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欠けた器に虹を注ぐ

 無知の知という概念がある。私の調査活動の基本は、自分が何を知らないかを知っていくことによって成し遂げられてきた。だからこそ、今自分の身に起こっている不可知の問題は、重篤だ。


 再び三人、自宅に戻ってきた私たちは(少なくとも私は)頭を抱えていた。

 どうやら私の認識には、何らかの障壁が存在しているらしい。具体的には、一連の事件に関わる特定の概念を理解できない。写真の共犯者を認識しづらかったことも、きっと同じ要因なのだろう。


「分かるか天音。時計さん、ささみのたれ、メイちゃんだ」

「時計、ささみのたれ、メイちゃんさん?」

「全然違う」


 凪にお願いして手当たり次第にそれらしき単語を復唱してみても、結果はご覧の通りだ。近い何かに変換されていることまではあたりがつけられても、脳内に存在しない何かを見つけ出すことはできない。


「絵ならどうかな」


 侭がおもむろに私の机からノートを取り出して、さらさらと何かを描いていく。


「どう?」


 目を凝らしてよく見てみる。ぐにゃぐにゃ曲がった線に、すらりと紐のような手足がついている。人間が二人、いるような?


「ねえ侭、これ何の絵?」

「それを考えさせる実験だからね」

「なあ侭、これ何の絵だ?」


 ノートを奪い取って凪の一言。普通に下手なだけだった。紛らわしいなもう。部屋の隅に下がって「しょうがないだろ」と愚痴る侭の言い訳を聞く限り、私に欠けた概念は絵で表現することが難しいものらしい。


「でも、なんでそんなことになってんだ?」


 人のベッドに寝転がりながら尋ねる凪。写真に撮れば「デリカシーの欠落」なんてタイトルがつけられそうだ。


「なんでだろ」


 現象すら分からないのに、原因が分かるはずもなし。症状としては前方性健忘症が部分的に起こっていると言えるけど、特定の概念だけを覚えられない症状なんて聞いたことがない。


「天音のハイエナがごとき好奇心を恐れたThe rENDが、秘密裏に脳に改造を施した。なんてどう?」こちらは侭の意見。

「面白くないよ」


 もちろん可能性はゼロではない。私自身そんな目に遭った記憶はないけれど、その記憶を見事にキャトられているのかも。でもだとしたら、ちょっと改造内容がピンポイントすぎる。


「じゃあ、能力だね」

「私もそう思う」


 常識ではありえない現象が起きたのなら、常識でない何かが干渉していると考えるのが一番筋が通る。安易に考えて、他者の特定の概念にロックをかける能力、「封印」みたいな異能核が存在すれば、可能だ。


「俺は違うと思うけどな」


 対してちょっと不機嫌そうな凪。理由を問うと、「サイキックは人の心に届かない」と断定口調。凪にとって超能力とはあくまで物を動かすものという固定観念があるのだろう。とはいえ、侭が実際に記憶喪失を引き起こしている以上、その主張はすでに半壊している。


「ねえ侭、これなんとかできない?」


 一応聞いてみると、侭は笑顔を悲しげに下に向け、一言。


「ごめん。僕には天音の頭は治せないよ」


 なんだろう。わざとムカつく言い回しにされているのは気のせいだろうか。


「実際、僕のメナスブレイクと天音のそれじゃ、ちょっと原理が違うからね」

「そっか」


 侭の能力は物事の関連性を薄れさせることで、記憶を思い出しにくくすることができる。一方私の身に起きているのは、物事を思い出せてもそれが何かを認識できないこと。タンスの鍵をなくさせるのと鍵穴そのものを壊すのでは、勝手も違ってくる。


「あー、思い出せない」

「天音は実は記憶を忘れる能力に目覚めていた、ってのはどう?」再び侭の意見。

「ちょっと面白いけど黙ってて」


 生まれて初めてだ。物事を思い出せないことがこんなにももどかしいとは。凪さえいなかったらベッドでゴロゴロ転がりたい気分なんだけど。


「犯人は誰だ」


 ふてぶてしくも横向きのまま凪が鋭い視線を向けてくる。


「犯人?」

「そいつを倒せば解決だろ」

「そう単純でもないと思うけど」


 口には出さないけど、否定もできない。優斗と聡の反応を見るに、私のこの現象は年単位で継続している。異能が抗精神力との摩擦で薄れる以上、記憶変質も複数回実施されていてしかるべきだ。元を断てば解決はするだろう。


「それに、心当たりもないし」


 少なくとも私の記憶は不審人物の存在を訴えてはいない。丸ごと忘れさせられている場合もあるから断言はできないけど、とにかく、犯人を見つけることは難しい。


「そっか」


 凪は「なら自分にできることはない」と言いたげに布団をかぶる。引っぺがしてやろうか。


「僕が気になるのは、方法かな」


 私に行動の無駄を視線で諭しながら、侭は凪の上に腰を下ろす。


「特定の概念だけを長期的に消し続ける、そんな異能があるのならぜひ欲しい」


 悪用しますと宣言されても私は困る。というか弱化の時点でまっとうな使い方をしていないのに、まだ絡め手が欲しいのか。


「天音の見解は?」


 天井のライトと向き合って考える。頭の中には霞がかかり、私の思考を阻害する。正体不明の異能犯に対し、こぼれた言葉は一言だけ。


「なんでだろ?」

「確かに、そこも気になるところだね。天音の記憶をいじる利点がない」

「それもある、んだけど」


 侭の言う通り、私にこの現象が襲い掛かっている理由も謎だ。でも、私が気になっているのは別のなぜ。


「なんで、認識阻害に気づけるようになったんだろ」


 優斗と聡の煮え切らない態度。それはつまり、彼らが私に対し何度も情報を渡そうとした証拠と言える。けれどもそれは叶わず、二人が諦める程度には繰り返された。それなのに今になって、私は自分の不思議と向き合えている。何らかのきっかけがあったのだろうか。


「侭の記憶操作って、どうやったら弱まる?」

「いろいろあるけど」と前置きしつつ、侭は答える。


「一つは単純な時間減衰だね。今回のケースには該当する?」

「しないと思う」


「薄めた記憶を呼び起こす要素が近くにあるときとかも効き目が弱いね。今回は、まあ違うと見ていい」

「ふーん」砂漠でやったやり方だ。私自身では該当するか判断できないから、侭の言葉を信じて棄却する。「ほかには?」


「抗精神力が高まったとかで、バランスが崩れた場合。影響型の異能だと、作用する異能の総量が減った場合も該当するかな」


 これはあるかも。記憶操作・変質には少なからず異能を消費する。消費する、という概念が正しいかは分からないけど。


「あとはそうだね、異能の対象から外れるとか」

「うーん、どういう意味?」

「水を操る能力は、氷を操れない」

「あ、なるほど」


 異能の操作対象には、送受それぞれに相性がある。記憶や人格という人間性そのものを操る異能であれば、人間性が変わったことで操作できなくなる可能性はある。


 ここ数か月で私に起きた変化といえば、間違いなくスピンオフへの加入だ。変な事件といくつも関わって、死源なんて危険な場所にも赴いた。私という人間に深みが生まれたから影響されなくなった、とか。


「そんな単純じゃないだろ」


 布団越しに突っ込みを入れる凪の声。悔しいけれどその通りだ。


「私の認識はここ数週間、事件を通しても変わっている。だからそれがヒントになるはずなんだけど」


 この数週間で私がやったことを並べると、七不思議を調べたり、友達を家に泊めたり、友達に縛られたり、友達と仲直りしたり、いろいろだ。波紋の止まない忙しさではあるけれど、死源に行くほどのものでもない。


「たぶん、血か涙だ」


 悩む私の真横から、侭の短い一言。自分に足りないもの?


「根拠は?」


 たぶんとつけるわりにはその言葉は鋭く響いていて、確信の意思をのぞかせる。


「前の死源で天音が変だった時、全身血まみれで泣いてた」

「ん?」


 確かに岩にぶつかって流血したし大泣きもしたけれど、そんなに変だっただろうか。神様もどきから逃げるのに必死だったせいか、よく覚えていない。


「覚えてない時点で変だろ」凪の一言はさらに鋭い。

「言われてみれば」


 これでも記憶力には自信があるほうだ。いくら動揺していたからとはいえ、何も覚えていないことはありえない。世の中のありえないには異能が関わっている。


「あとは雨だな」

「雨?」

「先週のやつ」


 いわく、水地高校で突然謝りだしたらしい。全然覚えがなくて、つまりはこれも超常現象。血と涙と雨、現象の共通点は水分だろうか。見えてくる異質の痕跡と、けれども新たな疑問が一つ。


「でも、雨なら何度も降ったよ?」


 血と涙はともかく、雨は日常現象だ。尾張でも伊豆津でも何百回と降られている。中学時代、無意味に傘を差さずに帰ったこともある。けれどもその時私に起きたことはせいぜい風邪を引きかけたくらいだ。


「天音の意識が弱ってるときとか、条件はあるのかもね」


 侭は対岸の火事に水バケツを差し出すように、他人事の笑みを浮かべる。


「さっそく試してみよう。どれにする?」

「……血、以外で」


 穏便を求める私を無視して部屋を出ていく侭。外の天気は曇り空、このままだと確実に涙を呑むことになるだろうね。


 しょうがない。勝手に昼寝モードに入りつつある凪の布団を引きはがして、侭の後を追う。

柏木天音⑤:天音は機械じみた記憶力を持ちますが、これは彼女の才能でありそういう超能力ではありません。

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