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 雨が降っている。

 大雨の入ったバケツを雲の上でひっくり返した時のような、情報の怒涛。あるいは波濤というべきだろうか。静かだった私の水面に、およそ五年分の経験が熱を帯びて上書きされていく。


「おい、大丈夫か天音」


 心配そうに声をかけてくる凪。だいじょうぶ。そう返そうとして力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。


 体を満たす虚無。初めて、自分が失っていたことに気づかされる。そして、失わせてしまったことにも。


「……七海さん」


 つぶやくと、記憶の中でぼんやりと輪郭を作る。顔は見えないけれど、私を内側から支えてくれた、お姉さん。


「そん、な」


 聡の声。怯えた響きから否応なしに理解する。二人がいかに、私が記憶を思い出すことを恐れていたのか。


 人の心に宿る超能力。七海さんはその意志ゆえにとどまって、その意志ゆえに出ていった。どれだけ強力な力でも、精神力は有限だ。顕現するたびに薄れる存在感が、私の友達に最初の鉛を埋め込んだ。


 声をかけるべきなのだろうか。謝るべきなのだろうか。七海さんなら、何と言うのだろうか。その権利が、私にあるのだろうか。


 空を見上げたまま、未だ茫然とする優斗と聡。それを覆い隠すように差し出されるのは、侭の手のひら。


「時間は貴重だ。やるべきことが分かったなら、うずくまる理由はないよ」

「……うん」


 一瞬だけ張り詰めた表情が、わざとらしく嘘くさい微笑みに成り代わる。私に進めと、あの二人には時間を与えるべきだと、遠回しな優しさが私の背中を押す。


「また、あとでね」


 透明な雨の中、私は走り出す。手がかりと好奇心が私の手足を動かすのを、振り切るように地面を蹴った。




 全速で向かう自宅の玄関。タオルを渡すお母さんをびっくりさせつつ、部屋に置きっぱなしの古いスマホを起動する。

 目指す場所はかのSNS跡地。サルベージ用サイトにアクセスし、知っていたはずのもう一つのアカウントを入力する。


「あった」


 開いた先はクジラの墓場。七海さんが私のために書き溜めた、日記だ。思い出したばかりの記憶に相違ない内容が、ときおり感謝、ときおり謝罪とともに綴られている。


 最後の記事。四月の閉鎖直前に自動投稿された日記には、美奈らしき人物のコメントが一つ。「必ず返す。だから待ってて」という、ゴシック体の決意。これこそが、赤いクジラが生まれた理由なのだろう。


「真実は得られたみたいだね。念願叶った気分はどうかな?」


 いらない嫌味とともに部屋に入ってくる侭。少し後ろの凪は、お母さんにココアを持たされている。


「とりあえず、解説頼む」

「ちょっと難しい話になるかもだけど」


 差し出されたカップを受け取って、ひと息に糖分を流し込む。回り始める頭が罪悪感で再び麻痺する前に、私は自分の身に起こった一つ一つをつまびらく。


「――つまり私は、二重人格だったみたい」


 夜雨の中に生きていたもう一人の私、七海さん。私から記憶と思考の一部を借りる形で存在していた彼女は、ほかならぬ私の手によってその世界を閉ざした。美奈たちの怒りと失望、七不思議への執念は、すべて彼女のため。


「占有された概念は宿主から切り離され、それが認識阻害を生んでいたわけだ」

「たぶん」


 きっと、優斗と聡は何度も私に真実を伝えてくれていたんだろう。けれども「私」にはそれを受け入れるだけの器が存在しなかった。他人事のように事件を壊し、最後は耐え切れずに逃げ出した。これが真相、私の罪。


「なるほどね」


 侭はおおむね納得したようにうなずき、一方で凪は眉根にしわを寄せる。


「他人の脳に宿る能力ってことか?」

「そうなるけど」


 凪は首を傾けて不服を表現する。「できるわけがない」と言いたいんだろう。私自身、自らの身に起きたことでなければ信じなかったかもしれない。


「超能力って人の意思を反映するものだし、ものすごい威力でそれをやったってことじゃない?」

「他人の意思を変えるのは無理だろ」


 無意識にか、凪は部屋中の文房具を天井に集めてかき混ぜる。


「一応、相性とかはあったみたい」


 記憶の中で七海さんは私以外にも父や母、野良犬や通行人などにコンタクトを試みていた。けれども結局成立せず、私の元に帰っている。性別や年齢、思考のつくりなんかが関係していそうだ。


「スクリーンが広かった、みたいなもんか」

「スクリーン?」

「いやいい。続けてくれ」


 意味不明な独り言とともに、凪の脳内では何らかの結論が出されたらしい。聞き間違い、じゃないよね。


「なんにせよ、手がかりは得た。次のステップはどうする?」


 肩をすくめつつ話を進めにかかる侭。でも、私としても身に起こる現象に不可解は残る。


「なんで、私の認識阻害は消えたのかな」


 時間をかけて変質していったこれまでとは違い、最後の記憶は劇的な速度で戻ってきた。主となる要因はおそらく、侭の能力。


「ねえ侭、さっき私に何したの?」


 何をされたのか思い出そうとすると、頭の中がぼんやりとかすむ。認識阻害を弱化で対処することはできないと言っていたから、別の対応策が侭の中で見つかったことは間違いない。

 私の期待を込めた眼差しを受け取って、にっこりと微笑む侭。


「別に、大したことはしてないよ」

「具体的には?」


 笑顔の質にあんまり答えてくれなさそうな気配を感じつつ、先を促す。


「僕の見立てが正しいなら、インチキ屋台の商売は『いわゆる希望』だ。あまねく野望は騙されやすい人間を騙せるから、天音の末路を少し踏まえてさらに叶えてもらったってわけだ。分かる?」

「ぜんぜんわかんない」


 怪しい詐欺でも始めたくなった、ってわけではないよね。


「ああ、だから赤緑青が黒に飛んでたのか」


 凪が意味不明をカラフルに厚塗りしていく。この覚えのある天地混沌はつまり、そういうことなのだろう。


「法に逆らって、叶えた利子は全部貨物路の中だ。天音は自分が七海さんとやらを狼煙で嫌ったと思っているみたいだけど、薬売り異常はないよ」


 窓の外を見上げて楽しそうな侭。これ、絶対伝わらないって分かって言ってるよね。さっきまで悩んでたのはもういいんだろうか。


「また記憶探しかよ」凪はうんざり気味だ。

「ううん、大丈夫」


 認識阻害が残っていること自体は私としても喜ばしい。今は新たに手にした知見をもとに推理を前に進めるべきだろう。


「改めて、事件について考えるね。美奈はなぜ七不思議を生み出したか」


 過去の七不思議の原因は明らかになった。その正体は七海さん自身が考案した、自身の存在を高めるための儀式だ。推測した通り、主目的は地域全体の抗精神力を弱めることにあったと言えるだろう。

 これを踏まえたうえで今回の目的はどうだろうか。凪は役に立たなさそうだから、その横の侭に意見を求める。


「一番シンプルに考えるなら、その七海さんとやらの復活じゃないかな」


 有力説の一つだとは思う。私の認識阻害がまだ生きていたということは、七海さんの存在はまだ完全には消えていなかった。最後の日記にコメントされた、美奈の「必ず返す」という決意の文字。辻褄は合う。けれども問題となる不合理が一つ。


「でも、その目的なら、なんで優斗と聡を避けたんだろう」


 同じ目的で犯行を繰り返すなら、美奈が二人の協力を拒む理由もない。にもかかわらず信用のおけない白鳥さんなんて謎の男を頼ったりしている。


「理由に心当たりは?」


 私の首は半自動で横に振れる。

 多かれ少なかれ異能の使用は負担になる。優斗と聡を危険から遠ざけたかったのかもしれないし、頑固者の美奈が一人で頑張ると決めただけの可能性はある。でも、しっくりは来ない。


「心当たりはないけど、やっぱり七不思議の目的は前回と違うと思う」


 七不思議の範囲は広まった。だから、不思議を周知すること自体は目的の一つではあるはず。でも、やり方がアナログに偏りすぎている。SNSを使うこともなく怪奇現象だけを出現させて、噂を広めるのは白鳥さん一人。しかも、広範囲にわたる出現個所にも偏りがある。


「なんというか、何かを探すために怪現象を使っているような、そんな気がするんだよね」

「何かって何を?」

「分からない」


 美奈は超能力について調べていた。そして自分の異能で街を覆いつくした。その先に何を見ているのか、私の目には一向に見えてこない。

 私が口をつぐむと、侭も結論を出せずそれに倣う。


「なら専門家にでも聞けばいい」


 のんきに対応を投げる凪の言葉に引きずられるように、私の足は隣に向かう。




 万策尽きた時、最後に頼るは親のすね。そういう意味では私もまだまだ子供ということだ。書斎で本を読んでいる父の背中に声をかける。


「ねえお父さん、ちょっといい?」

「なんだ?」

「抗精神力が低くなると、何が起きるの?」


 ページに栞を挟みつつ、父の両目が少し見開く。


「珍しい、天音から超能力を聞きに来るなんて」

「いいから教えて」

「そうだなあ」


 父は機嫌よく抗精神力が何たるかについて教えてくれる。けれども話す内容は言い切ってしまえば異能の増強の一点に尽きていて、私の知る以上の情報は出てきてくれない。


「ほかに隠された性質とか、ないかな?」


 細かく質問を重ねる私に、父が固まりになった空気を笑い声とともに吐き出す。


「何、いきなり」

「なんだか探偵みたいだな。そういうの嫌いじゃなかったのか?」

「……」


 その通り。私は探偵が嫌いだ。他人の都合もお構いになしに、探り、偵い、暴き出す。そのやり口を嫌悪する。けれど私が今求められていて、私が今求めているのは、その狡猾で鋭利な探偵のやり口なのだ。


「好きじゃないけど、疑わなきゃ見つけられないこともあるから」


 事件にかける私の決意であり、責務。その言葉を、父はまたも笑い飛ばす。


「別に、いいじゃないか」

「何が?」

「疑わなくても。昔言ってただろ? 『信じる探偵がいてもいい』って」

「……言ってたけど」


 意外と、親というのは子供の発言を覚えているものだなあ。容疑者たちにビシビシと上からきつい言葉をぶつける探偵に嫌気がさして、そんな思想に染まっていたころも確かにあった。


「でも、真実がないと事件は解決できない。そのためには疑わないと」

「抗精神力の話、もう一個あったよ」

「え?」


 脈絡なく、父が話を戻す。


「抗精神力の強さは人と空間に依存する。だからあれは、ある意味では異能への世論を調べる指標になるんだ」

「うーん?」


 言われてみれば。美奈は多方面に異能を差し向け、その結果を白鳥さんに撮影させていた。ある意味では抗精神力のマッピングをしているようにも見える。能力が好きな人を同志に募ろうとしている? あるいは嫌いな人を排斥したい? 分からない。父がいきなりそんな話をしだした理由も分からない。


「何が言いたいの?」

「理解できなくても、真実でなくても。信じれば、そこに意味は生まれるってことだ」


 そんなのは詭弁だ。真実がないと美奈は止められないし、止められないと異能は使われ続ける。その結果友達が罪を犯すのなんて私は嫌だし、異能を使い続けた美奈が体を蝕まれるというのなら、そんなのはもっと嫌だ。


「あ」


 私の論理は訴える。もっと先を考えろ、美奈の思考を上回れ。けれども、直観。


「そう。それでいいんだ。信じなさい」


 父の言葉が、すとんとお腹の中に落ちてくる。そうか。最初からそれでよかったのか。だとすると、まだ私にもやりようはある。晴れた心が、頭に閃きの雫を落とす。

 浮足立ったまま自分の部屋に戻り、そのまま家の外へとスタンディングスタートを決めた。




 いつの間にか、外は雨が降り出していた。小さく、弱く、まるで贖罪をするかのように降り続ける水しぶきの中、私は凪と侭とを連れ立って学校へと向かう。裏門から忍び込むと、そこにはレインコート姿の影が二つ。


「あ、天音ちゃん、どうしたの?」

「見ての通り、俺ら忙しいんだけど、何の用だよ」


 上ずった声、月明かりが照らすのは涙の跡。立ち直ったわけでもない、開き直ったわけでも、忘れたわけでもない。ただひたすらに、偽の雲を作り続けている。すべては美奈のため。埋め込まれた鉛の棒は、熱となって二人を前に進ませている。


「過去のこと、全部分かった。思い出した」


 二人の手が、止まる。


「美奈が頑張る理由も、たぶん分かった」


 二人の顔が、こちらを向く。


「美奈を手伝おうと思うんだけど、手伝ってくれない?」


 驚きで固まる二人。私の言葉を探り、疑っている。でも、その首が縦に落ちるのにきっと時間はかからない。だって二人は美奈の友達で、私の友達なのだから。

天音の認識阻害は「姉」「七海」という概念を理解できなくなるだけでなく、そこに至らせるための会話や単語自体が歪む現象も含んでいます。これまで彼女の語彙がしばしばおかしかったのはこのせいであり、具体的には「しまい(=姉妹)」が「見舞い」や「似合い」になったり、「日記」が「楽器」になったりしています。

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