夕凪の跡雲
導かれるままにひた走り、駅の前までたどり着く。藤宮さんにタオルを渡されながら、放心したように遠くの空を眺める。
「雲、消えちゃったね」藤宮さんはニコニコ顔だ。
「洗濯物がよく乾く」
雨雲はついに立ち消えて、作戦はおおむね完了。クジラを浮かべられなかったのは残念だけど、まあ些細なことだろう。
「詐欺師先輩、変なことしてこなかった?」
「あの人は会うたび変ですよ」
視線の先では白鳥さんが雲の跡地を撮影しているところだった。その顔がこちらに向く。
「さてと、俺の任務はこれで完了だ」
満足げに大きく伸びをして、にっこりと笑う。粛清とやらは終わってくれたのだろうか。注意深く見ていると、その足はなぜか美奈ではなく、私の方に向かう。
「あの、なんですか?」
「構えない構えない」
私の両手を柔らかく弾き落としながら、白鳥さんはまたも諸手で戦闘の意思がないことをアピールする。
「彼らが動かなかったのは残念だけど、なかなか面白かったよ。偉業を成し遂げた柏木ちゃんに、俺からサービスだ」
「はあ」
何かいらないものをくれるのかと思ったら、渡されたのは一つの言葉。
「君はこれから、幽霊に出会う」
「幽霊?」
柳の下とか草葉の陰とか、その辺に住んでいるあの方々のことだろうか。ある意味会ってきたばかりなんだけど。
「彼らは生者のフリをして、過去を抱えてどこぞへと歩いていくんだ。いったいどこへ向かうと思う?」
知らない人が知らない場所に向かっていくと言われても困るんだけど。
「……墓場とかですか?」
一応答えてみると、白鳥さんはつまらなさそうに「正解」と指を鳴らす。
「死人の悲しき習性だ。柏木ちゃん、頼むよ。棺桶はできるだけ深く埋めてくれ」
「何の話ですか?」
「過去であり、未来の話だよ。俺は面白いものが好きで、当たり前のことは面白くない。そしてこのゲームは不平等だ。だから少しだけヒントを与えたい。まあ、伏線みたいなものだと思っておくといいよ」
話がまったく嚙み合わない。これはまた異能痕が発現しているのだろうか。真偽を確かめる間もなく、白鳥さんはつかつかとその場を歩き去ってしまった。
「あいつ何言ってた?」
後ろから凪が小走りでやってくる。ちょっと臨戦態勢だ。ある意味遅れてくれて助かったかも。
「凪は幽霊って信じる?」
「何の話だよ」
気が合うね。それを私も知りたかったところだ。
「ところで、今まで何してたの?」
頭につけた仮面が目に入る。慌てて外すと、頬の部分に打ち身のような赤い痕。
「ホント何してたの」
「正当防衛だ」
答えになっていない、でもこれ以上ない答えだ。きっと凪は、私の知らないところで作戦を妨げる誰かと戦ったんだろう。私が友達を信じると決めた以上、これ以上問い詰めるのは野暮というものだ。ため息一つで勘弁してやろう。
「どうやら、一件落着かな?」
後ろから声と、首元に冷たい感触。
「ひゃ。何?」
「お疲れ」
侭だ。缶コーヒーを片手に、私に胡散臭い笑みを向けてくる。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと野暮用にね」
言葉のわりに侭の服は濡れていなくて、頭には寝ぐせがついていて、あとあくびをかましている。
「サボってた?」
「野暮ってたんだって」
「……凪」
「あいよ」
私の合図で水しぶきが地面から召集され、侭の体と服を浸していく。これでよし。
「え、ひどくない?」
隣で髪を拭いていた美奈が、ちょっと引き気味に言葉を挟む。
「大丈夫。ほんとに濡れたくないなら最後まで出てこない奴だから」
回りくどい寂しがりにはあれくらいでちょうどいいのだ。凪が逃げ、侭がそれを追いかけ始めるのを眺めつつ、美奈の横顔を見る。
憑き物が落ちた、と表現しても問題ない程度には、晴れやかな顔だ。私の思考は事件の終わりを教えてくれた。でももう一つだけ、気になることがある。
「聞いてもいい?」
「私が夕焼けクジラを作ってた理由でしょ?」
「……うん」さすがは私の親友。全部バレている。
探らなくてもいい。そう決めたのは確かだけど、別に真相が気にならなくなったわけじゃない。友達がどうしてこんなに頑張っていたのか、知りたいと思ってもバチは当たらないじゃないか。
「たぶん、天音の思ってる通りだよ」
「……そっか」
頭の中でぼんやりと形作られかけていた、歪な真実の姿。そのもやを両手で包み込むように、美奈は語る。
「私さ、超能力が嫌いな人を探してたんだ」
「うん」
「ちょっと前にね、天音のお父さんにいろいろ話聞いた時にね、日記のこと、思い出しちゃって」
「そっか」
やはり父が余計なことを吹き込んでいたのか。美奈は目じりの涙を拭い、薄く笑う。
「読み返してたら、私が天音に何か言う権利なんてないって気づいて、それに、最後の日記も、見つけちゃって」
「うん、そっか」
「だからね、七海さんの本当の妹を探すことにしたんだ」
「……」
「最初は七海さんに倣って自分なりに七不思議を再現してたんだけどね、途中に会ったお兄さんに言われて、それじゃダメだって気づいたんだ。今まで七海さんが探してきて見つからなかったのは、ひょっとすると、妹さんが能力者嫌いだったのかもって」
「……うん」
「私もちょっと分かった。だって、天音が出て行ってから、私の力ちょっとずつおかしくなってたから。嫌いって、こういうことなんだよね」
私が答えずとも、美奈は言葉を続ける。
「本当はまず妹さんのほうを見つけて、それから天音に戻ってきてもらう予定だったんだ。でも、天音のほうから帰ってきちゃうし。それに、天音が能力を好きになってたから、焦った」
「……うん、そうだよね」
「日記に書いてたよね。七海さん、だんだん世界に存在できなくなってるって。だから天音に事件に関わられたくなかった。今の伊豆津にいてほしくなかった」
「それで、私を拒絶したと」
「そう。結局最後は先回りされて、台無しになっちゃったけど。あーあ」
美奈は目に涙を浮かべながら、それでも私に笑みを向ける。無念であり、後悔であり、懺悔でもある。それでも朝日は光になって、美奈の全身に降り注ぐ。
「全部、天音にはお見通しかあ」
吐き出された息が透明な雲になって、空気に流れていく。私は細く、深く息を吸う。美奈は勇気を振り絞った。言いたくない、言わなくてもいい計画の全容を私に教えてくれた。それならば私も、その勇気に答えなければ。もう一度息を吸って、ようやく言葉に変える。
「全部、初耳なんだけど」
「え」
あっけにとられた美奈が私に顔を向け、涙が弾ける。
何もかもが初めて聞く言葉だ。「七海さん」とはどういうことだ。美奈は七海さんの妹で、姉に対するにしてはあまりにも他人行儀じゃないか。いや、確かに七海さんの記憶は曖昧だったし、よくよく考えなおすと美奈に姉がいたという話は直接聞いたこともないけれど。だって家族の話とかタブーだし。
「私はてっきり、美奈が病院で難病の子供に会って、超能力医療でそれを助けようとしたとか、そういうのかと」
「なにそれ。子供?」
「小学校で講演聞いて、病院行ったんでしょ?」
「話聞きに行っただけだよ」
「小学校の壁に絵を描いたのは?」
「能力操作の練習。ちょうどいい距離だったから」
「病院の駐車場のほうも?」
「そっちは天音のお父さんが車ぶつけてごまかしたいって」
「……なるほど」
頭の中で完成間近のジグソーパズルをひっくり返された気分だ。どうりで端っこのピースの形が合わないわけだ。つまり私は、また誤解と独善で事件を勘違いして一人で突っ走ってしまったというわけか。
「ダメだあ。成長が見られない」
こんなんじゃ侭にまたひどい言い草でバカにされる。アウトレンジから正論で殴られるのはもう嫌だ。
「大丈夫だよ」
後ろからそよぐのは、藤宮さんの穏やかな声。サンダルが石畳の水溜まりを静かに揺らし、私たちの正面で足を止める。
「ごめんね、話聞いてた」
「いえ」ちょっと恥ずかしいけど、それはもういいや。
藤宮さんは私たちに目を合わせず、横顔を上に向ける。
「二人はケンカしてたけど、それでも誰かのために動いてたんだよね」
見上げた先には薄曇りの空。雲から漏れ出る鈍い光に目を細め、そして振り返る。
「だから、大丈夫。それで少しだけ、悲しみが和らいだ人も、たくさんいるからさ」
優しく笑うお姉さんの顔は、なぜだろう。笑顔のはずなのに、少し潤んでいるようにも見えた。
また少し太陽が顔を出し、藤宮さんが手を振って離れていく。そろそろ私たちも帰らないと。
「ねえ、天音」
「なに?」
「戻ってこない?」
押し込められていた、美奈の心。かつて喉から手が出るほど欲しかったその言葉は、一度空に浮かんで私の胸元にすとんと落ちてくる。
私は、帰るべきなのだろうか。事件は解決し、友情はここにある。地元に戻って、きっと平穏無事な生活を続けて、そのまま大人になっていく。堅実で、それでも幸福な未来の姿が垣間見える。
「ううん。もう少し、向こうにいるよ」
でも、私の答えは決まっている。
「私がいなくなったら、あの二人、きっと無茶するからさ」
視線の先では、駅の噴水を囲って凪と侭がはしゃぎまわっている。使いどころのなかったクジラを無残に解体する侭と、そのパーツを優斗と聡に投げつける凪。まるで子供だ。
「だから、もう少し」
言葉は投げない。手のひらに乗せて、直接美奈に手渡す。
「そっか」
差し出した私の想いを、美奈はぎゅっと握り返す。
「天音は昔から、お姉さん気質だから、しょうがないか」
「たまには帰ってくるから。また、遊ぼう?」
私の友達、私の故郷。でも、今の私の営みは、別の場所にあるのだ。
美奈たちも家路について、とうとう残りは私たちだけ。電車ももうすぐ始発が出る。今日も今日とて朝帰り。またあらぬ疑いをかけられる前に早々に家に帰らなければ。駅のホームにたどり着いた途端に押し寄せてくる疲労感。我ながら、よく頑張ったものだ。
「お、虹だ」
凪の言葉が、徹夜明けとは思えないほど上機嫌に響く。つられて上を見ると、上空にきれいな七色がアーチを作っていた。
「……いいね」
「雨止んだのに嬉しそうだな」
からかうような凪の言葉が、風とともに私のおでこを揺らす。
「雨も好きだけど、虹も好き。言ってなかったっけ?」
「言ってないって」
凪が声を上げて笑う。呼応するように風が舞い、水滴を空に押し上げる。雫の一つ一つに虹が反射して、私たちを七色に照らす。
「確かに、悪くねえな」
少しぶっきらぼうな言葉が空に溶けていく。隣の侭も、いつもより柔らかい笑顔に見えた。
凪の言葉を思い出す。いつかこの光景を誰かに話して、私という人間を分かち合うこともあるのだろう。でも、こうも思うのだ。この素晴らしい光景を前に、同じ場所にいられたのなら、それはもっと素晴らしくて、嬉しいのではないか。
虹と光が朝露を照らす。梅雨明けの緑の匂いがする。ホームにブザーが鳴り響き、始発電車の到来を告げる。
過保護なクジラは空に帰った。代わりに私を導くのは、心に刻まれたしるべと縁。
「帰ろう」
跳ねる雫たちが、私たちの世界を明るく照らしていた。
三章終わり。テーマは友達。序盤の山場として、細々と仕込んできた布石を回収する話です。事件の真相にはたどり着けませんでしたが、ここで天音が得たものは次章以降も力強く彼女を支えてくれます。




