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虹と暁

 故郷、ふるさとという言葉を使うには、私の人生にはまだ厚みが足りない。けれども、見知った通りを曲がった先で通いなれたパン屋に出くわす。その射落とすような感覚は、きっと郷愁に分類されるのだろう。


 夜廻県伊豆津市。私が人生の三分の一を過ごした街。転勤続きだった父が拠点を構える決意をしたのは実のところジエンドがきっかけで、私としては複雑な気持ちだ。


「しっかしまあ、蒸すなあ」


 凪がうんざり顔で空を仰ぐ。上空の灰色雲は器用に熱気だけを透過して、私たちと湿度を共有しようと画策している。


「暑い」


 不自然に拭いた風が前髪を揺らし、こちらにも裾分けされる。ありがたい。


「夏、近づいてるね」

「梅雨だろ」


 凪が指さした先にはとりどりの雲たち。ああ、そうか。普通の感覚だと、これは悪天候なのか。


「この辺、雨多いから」


 市の西側に位置する小高い山が空気を押し上げ、人里へ来るころには冷やされて雨雲に変わる、らしい。小学校の理科で習った知識をどこまで頼っていいかは疑問だけど、それでもこの地域に雨が大量に降るのは事実だ。


「梅雨の時期は毎日降るし、夏もけっこう曇り空。だから今は、夏寄りかな」

「へえ?」


 凪の口調は疑問形。たぶん、私の表情を見たからだ。


「悪いところばっかでもないからね」


 確かに、洗濯物は乾かないし、湿気のせいでカビも生えるし、母いわく気持ちも沈むらしい。でも、雨が降るおかげで夏場も涼しいし、考え事もはかどるし、晴れ一辺倒より心地いい。今からでも降らないかな、雨。


「親父さんの話は本当っぽいな」


 凪が小さく笑い声を上げる。また考えが外に漏れ出てしまっていたか。


「お父さん、何か言ってた?」

「ああ、うちの娘はアマガエルだって」

「なんじゃそりゃ」

「雨が降ると夜な夜な外に飛び出す奇妙な習性があったって?」

「ないってば」


 雨は好きだけど、さすがにそこまで見境なくはない。そもそも私にとって雨は眺めるものだ。


「雨、そんなにいいか?」


 凪にとって雨は傘を持ち歩く日程度の認識しかないらしい。もったいない。


「雨ってのはね、営みなんだよ」


 雲を見て天気を知って、雨が降るから走って帰る、洗濯物も取り込まなくちゃ。そんな当たり前のことが、災害で常識が崩れつつある今こそ大事なのだと、私は強く思うのだ。夕立に見舞われた中ふらりと立ち寄ったカフェで飲んだコーヒーが温かかったり、そこで出くわしたクラスメイトとちょっと話が弾んだり、そういう当たり前。いいと思わない?


「はは。なるほど」


 私の弁舌に、凪は屈託ない笑みを見せる。


「え、私おかしなこと言ってる?」

「いや、なんか、天音の故郷に来たって感じがすごくてさ」


 そう言って、また笑顔。ちょっと釈然としないけど、普段とは違う一面を見られたと考えると、悪い依頼じゃないのかも。


「アマガエル、見えるといいな」

「探すのはクジラなんだけど」


 雑談しつつも足は止まらず、そろそろ目的地が近い。


「そういや、どこに向かってるんだ?」

「次の角の先に噴水があるから、そこかな」

「了解」


 聞くなり一足先に走り出していく凪。私も少し足を速める。


 水地駅の東口、目撃証言があったという中央広場。土曜日の昼間ともあれば、それなりの数の人々が行き来している。噴水の前で、凪が私を目で呼び寄せる。


「ここか?」

「うん」


 凪の顔面には疑問。それもそのはずで、広場には一見しても熟視しても変哲した部分が見つからない。まあ、メモからしてここで起きたのは虹降らしだ。時間も経ってるし、雨で痕跡が流されてしまったのだろう。


「もう消えてるっぽい」

「ふーん。ハズレか」


 私の手元の地図に視線をやり、ほかの手がかりを請う凪。まるで事件に興味がないと言いたげで、ちょっと面白くない。地図を鞄にしまう。


「伊豆津市にはね、虹クジラの噂があったんだ」

「絵のやつか」

「そう。いわゆる七不思議、私が昔終わらせた、小さな事件」

「へえ」


 凪は最低限の相槌で私の葛藤を打ち返す。毛じらみほどの興味もないらしい。もう、勝手だなあ。


「虹クジラっていうのはね」


 私を事件に押し込んだのだ、相応に悩みは共有してもらわなければ。道すがら、そんな使命感じみた責任転嫁を押し付ける。


 虹クジラ。その実態は、ここ何年かの間で中高生を中心に流行した、いわゆる七不思議だ。雲の間に住まう、悲しみを主食とする、巨大なクジラ。そんな設定が誰からでもなく流れてきて、流行って、でも最後には古ぼけた噂になり果てた。


「つまるところ、雨の日に現れる、クジラの生態を模した怪現象のことなんだ」


 天のバブルリング、雲のひげ櫛、虹降らし、時の歌、雨の足跡、青天の彩虹。まあ、どれも超能力で簡単に再現できるから、今考えると不思議でも何でもないのだけど。


「一つ足りなくないか?」

「七つ目は謎のまま。七不思議ってそういうものでしょ」

「ああ、知ったら死ぬやつか」

「死ぬかどうかは知らないけどね」


 結局七番目の不思議は不思議のまま、明るみに出ることはなかった。私が、全部を終わらせたからだ。


「虹クジラが普通の七不思議と違うのは、怪現象が現実にちゃんと現れること。ほら」


 ちょうど次の目的地、舞子公園が見えてきた。幸いにも、遠目に分かる程度には証拠が残っている。


「おお?」


 凪が驚嘆の声を上げつつ公園に入っていく。目指した先は公園の奥地にある、七不思議の痕跡。


「これが七不思議か」

「うん。雲のひげ櫛、だと思う」


 ベンチとゴミ箱の間を縫うように、一メートルほどの大きさの象牙のようなモニュメントがそそり立っている。その色は、赤。おかしい。


「虹クジラが身づくろいをした後に落ちる体の一部。拾えば幸せになれる、とかだったっけ」

「マジか」

「あ、ちょっと」


 解説を聞くが早いか手を伸ばす凪。そして私の制止を待たずしてその手は空をつかむ。正確には、つかめずして貫通させる。


「俺の知ってる幸せと違う」


 ねっちょりとした赤、絵の具の感触を私に見せつけながら、凪の右手が不服を訴えてくる。


「まあ、幸せの形は人それぞれだから」

「触れられないから幸せなのかもな」


 物悲しい一言を嘘くさくつぶやき、異能で腕についた絵の具を落とす凪。


 実際、この結果は私にとっても意外なものだった。雲のひげ櫛は優斗が担当していたはずで、つまりはちゃんとさわれる物質だったはずだ。そもそも、公園の奥は落ち葉を燃やしたがるご老公が出没するからひげ櫛を置くべきじゃない。あ、でも今は材質が違うからいいのか。でも、そうなると絵の具の分量が多くなりすぎじゃない?


「天音、もういいか?」

「あ、うん」


 どうにも違和感がある。事件の性質は、きっと前と同じだ。でもどうして、原理が異なるのか。少しずつ、背骨に嫌な予感が澱んでいく感覚がする。


 風に吹かれて、揺れないはずのひげ櫛がたわむ。飛ばされた絵の具が雨粒のように頬にかかり、私の不安をいたずらに煽る。




 途中に昼食を挟みつつ、数時間をかけて父の作った地図を縫っていく。雨雲の奥地から差す昼下がりの光が黒白に街を照らし、けれども私の心に増すのは透明な濃霧。


「ここもだ」


 散歩コースを一周して最後の一か所、時計台近くのカフェテリアに残されていたのは、大きな円状の朱のリング。テラス席の足元を彩るそれは、道行く人たちによると茜の約款という名前らしい。晴れた夜の次の日に残される異能の痕跡。私はその現象を、知らない。


「七不思議、やっぱり前と変わってる」

「そうなのか」


 事情をほとんど聞かないまま写真を撮る凪。その内面はどちらかというと、事件そのものより犯人との対決に向いていそうだ。ときおり目つきを鋭くしてこちらを見る視線がないかを探っている。侭が来るまで頭脳労働は独り占めできそうだ。まったくもう。


「何か気づいたこととかない?」


 申し訳程度に助言を求めてみると、凪は口元をへの字にする。


「なんか、思ったより普通だな」

「ふつう?」


 そりゃまあ、死源とかと比べるとミョウチキもヘンチキも劣るけど、十分異能犯罪としては規模が大きいほうだと思うけど。


「いや、普通っていうか、変だ」今度は意見を翻し、うんうんとうなずく。

「というと」

「しょせん、ただのイタズラだろ」

「まあ、そう、だね」

「ほら」凪の指先がこちらを向く。

「イタズラなら、天音がそんな風に落ち込む理由がない。この事件には裏がある」


 どこで仕入れてきたのか、無根拠な決め台詞を私の斜め後ろに放る凪。


「ただのイタズラじゃなかったんだと思う」


 私はかつて、これと同じ小さな事件の謎を暴き、晒して、終わらせた。根底にあった私の意思は善意に類するものだと、私は今も信じている。でも彼女たちの心がそれをどう受け止めるかは別の話で、結果として私は居場所を追われ、逃げるように引っ越すことになった。


「たぶん、今回も」


私がいなくなってイタズラが再開された、それならば悲しいけれど辻褄は合う。納得が気持ちを沈ませる。視線が地面の赤いリングに向かう。そして私の好奇心が訴えるのは、違和感。


「なんで、全部赤いんだろう」


 疑問を口に出す。すると後ろに答える者あり。


「もしかして、夕焼けクジラの話?」


 振り返ると、エプロン姿の女の人。大学生くらいだろうか。エプロンに印刷された時計のロゴマークがカフェの店員さんだと教えてくれる。話を聞いていたらしく、ニコニコ笑いながら痕跡を指さしてくる。


「わたしも好きなんだよね、夕焼けクジラ」

「夕焼け? 虹じゃなくてですか」


 引っかかる言葉が一つ。


「うん。最近は夕焼けって言うんだって」


 虹と夕焼け。色味がちょっと赤に寄りすぎる。


「憎しみをひげ櫛でこそいで食べちゃうんだとか」

「へえ、クジラにもいろいろいるんすね」


 隣で凪がのんきに声を上げる。いや、そんな近縁種みたいなものじゃないから。

 時計さんに話を聞くと、七不思議は店の近くにも何度か現れていて、小学生を中心に大人気の噂話になっているらしい。そして聞く限り、いずれもクジラは夕焼け仕立て。

 違う色の、違う現象。しかも、夕焼けクジラは決まって晴れの夜に現れている。


「雨じゃないんですか?」

「うん。雨だと夕焼け、出ないんだろうね」


 おかしい。奇妙だ。けれども昨夜は晴れていて、だからこそ痕跡はここにもべったりと残っている。現象に巻き込まれたメニュー表を拾って観察すると、赤と下書き。これはつまり、主犯格が同じ人間だということを表していて。同じ人間が同じことをするのなら、なぜ噂に手を加える必要があったのか。


 情報が得られるとすると、犯人たちに直接話を聞くべきか。気は進まない。答えてくれるとも思えない。それでも幸か不幸か、遠目には学校がすでに見えている。


「はあ」


 雨が降れば、このため息の音もかき消してくれるのだろうか。非常に残念ながら、夕焼け空は色鮮やかに朱を差すだけだ。

今さらですが、本作は事件の話と異界の話を交互に展開していきます。これは作中世界における超能力の扱いを複数側面から描写するためであり、繰り返しの中で少しずつ変化する天音たちを描くためでもあります。

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