第30話「静かなる兵糧攻め」
軍閥の工兵隊が持ち込んだ削岩機が、朝の湿原を引き裂くような高音を立てていた。
南の工区の周囲には、高さ八尺の木柵が三重に打ち込まれている。先端を削り出した太い杭の外側には有刺鉄線が張り巡らされ、等間隔に配置された歩兵が、篝火の油煙の中でクロスボウの弦を引き絞っていた。
木柵の内側では、百人を超える兵士と徴用された工夫たちが、泥炭の上に泥除けの粗朶を敷き詰め、中央トンネルを迂回する新軌道の盛土を強行している。
木立の奥へ向けて、刺激臭を放つ硫黄の燻煙が定期的に吹き込まれていた。
獣除けの毒煙だ。
風下に位置する低木林では、若葉が黄色く縮れ、下草に潜んでいた地虫が白く泡を吹いて転がっている。
大樹の洞の前に据えられた石卓の周囲に、森の気配が濃密に沈殿していた。
影狼ルウが前肢の爪を土に立て、低く身構えている。右耳の欠けた先端が細かく跳ね、剥き出しの犬歯から粘つく唾液が下草へ落ちた。
〈密林の全三十頭、風上を取った。理由は明白だ。あの柵を倒し、毒を焚く人間の喉笛を食い破るためだ〉
上空の枝が激しく揺れ、風切りの長老が嘴を鳴らした。
〈空からも岩を落とせるぞ! 削岩機の鉄筒を叩き割る! 排除すべきだ!〉
足元の泥炭地からも、地中を突き上げる鋭い振動が届く。
〈……坑道、煙が沁みる。赤子が咳をしている。泥を抜いて、柵ごと奴らを沈める〉
全種族の殺気が、一本の切っ先となって軍閥の工区へ向いていた。
一度合図を出せば、木柵は半刻を持たずに粉砕され、百二十名の兵士は泥炭の底へ引きずり込まれる。
三角布で吊った左腕を右手で押さえ、石卓の端へ歩み寄った。
「爪を収めろ」
低く、抑揚を捨てて放った。
ルウの咽喉が鳴りかけたが、視線で制する。
「一頭も前に出るな。嘴も石も使うな」
〈なぜ止める!〉
風切りの長老が太い横枝を爪で削り、木屑を散らした。
〈奴らは木を倒し、煙を撒いている! 前の領主の兵と同じだ、叩き潰すのが筋だ!〉
「兵士を殺せば、次は王都から五百人の連隊が火炎壺を満載した荷車を連ねてやってくる」
石卓の上の鹿革の地図を、右手で裏返した。
「相手が望んでいるのは、軍事的な衝突の口実だ。『魔物が暴走したから討伐した』という書類を作らせるな」
〈ならば、あの毒を吸い続けろと言うのか〉
ルウが前肢の爪をさらに深く土へ食い込ませる。
「吸わせない」
石卓の脇の棚から、真鍮の鈴が三つ吊るされた木札を取り出した。
内部郵便網の開通時に、緊急停止を知らせるためにジークとともに作った合図札だ。
「今日から、森の線を全部止める」
卓の前に立っていたエレナが、抱えていた手挟みをやや引き寄せた。
紺の官服の襟元を正し、真鍮の万年筆を構える。
「……全線の、停止ですか」
「そうだ。外へ流れているものを、一つ残らず堰き止める」
木札を石卓の中央へ置いた。金具が小さく鳴る。
「風切り、南の関所への伝令便を遮断しろ。王都へ向かう早馬の書状も、森の領空を通過させるな。一通の紙片も外へ落とすな」
長老が大きな翼を半ば開き、羽ばたきの風を起こした。
〈飛ぶものを止めるのか。……承知した。羽毛一本通さんぞ、当然だ〉
「ただし、今日から指示は板で出す」
石卓の端の記号板を、長老の前へ滑らせた。
「俺の口を待つな。若い者に、この板の読み方を教えろ。通過、停止、迂回。三つだけでいい」
〈……お前の声が届かぬと、翼が迷う〉
「迷っても、板を見れば戻れる。そう作った」
長老は嘴で板の縁を二度つつき、角度を変えて睨んだ。やがて、渋々といった調子で羽をたたんだ。
〈……三枚、枝に掛けろ。試してやる。当然だ〉
受領だった。自分がいなくても翼が動く。胸の内側で、何かがひとつ、ほどけた。
「土竜、南の湿地帯へ回れ。水脈を堰き止め、薬藻の群生地を泥の底へ沈めろ。人間の摘み手が手を出せない深さまで隠せ」
足元の泥炭地が、静かに一拍だけ沈んだ。
〈……隠す。根ごと、底へ沈める〉
「煙蜘蛛の若い六本脚は、街道沿いの樹冠に粘着糸を三重に張れ。採取人が入る踏み分け道を全部塞げ。影狼は西の草原馬と連携し、森の外縁の荷車用迂回路を物理的に封鎖しろ」
ルウが黄色い眼球を細め、前肢を引いた。
〈血を流さずに首を絞めるのか。論理的だ。ゆえに受領する〉
影狼の群れが身を翻し、木立の暗がりへ散っていった。
森の血管が、音もなく収縮を始めた。
それは軍靴の音を立てる進軍ではなかった。
ただ、日常の受け渡しを拒絶する、巨大な静寂の行使だった。
一日目。
南の街道の詰所に、王都へ向かう伝令の早馬が三頭、泡を吹いて立ち往生した。
東部国境の警備連隊が発した「兵站補充要請」の急使だったが、森の近道を塞がれ、外周の岩山を迂回した馬は蹄を割って倒れた。
定期飛脚の鞄は空のまま、関所の台帳には「未達」の赤字が並び始めた。
二日目。
王都の大通りに店を構える薬種問屋街で、最初の歪みが生じた。
東の森の深部からしか採れない「月見水苔」と「紫泥草」の荷車が、定刻を過ぎても一両も到着しなかった。
これらは流行病の解熱剤と、鉱山労働者が肺を患った際に用いる鎮痛薬の必須原料だった。
問屋の番頭たちが関所の役人へ詰め寄り、羊皮紙の買い付け証明書を突きつけたが、役人は首を横に振るしかなかった。
「森の採取人が一人も戻ってこないのだ。踏み込もうとした人夫は、樹冠から垂れ下がった粘着糸に絡め取られ、身動きが取れなくなって逃げ帰ってきた」
三日目。
影響は貴族街の食卓と通信網へ波及した。
湿原の底から汲み上げられる高純度の泥炭燃料が途絶え、王都の貴族邸の温室が冷えた。
森を抜ける最短経路を使えなくなった各大名家の急使は、手紙の往復に通常の三倍の刻限を要し、王立銀行の手形の決済が次々と遅延した。
工区の天幕で新聞をめくっていたベルナルドが、顔を蒼白にして大樹の洞へ駆け込んできた。
「大変なことになりました、対話者殿……!」
ベルナルドは汗の滲んだ書類を石卓へ広げた。
「王都の薬品相場が、三日前から刻一刻と跳ね上がっています! 紫泥草の相場はすでに平時の五倍! 買い占めが起き、貧民街の診療所では薬が底をついて暴動の兆候が出ています!」
「相場の話はいい」
包帯を巻いた左腕を動かさず、乾いたパンをちぎった。
「軍閥の工兵隊はどうしている」
「そ、それが……」
ベルナルドが声を落とした。
「削岩機を動かす石炭の補給部隊が、森の迂回路で草原馬の群れに荷車ごと進路を塞がれ、一歩も進めなくなっております。工区の削岩機は、今朝から完全に沈黙しました」
「……もう一つ。商業省のクレベル書記官が、三月に提出した兵站の警告書を、省内で回覧させております」
「だから言った、か」
「はい。末尾に、その一行だけを添えて。……軍閥の方々が、読まずに棚へ戻した書類です」
四日目。
王都の商業省本府前で、二百人を超える薬種商と運送業組合の代表が座り込みを開始した。
「軍閥が東の森を封鎖したせいで、流通が死んだ!」
「軍用鉄道など後回しにしろ! 先に薬草と泥炭を通せ!」
怒号が石畳を揺るがし、警備兵の盾に腐った野菜が叩きつけられた。
軍閥の推進派閥に連なる貴族たちのもとへも、利権を共有する大商人たちから抗議の書簡が山のように届いた。
森の木一本を傷つけることなく、街道の兵士一人を殴り倒すこともなく。
ただ、日々の生活を支えていた細い動脈を一本指で押さえただけで、王国の経済中枢が酸欠の魚のように口をパクつかせ始めていた。
五日目の夕刻。
南の境界の木柵の向こうから、軍馬が一頭、白旗を掲げて砂利道を進んできた。
馬から転がり落ちるように降りたのは、数日前に工区の接収を宣言したあの将校だった。
紺碧の陣羽織は泥と煤で薄汚れていた。
背後にいた歩兵たちの顔にも、連日の毒煙の逆流と燃料切れによる疲弊が濃く張り付いている。
将校は木柵の切れ目、平石の境界の手前で立ち止まり、震える手で懐から一枚の公文書を取り出した。
「……対話者、イーサン殿はおられるか」
大樹の洞の前から歩み出た。
夕暮れの冷気が、頬を撫でていく。
「何の用だ」
将校の喉仏が大きく上下した。
手にした羊皮紙を両手で掲げる。
「商業省本府および軍事統制局の連名による、緊急の申し入れだ……」
男の声は掠れ、先日の威圧的な響きは完全に失われていた。
「薬品原料および定期便の通行再開を要請する……! 対価として、工区における毒煙の使用を即時停止し、削岩機の稼働時間を貴殿らの指定通りに制限する! ……現在、王都の薬品相場は平時の十倍に達している! これ以上の滞留は、国家の医療体制そのものを破滅させる……!」
平石の上に靴底を置いた。
「断る」
将校が息を呑み、紙を持つ手を硬直させた。
「な……ぜだ! 貴殿らの要求通り、作業時間を制限すると言っているのだぞ!」
「制限ではない。原状回復だ」
右手の指先で、南の湿原を指した。
「木柵を撤去しろ。有刺鉄線を巻き取れ。毒煙の燻煙炉をすべて壊して森の外へ持ち出せ」
一語ずつ、冷えた石を並べるように告げた。
「オットーの職人たちを現場へ戻せ。ツルハシを振るうのはあいつらだ。軍の工兵隊は道具箱を背負って関所の外へ退去しろ」
「そ、そんな権限は私にはない……! 軍の威信に関わる!」
「なら、王都へ戻って上の者と相談してこい」
背を向けた。
「その間、薬草の根は泥の下のままだ。急使の手紙も届かない。……相場が何倍まで跳ね上がるか、机の上で計算して待っていろ」
将校の靴底が後退り、泥水を跳ね上げた。
男は返答の言葉を見つけられず、青ざめた顔で馬の手綱を掴み、逃げるように南の街道へ駆け去っていった。
洞の入り口の木陰で、エレナが手挟みに万年筆を走らせていた。
インクの擦れる細い音が、夕暮れの空気に小さく響く。
『郵便網の停止五日目。王都の薬品流通は完全麻痺に至る。軍閥側の運行管理権の行使は、武力を用いぬ生態系の供給停止により、完全に無力化された』
エレナはペン先を止め、手挟みを胸の前で抱え直した。
「……数字で脅そうとした人間が、自らの作り出した数字の暴騰に締め上げられています」
「外の連中が勝手に引いた算盤の玉だ」
石卓の横へ戻り、腰を下ろした。
暗がりから、ノアが静かに歩み寄ってきた。
灰色の外套の裾を揺らし、こちらの横顔を見上げる。
「……外の人間は、貴方を魔王と呼ぶのをやめないわね」
「好きに呼ばせておけばいい」
「血を一滴も流さずに、国中の喉首を干上がらせた支配者。……武器を振り回す軍隊より、ずっと恐ろしいものとして伝わるわ」
ノアは外套の裾を整え、視線を暗い森へ戻した。
遠くの木柵の向こうでは、燃料の尽きた工兵隊の天幕が、灯火も点けられぬまま暗闇の中に沈んでいた。




