スタートライン
土曜日、早朝、今日も雨。睡魔に後ろ髪を引かれながら落日荘に足を運ぶと、凪が玄関で傘の補修をしているところだった。「古の」とか枕詞がつきそうなボロ傘だけど、まだ使うつもりなのかなあれ。まあいいや。
「おはよう。椎名君は?」
「ダブルブッキングだってさ」
「あ、そう」
ほんとかなあ。下駄箱を見ると井垣さんともども外出中。本当に連れまわされているらしい。そういえば凪に情報渡すって言ってたっけ。
「あれ?」
101号室の隣に見慣れない靴が一組。二十二センチのローファーは、見るまでもなく女物だ。
「もしかして、晴来てる?」
「ああ。まだ寝てるけどな」
平然と言ってのけるけど、その言葉が出てくるってことは二人は同じ部屋で寝てたってこと? いらぬ邪推に思考を支配されないよう、頬をぴしゃりと叩く。
「んじゃ行くか」
陽気に言い放ち、傘を開く凪。ちょっと破れて見えたけど、どうせ雨は止めるんだろう。
ずいずい歩く凪についていくこと二十分。その足は尾張市駅に向かっていた。つまり市外に出るらしい。
「ちなみに行き先は?」
「成神駅」
凪がポケットから取り出した地図には、侭の手書きでマークが付けられている。成神駅、下り線で県をまたいで七駅、路線は神無月線。近い。
「わりと遠いな」
「……そうだね」
不安の種に砂をかけながら、自動改札にカードをかざす。
子供のころ、家族で市民プールに行った時のことを思い出した。実に唐突ながら、たぶん今の私の心境はあの時と似ている。
遊び半分で父が私を飛び込み台に連れて行き、自分はさっさと飛んでいなくなる。誰もいない、水面は遠い。飛び込む勇気もないけれど、一人で戻る勇気もない。逃げ場はなく、結局私は飛び降りざるを得なくなる。そんな感じ。
揺れる電車が私を飛び込み台に運ぶこと三十分。とうとう成神駅についてしまった。
いわく、依頼人とは駅前のレストランで待ち合わせているらしい。らしいんだけど。
「いないね」
「だな」
指定のファミレスには雨天も手伝って、人ひとりいなかった。約束の時間までもう数分。時間にルーズな依頼人のようだ。
水をお茶うけにコーヒーを飲みながら待つこと十数分。ようやくと入店者を告げるベルが鳴る。恰幅のいい男の影が見えた。
不安要素はあれど、とにかく今は仕事だ。依頼開始。
「やあすみません、待たせてしまって」
「どもっす。スピンオフです」
「ああ、これがギルドライセンス? いや、実物を見たのは初めてだ。へえすごい」
「あ、はい」
「さっそくで悪いんだけど、人探しを――」
依頼人の顔が凪を見て、それからこちらに移る。血の気が引く。もちろん、私のだ。
「天音?」
依頼終了。帰る。
五分後。結局逃げ切れなかった私は、上座で凪に退路を塞がれながら依頼人――父の話を聞いていた。
「お恥ずかしいことに、娘に家出されてしまってね」
家出というのは正確ではない。母にはちゃんと許可も取ったし、特例転校制度の書類にも目を通してもらった。電話もしている。母に。
「妻は『大丈夫』って言うんだけど、親としては気になるじゃないか。せめてどこにいるかだけでも突き止めたかったんだ」
「それで依頼を出したら、天音さんがネギ背負ってやってきたと」
「うん。豆鉄砲気分だ」
撫で肩をさらに急勾配にしていく父の姿がひどく懐かしく感じられた。そうか、思えば家を飛び出してきてもう二か月が経つのか。母にだけ許可をもらって転校の手続きを進めたのは、さすがに不義理が過ぎるというものか。
けれど、当時の私に父の干渉を受け入れる余裕があっただろうか。乾き雨の暗がり、激変した環境、憔悴、代償、クジラの死骸。すべては今思い出してもなお苦しい記憶で、やっぱり私はひとりで逃げる道を選んだだろう。手元のカフェラテは甘いはずなのに、苦みだけが舌をつつく。
幸か不幸か、私の心境は男二人には悟られない。
「でも、なんで俺らに依頼を?」
「ああ、SNSで宣伝してたから、つい」
言葉とともに端末の画面を見せてくる。そこには「サバイバーズギルド Spin off」のゴシック体と、「人探しやります」というえらくピンポイントな宣伝文句が掲載されていた。こんなのいつの間に作ってたんだろう。
「それと実は」
父は端末を嫌い、はにかんだ笑顔(かわいくない)を見せる。
「単純にサバイバーズギルドに興味があったんだ」
「ほう?」
しまった。油断していたら向かってはならない方向に話題が転がりだしてしまった。
「常盤君、この依頼人の人も満足したみたいだし、そろそろ帰らない?」
「待った。俺はこの人の話を聞きたい」
「私はこの人の話を聞かせたくない」
「なんで?」
理由を説明すると凪は納得してくれなくなる。どう切り抜けよう。別の話題を提供すべきか。とにかく凪をおとなしくさせないと。
私がこれだけ苦心しているというのに、偶然の悪魔はひどく乱雑にことを進めてかかる。
「やっべ」
コツンと、高揚した凪の腕がコーヒーカップを撫でる。コースターから離れ、空中へ。気づいた時には凪はいつものようにカップを宙にとどめてしまっていた。
「セーフ」
「素晴らしい」
「え?」
あーあ。もうダメだ。帰りたい。
「今の、君の能力かい? どうやったの、もう一回見せてくれ」
だってこの人、超がつくほどの能力マニアなんだもの。
「せめて家で話させて。じゃないと私この店行けなくなっちゃう」
ドボンと、飛び込み台の真下の雨だまりに私の体が落ちていく。痛くはない、つらくもない。でもやるせない。そんな性分の音だ。
父のワゴン車の後部座席に凪と乗り込み、見慣れた道を数分走り、懐かしの我が家へ。まだ少し後ろめたさはあったけど、駐車場から出るときの狭苦しさも、二階建ての青い屋根も、変わらず私を迎えてくれた。
扉を開けるなり、「おかえり」と母の姿。
「あら? あらあら?」
私を見ての驚きの声。途中から声音が上ずったのは、まず間違いなく隣の凪と目が合ったからだろう。
「彼氏?」
「違う!」
「彼女?」
「友達っす」
「なんだ残念」
わざとらしく肩をすくめながらも来客用スリッパを手際よく並べていく姿がどうしよう、どうしようもなく懐かしい。
「よし凪君、いよいよ君の話を聞かせてくれ」
父がいなければホームシックになるところだった。
凪が書斎に任意同行されてしまったため、私はリビングでカモミールティーをちびちび飲む。読みかけのクイズ雑誌、換気扇の静かなノイズ、台所の母の鼻歌。実に実家だと実感する。
「それで、どうなの? 新しい学校は」
大根を四つ切りにしながら、カウンターキッチン越しに母が言葉を放る。
「電話で話してる通りだよ」
「男友達の話なんて出なかったでしょ」
「話さないでしょ普通」
「優斗君と聡君の話はよくしてたじゃない」
「小学校の時の話じゃん」
「そうだっけ?」
母はからからと笑っている。現役女子高生の情緒について理解が足りなさすぎる。本当に十七歳を経由してきたんだろうか。
「はあ」
ため息が漏れる。おばさんとして大成した母も母だけど、父よりはマシなのだ。書斎の方に耳を傾けると、ちょうどいいタイミングで興奮気味の音が鳴る。
「素晴らしい、凪君は天才だ」
騒がしい様子に笑みを漏らす母。
「楽しそうね、男の子たち」
「うーん、そうだね?」
お父さん、あれでも四十五の大男のはずなんだけど。精神年齢が低いのは感性が若い証拠、と考えよう。
「それで、お父さんからもう聞いたの?」
「何の話?」
「ありゃ、てっきりそっちをダシに連れてきたのかと思ったけど、違ったか」
母は包丁を持つ手を止めて、私の前まで歩いてくる。手元には貰い物のクッキー缶。それを優しく手渡して、なぜか薄い笑みを浮かべる。
「私たち、離婚するの」
「嘘でしょ⁉」
「ウソよ」
五秒。息を吐いて不服を訴え、それから深呼吸をする。いい加減にしてほしい。
「お父さんね、なんかぶつぶつ言ってることが増えたから、たぶん変な現象見つけたんじゃないかな。詳しいことは知らないから、聞いてきたら? はいこれ」
茶菓子を持たせて追い出されてしまった。え、あの部屋行かなきゃいけないの?
足を指数関数的に重くさせながら階段を上り、書斎に入る。あーあ。予想通り、部屋の中ではポルターガイスト展覧会の真っ最中だ。
「すごいぞ天音、彼は稀代の超能力者だ」
「へーそう」
「我々は能力の練度というものを甘く見ていた。異能の効力が核の性質に由来する以上出力を上げることは簡単でないというスレンドの仮説はおおむね正しい。だが異能核の外側についての研鑽という概念を見落としていた。発動速度、エネルギーの効率化、同時発動数、確かに鍛えれば伸びる要素だったが、まさかここまで際限なく進化しようとは。TRICKの外側にもう一つ起点を作ることを提案してもいいかもしれない。天音はどう思う?」
「はい、クッキー二人で食べてね」
実に楽しそうに書斎のホワイトボードに箇条書きで持論を書き記していく父。さすがの凪も圧倒されている。
「なんつうか、すごい人だな。天音の親父さん」
「うん」
現代社会における非能力者から能力者のイメージは、畏怖と嫌悪の二種類に線引きされる。残ったインクで打った点が父だ。
「変人だからね」
「いや、そうじゃなくて」
ドン引きされることを覚悟していたけれど、凪はなぜか口元をほころばせる。
「親父さん、能力者の社会貢献について研究してるんだってさ。医療とか、娯楽とか、実績を上げて世界を変えたいって、すごくないか?」
ああ、そういえば物性変質でタンパク質の構造を変えて薬を作るとか、そんな話をしてたっけ。私から見ると職権濫用はなはだしいお遊びも、凪の目を通せばスピンオフ活動の先にある光として映るのか。どうりで父も上機嫌になるはずだ。
「法的にはまだまだグレーだから内密にね」
「了解っす」
父が水性ペンの手を止めたところで、お菓子の缶を手渡す。
「さっきお母さんから聞いたけど、話って何?」
「離婚の話か?」
「え?」驚いたのは凪。
「嘘だよ常盤君」
「あ、そう」
「見破るの早くないか?」
「ネタかぶりしてたし」
肩肉を落とす父。夫婦揃って笑えない冗談を言うのはやめてほしい。初対面の人間もいるってのに。いや、違うか。たぶん、二人なりに私に意趣返しをしたかったのかも。
「それで、話ってのは?」
「いや」父はなぜかもごもごと口ごもる仕草を見せる。「何でもないよ」
ああ。困ったことに、私はその時点で話の大筋を理解してしまっていた。超能力マニアの父が話をするチャンスをふいにする。それはつまり、私に話せない内容があるということで。私に聞かせるべきでない話題なんて、この伊豆津市には一つしか存在しない。
父は何も言わず、書斎机にちらりと視線をよこす。そこにはうつぶせにされた小さな写真立て。私はそれを見るべきなのだろうか。見ないフリをすべきなのだろうか。逃げた先でも、答えはまだ見つかっていない。なら、繰り返すだけなのでは?
「クジラの絵があるな」
沈思、黙考を破ったのは、凪の右手だった。悩み惑う私たち親子の間にずいと割り入って、写真立てを裏返す。
「ちょ、ちょっと」
止めようとした私の手を制し、その絵を見せつける凪。父はあっけにとられ、私の手は抗議に伸びる。その両方を毅然と見据え、凪は言う。
「スピンオフはもうさ、天音の組織なんだよ」
「へ?」
「俺自身やりたくてやってるし、侭も裏でこそこそ動いてる。でも最近は、どこへ向かうかは天音に任せることが多くなった。たぶんそうあるべきで、そのほうがいいからだ」
私の困惑に重ねられるのは、凪の抽象的で一方的で、少しだけ温かな意思。
「だから、選ぶのは天音なんだ」
突きつけられるクジラの写真。どこかの壁に描かれた、雲海の使者と三人の子供。躊躇と葛藤を好奇心が上書きし、私にそれを見せてくる。やっぱりだ。
「私は、選ぼうとしたつもりだよ」
「逃げることと選ぶことは違う」
何もしないことだって立派な選択じゃないか。そんな世迷言をせせら笑う私の好奇心。凪の言葉はそれすらも一閃に切り捨てるかのように、強く響く。
「いつだって背中を押すのは、選んだ先の後悔だ」
「……うん。そうだね」
さりげなくも固く結ばれた凪の拳。何かの後悔を、きっと超えてきたのだろう。この子は人の痛みが分からない子じゃない。私の歩みを促す理由が、凪にもあるということだ。押されたなら、私も前に進まなきゃ。
「分かった。話だけ、聞いてみる」
「ああ。頑張れ」
何より、このまま帰ると侭にまた嫌味を言われそうだ。
心をつく浮遊感。押されてでも、一歩は一歩だ。
やり取りを生暖かい目で見守っていた父の顔面に反抗期ビームを投げつけつつ、スピンオフは活動を開始する。まずは事情聴取からだ。
「この写真はな、職場でもらったものなんだ」
いわく、急に壁に絵が現れたからびっくりして写真に撮ったのだとか。場所は近くの小学校で、ぼかされていたけれど情報提供者もきっと小学生だ。患者さんかな。
「グラフィティアート?」
「うーん、まあ」
凪の問いに対し、父の反応は渋い。つまりはこのクジラには尾ひれがついているわけだ。まどろっこしく聞くのはよそう。
「七不思議、起きてるんだよね」
「ああ、うん」
かつて私が見舞われ、私が終わらせた。私にとって忌まわしき思い出。父は予想通り、数か所でクジラの特徴を見つけたと教えてくれた。引き出しから地図とともに数枚の写真を取り出して見せてくる。地図に打たれたまばらな点は事件現場、写真はその痕跡を記録したものなのだろう。
「あれ?」
写真の一つを眺めるうち、奇妙な違和感。
「これ、なんか赤くない?」
撮影されたのは近所のゴミ捨て場。まばらな自然の中不自然に屹立する謎の塔。ここまでは私の思い知る通りだけど、赤くはなかったはずだ。
「確かに赤いな」
父は前の七不思議を詳しくは知らない。知らないから、この赤に違和感を抱いてくれない。残りの写真も同じ色合いで、何かが私の理解と食い違っていそうだ。
「ちょっと、調べてみよう」
凪を促して部屋を出て、その勢いで外に出る。赤い色、美奈、異能痕、嫌な胸騒ぎが背中を叩く。
「おい天音、なんだよ急に」
「ちょっと気になることがあって――」
言葉が止まる。さっきまでの会話に引きずられたのか、あるいは私たちはとっくに近くにいたのかも。
「何だ?」
「ううん、何でもないよ、凪」
首をかしげる凪を見て満足し、案内を始めるべく歩き出す。なんだかくすぐったいような、いい気分だ。
浸っていると、電話が鳴る。侭からだ。ちょうどいい、この感触をおすそ分けしてあげよう。
「やあ天音、首尾は順調かな」
開口一番、狙いすました一撃。
「……侭のほうこそ順調みたいだね」
「そうでもないよ」
やや疲れた声音。言葉を止めたタイミングで、井垣さんの唸り声と、何やら異国語らしき怒声の嵐。
「え、何してるの?」
「七並べだけど」
本当か? 本当に信じていいのか?
「もうすぐしたら僕も行くから、それまで心ゆくまで七不思議を調べているといいよ」
侭の所業は謎まみれながら、私の状況はしっかり把握されているらしい。どこまで見えているのやら。見透かしスカしたいけ好かない態度で、通話が切れる。
でもまあ、侭に言われるまでもなく私のやることは決まっている。スマホを鞄に見舞い、凪を連れて街に繰り出す。過去の私を踏み越えてやる。
諸外国に補助を受けて国を成立させているという設定上、作中における国家の中枢には外国籍の義勇の士が多数存在します。侭のいる場所は特にそれとは関係ないです。




