錆びた鎖に価値はない、なのにどうして手放せなかった
⑦
土踏まずの隙間を埋める岩の亡骸。広々とした幻影砂漠も、砂時計の中だと思うと狭苦しく見えてくるから不思議なものだ。
私たちの使命は大きく二つ。一つは流砂地点を探し出して綱渡り作戦を決行すること。難しそうなら足場になりそうな仕込みを入れて次につなげる。そしてもう一つは、日暮氏への対処だ。試行錯誤を邪魔してくるなら足止めし、可能なら一時的に死源からも追い出したい。
衝突は不可避、とはいえ無理に争う必要はない。外周をこそこそ周って工作活動にいそしむのが理想だ。
「……だったんだけど」
一つ目の砂山へと向かう途中、私たちのもとへと近づく足音が一つ。誰のものかなど語るまでもない。日暮氏だ。
「妙だね。僕らの居場所がバレているとしか思えない」
「そりゃ、見晴らしよすぎだし」
何なら現実逃避してただけで、出発した時点で日暮氏の影は見えていた。どうあっても戦いは避けられないらしい。
「柏木さん、僕にもしものことがあったら、部屋のカタンとモノポリーを頼んでもいいかな」
「そういうこと言うならせめて前に出てくれない?」
ぐいぐい押される背中。というか状況証拠からして侭はそれなりに戦えるはずだ。でも、自分は何もできないのに戦闘を強要するほどのふてぶてしさは私にはないし。とか言ってる間にもう日暮氏が来ちゃったし。どうしよう。
「こ、こんにちは?」
戦いは最後の手段。私たちには言葉がある。たとえすでに三度戦う羽目になっていたとしても、対話が道を切り開くことだってあるはずだ。
私のむなしい期待をよそに、日暮氏は片手をすいとかざし、けれども下げる。
「ああ、人間か。珍しいこともあるね」
攻撃の意思が感じられない。肩を落とし、遠くを眺め、なんというか、落ち込んでいるかのようだ。視線の先には、ふらふらとさ迷い歩く烏丸氏の亡骸が見えた。
「なぜ、烏丸さんを、その、殺したんですか」
刺激するべきではないと思いながらも、口をつく疑問。
「神が殺したのはただの人間だ。連じゃないよ」
連というのは烏丸氏の名前だろう。話題を変えるか逃げるかを迷う私を見て、日暮氏は薄く笑う。
「神は人に裁きを与える。その理由は理解できるかな?」
「……分かりません」
問いの意味も由縁もまったく理解できない。混乱してきた私に対し、日暮氏は持論を渡す。
「知らしめるためだ」
「誰に、何をですか」
「当然、人に神をだ。神のまばゆき光は闇の中にあって初めて輝く。ゆえに平穏の中では威光を見落とす只人がたくさんいる」
言葉は依然として遠くを見据えながら。私のことなど眼中にないと言いたげで、けれども言葉だけがこちらを射抜く。
「だから、烏丸さんを殺したと?」
「そう。神の偉業、その一助として生じた、一つの普遍的な犠牲だよ」
言葉は優しく、穏やかだ。なんだろう、違和感が芽吹く。
「柏木さん、壺とか買わされないようにね」
「失礼だなぁ」
たぶん、私は現状を維持するべきなんだろう。一応は時間稼ぎができていて、少なくともケガ人が出ることもない。だから、このまま私がのらりくらりと話し続けて、調査は侭に任せてしまう。それが一番いい。足を止め、思考を止める。
「もしかして」
でも、私の好奇心は留まることを許さない。
「烏丸さんは日暮さんにとってただ親しいだけじゃない、特別な人間だった。違いますか?」
日暮氏の表情が頭上から地面に降りる。焦点の合わない目と結んだ口は矛盾した感情を訴えていて、怒っているようにも悲しんでいるようにも見えた。後悔、緊張、戦闘の気配に恐れをなす私に対し、けれど日暮氏は動きを止めたままだ。そのまま、口を開く。
「そうだね。人間の尺度に当てはめるなら、あれは弟にあたる」
「弟」
少し意外で、でも腑に落ちる答え。白鳥さんの最後の発言の続きとしては妥当に思えたし、見た目もよく考えると似ていた気がする。名字が違うのは家庭の事情なのだろうか。
「あいつは弟だったんだ」
言葉は、雲間に一番星を見つけた子供のように澄んで聞こえた。まるでたった今思い出したかのように、兄弟の思い出を語る。ノートに落書きして遊んだ、ジュースを分け合った、ケンカもした、そんな普通の話だ。
「神が神になった後も、あいつは俺の弟だった」
昔語りから日暮氏の独特の感性を意訳するとだ。人とかかわるのが苦手でいじめられていたけど、烏丸氏はずっと弟として味方をしてくれたということかな? 少し置いていかれつつある私をよそに、語りは続く。
「思えば、この信眼を人間のために生かそうと思いついたのも連だった。あいつのおかげで神は神として人に手を差し伸べられたし、人は神のおかげで導を得た」
「は、はあ」
これは家族自慢の類でいいのだろうか。でも肝心の烏丸氏は日暮氏に殺されていて、しかも結局なぜ殺してしまったのかが分からない。
「全部、あいつが弟だったおかげだ」
「だった?」
過去を語っているのだから過去形になるのは当然。でも、繰り返される「だった」という言葉が、日暮氏にとって強い意味を持っているように思え、その言葉尻を捕らえる。
「そう。あれは弟だったんだけど、今は人間なんだ」
朝は弟、昼は人間、夜は亡骸。突如として始まる謎かけが私の混乱を加速させる。
「今なら壺に神棚までついてくるってさ」
「ちょっと黙ってて」というか早く調査に行ってほしい。
日暮氏の言葉は迂遠で独りよがり。避けて通ることもできる。でも、何かを私に伝えようとしている。なら、私は考えたい。
「もしかして、後悔してますか?」
答えは、心の内側から。見開かれた日暮氏の瞳が、私に正解を告げる。
「人間には分からないだろう。弟だと思っていた生き物が、いきなり神を神と呼ぶんだ。あのおぞましさ、恐ろしさは」
「……だから、殺したんですか」
「そうだ」
だからって。だからこそ。二つの思考が脳内で重なる。私の理性は前者を訴えていたけれど、もう一つの心を否定できるほど私はこの人を理解できていない。異常と無常の対岸に、私と超能力者の隔てはあるのだろう。
「あいつがおかしくなっても、神は兄であろうとしたんだ。でも気づいたらもうあいつにとって俺は神様でしかなくて、遥か下界から崇めてくる、諫めてくる」
共感はできない。でも、理解不能がようやく臓腑に落ちてきた。要は、弟が信者になってよそよそしくなって絶望してしまったわけだ。それで失意のままに死源に誘い込んで、殺してしまって、今になって後悔していると。白鳥さんと話して、彼を殺して、罪悪感が出てしまったのだろう。
「俺は、どうすればよかったんだろうな」
沈む声につられるように、初めて私は日暮氏と目を合わせる。これまでの超然とした印象よりもずっと幼い、普通の青年の顔がそこにはあった。
「きっと、話し合うしかなかったんです」
だから私は、言葉を紡ぐ。私たちは違っていて、思い込んで、人を傷つける。でも傷つくことを恐れるべきではないし、傷つけたことから逃げるべきでもない。たとえ殺意を向けられようと、話し合うしかない。
「話し合って、分かり合って、謝って、それで手を取り合うしかないんです」
「そう、なのかもしれない」
小さくうなずく日暮氏。私は息を吐く。
ああ、なんだ。大丈夫じゃないか。私たちはちゃんと分かり合える。鉛の棒が刺さっていようと、腕が三本生えていようと、逆にそうでなくても、話し合って、理解することは可能だ。
「人間の言う通り、話し合うというのはいいことだね。これで胸のつかえがとれたよ」
「ん?」
収まりかけていた動揺が、息を吹き返す。言葉の内側に、強烈な違和感。何がと考えるより早く、日暮氏は頭を下げる。
「改めて、謝らせてくれ。あの時は殺してしまって、すまなかった」
「……殺して、しまって?」
過去二つの罪を反省し、私に誓いを立てる。そんな殊勝さとは無縁の、不気味さ。だってその誠意は、私にまっすぐに向けられている。
「いったい、どういう」
声が震える。息を呑み込む。幻聴が不気味な笑い声を上げる。だから、日暮氏は頭を下げる。
「殺されたんだ。許してくれとは言わない。でも過ちを認めて次の一歩を踏み出すために、頭を下げることを認めてほしい」
厳かで真摯な誠意。日暮氏のそれには誠心誠意と表現できるほどのひたむきさがあって、けれども私は、謝られるべき人たちの姿を見失っている。
「謝るなら、私じゃなくて――」
「どうせ区別がつかないんだ。誰に謝っても同じだろう」
「何、それ」
今さらながら去来する薄暗い感覚。この人は本当に、私と同じ生き物なのだろうか。足の力が抜け、首が落ち、地面と膝とがぶつかる硬い音。
満身創痍の私の肩に、何かが落ちてくる。
「無駄な努力、ご苦労様」
「椎名君?」
言葉に疑問が混じったのは、困惑から。一瞬、ほんの一瞬だけ見えた侭の表情が、ものすごく不快に歪められていたから。
「無事にイカレ野郎と同調できた?」
私の散々な戦果を言外に嘲笑する侭。すでに顔面には笑顔が薄皮を張っていて、その胸中はうかがえない。でも、前に出る。
「人間、まだ争うんだね」
「本当は凪に任せるつもりだったけど、気が変わったよ」
臨戦態勢に入る侭、呼応して拳をつがえる日暮氏。ビリビリとした雰囲気が砂埃とともに私の頬を叩く。
「哀れな人間に救済の光を示す。それも神の責務だ」
「思い上がりに現実を受け入れさせるのも悪くない」
今回日暮の過去として語られた話は彼の主観に依存しているため、厳密には真実と少し異なります。齟齬の一部は異界の歪みによって生じており、それを突き止めることこそが本章で天音が成すべき謎解きの一つです。




