運んで、午後に叩き込む段取りに組み替える。おい、午前はツルハシ置け! 荷車の油差しと石の選別だ!」
木立の陰へ戻ると、ジークが羊皮紙の手帳に新しい工程表を書き込んでいた。
「午前停止の午後施工か。工期は一割延びるが、土竜の機嫌を損ねて地盤を抜かれるより遥かに安上がりだな」
「オットーは話が早い」
「職人だからね。図面通りに筋が通れば、相手が狼だろうが化け物だろうが文句は言わないのさ」
工区の入り口に、馬を乗り入れてきた男がいた。
金糸の襟章を付けた商業省の官服。油で撫でつけた髪に、懐中時計の鎖を弄ぶ指。外部通商部から出向してきた現場監督官、ブレンナーだった。工区の進捗を本府へ報告する立場で、工期の遵守だけを取り柄にしているような男だ。
「午前は掘削停止だと? 四十人の人夫に給金を払って、半日遊ばせるつもりか」
「午前は搬入と選別に回す。工期は一割延びる」
ジークが即座に工程表を突きつけた。
「一割だと。草刈月の末日の検収に、第二期の拠出が懸かっているのだぞ。期日は、首席書記官クレベル殿が自ら定められた。審議会は遅延など認めん」
「無理に詰めれば、足元ごと崩れる」
「その判断は、君たち現場の責任だ」
ブレンナーは懐中時計の蓋を閉じ、舌打ちを一つ残して馬首を返した。
背中が木立の向こうへ消えるまで、誰も何も言わなかった。
「……焦っているな、あれは」
ジークが、工程表を丸めながら呟いた。
「焦らされているんだよ。あの期日を切ったのは、クレベルだ」
「試験か」
「イーサンが現場を離れても、工事が回るか。あいつはそれを見ている。ブレンナーは、採点表を持たされた駒にすぎない」
背後で、エレナが万年筆を走らせていた。
木製の手挟みの上で、真鍮のペン先が規則正しく紙を刻む。
『影狼ルウ、工事現場の境界にて対話の儀礼を執行。境界線の設定および香辛料の投棄制限を提示。親方オットー、これを現場規律として受領』
エレナは顔を上げた。
「記録しました。……数字にはなりませんが、現場が動くための大切な規律です」
「好きに書け」
それだけ返し、作業台の奥へ目を向けた。
ノアは、大樹の洞の入り口の平石の上に腰を下ろしていた。
灰色の外套の裾を膝の上に揃え、手元の小刀で細い薪の角を削ぎ落としている。
平地の向こうで、四十人の職人たちが整然と動き始めていた。
石を運ぶ荷車の音。泥を均す木鍬の擦過音。
人間と魔物の間に引かれた一本の細い溝の上を、冷たい風が通り抜けていく。
ノアの小刀が薪の節を断ち切り、足元へ乾いた木屑が一つ落ちた。
森の日常へ、外の人間たちの確かな重みが、一寸ずつ杭のように打ち込まれ始めていた。




