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改敵

 私にとって、常識とは空気であり、水だった。気づけば自分の周りにあって、思考や行動を助け、時に邪魔をする。


 常盤凪という人間は、私のイメージする非常識の権化ともいえる。いや、字で表すのなら否常識と書くべきか。常識を知りながらあえてそれに挑もうとしている。賞賛すべきであり、悲嘆すべきでもある。残念ながら、今は後者。


「ああもう、走るの早すぎ」


 遥か遠くに見えなくなりつつある凪の背中に、届くはずのない砂粒を投げつける。宙を舞った砂は当然走る私の顔に襲い掛かり、己の愚かさを教えてくれた。


「落ち着きなよ」


 早歩きで追いついてきた白鳥さんがハンカチを差し出してくれる。


「この見通しなら見失わないでしょ」

「まあ、そうですね」


 少し落ち着いてきた。前を行く凪の姿は山を回って見えなくなったけれど、足跡がその行く先を教えてくれる。


「そういえば、足跡は残らないんだね」


 息をつきながら白鳥さんが右に左に首を振る。言われてみれば見える靴底は凪が通った一組だけ。私自身何度も歩いたはずの砂漠の海には、住人たる靴底の群れの姿がない。砂紋一つないきれいな海だ。


「砂自体には逆再生が働かないってことなんですかね?」


 周回をまたいでも砂や泥が私の体に戻ってこないことも考えを後押しする。一方で謎のオブジェも砂製なんだけど。


「あ、オブジェ」


 視界の先に見つけるのは別のオブジェ。凝視すると、ここにも死源の鍵が埋め込まれている。そして近くにはやっぱり砂山。鍵の真偽やトラップの法則性は気になるけど、今はやめておくのが賢明か。好奇心たちを綱引きさせて、追跡作業に意識を集中させる。




 体力に気を使いつつ走ること十分。たどり着いたのは巨大なビルのふもと。そこにはすでにシド氏と対峙する凪の姿があった。戦闘はまだ、始まっていない。


「ちょ、ちょっと、待った」


 今まさに構えを取ろうとする凪に割って入る形で前に出る。


「なんだよ、今いいとこなのに」

「うわ怖っ」


 不機嫌そうな凪の顔面には犬の仮面。白鳥さんや日暮氏相手には隠さなかったあたり、何か凪なりの基準があるのだろうか。なんとなく自分も付けてみようかと手を伸ばし、視界の悪さを思い出してやめる。見えないほうがよほど不利益だ。


「で、状況は?」

「ルール調整が終わったとこ」

「はあ?」


 聞けば、コインを落とすだの落とさないだのどうでもいい話を始める凪。まあ、おかげで間に合ったというべきか。


「選手交代」

「えー」


 ごねる凪を押しのけて前に出る。瞬間、すさまじい圧力が私の両肩を切る。


「私の相手は、あなたですか」


 二メートル近い長身と、巨躯を覆う夜空色のローブ、そして表情を覆い隠すフルフェイス。どこで買ったのか、なんて感想が野暮に思えるほどの存在感が、私の思考を覆いつくす。


「お手柔らかに?」


 ちょっと引きつる表情筋を抑えつつ、問答を構える。少なくとも今のやり取りを黙って見ていたあたり、会話に応じるだけの精神性は持ってくれている。話せるなら話したい。


「その、常盤君がすみません。戦うつもりはないんです。私、柏木天音です」


 掲げた両手で精一杯の無害をアピールしつつ、背筋には汗が伝う。すでに一戦交えておいて言うべきではない。真冬の乱層雲のごとき静けさが、私の不安を煽る。


「私も争うつもりはありません」


 厳かに、シドが言葉を紡ぐ。


「けれども戦いは避けられない。あなた方が私の目的を妨げる限りは。」


 一つ所にとどまり続けるシドの目的とは何なのか。私の好奇心に先んじて、後方から白鳥さんの声が上がる。


「君の目的が分からない。何のためにここにいるんだ?」

「私の目的は、真実を手に入れること」


 真実。抽象的な言葉だ。漏れ出た私の疑問に、凪が「鍵のことだ」と補足を入れる。戦いに勝ったほうが鍵を総取りできるのだとか。


「精霊の声に従い、私はあなた方を倒します。」

「精霊の声?」


 一瞬疑問に思ったけれど、思い至る。オアシスで聞こえてきた、子供のような声。

 ん? ちょっと待って。今倒すって言った?


「あなたにも聞こえるのですね」


 私のオウム返しを肯定と受け取ったシド。そして、突然虚空に顔を向け、何やらうなずき始める。精霊とやらと話しているのかも。フルフェイスの表情はうかがえないけれど、少しだけうなずきは軽い。悪い関係ではなさそうだ。


「分かりました」


 私が怪訝を深めるうちに話は終わり、わずかに漂っていた朗らかさが息を潜める。


「声が聞こえるのであれば、脅かすのはやめてあげてください」


 見たところ、シドは明確に精霊とやらと意思疎通ができている。頭に浮かぶのはオアシスの幻聴。音が聞こえた高さがシドの背丈と一致するし、もしかしたらあれは逆再生、と言うか逆逆再生された精霊の声なのかも。


「脅かすって、どういう意味ですか」

「柏木ちゃんたちのやろうとしてることが、精霊とやらにとって都合が悪いんだろうね」


 私たちの目的。死源の中心を目指すこと。精霊は死源の番人的な存在で、攻略されると困るといったところだろうか。でも、私はともかく男子二人が目的を諦めるとは思えない。


「無理な相談だ」


 ほらね。痺れを切らして凪が口を挟んできちゃった。


「戦っていいよな?」

「もうちょっと待ってってば」


 そもそも戦う理由もないのだけど、それ以上にシドの言葉には不審な点が多すぎる。


「この世界にとってはシドさんも侵入者ですよね? なぜ精霊?の味方をするんですか」

「侵入者が略奪者である必要はありません。私は彼らの住処を略奪者から守ることで、宝を譲り受ける約束をしました」

「いつ?」


 口を突いた疑問。白鳥さんが「確かに変だ」と相槌を打つ。


「略奪者である柏木ちゃんたちが入ってきたのはちょっと前。俺も日暮さんも迷い込んでいただけで、何かを奪おうなんてしていない。誰から何を、いつまで守ってるんだ?」

「……」


 シドは言葉を選んでいるのか、少し沈黙する。


「約束は、あなた方がここを出ていくまで、のようです」

「それも、精霊が?」

「はい。あなた方をここから追い出してほしいと」


 シドを介して伝わる、精霊の意思。首が傾く。言いたいことがあるのなら直接言えばいいのに。そんな文句を捨て置いても、やっぱり変だ。


 私の耳元を、鋭い風切り音が吹き抜ける。

 遅れて、金属の衝突音。凪が投げた何かが、シドの肩に浮かぶコインを射止めたらしい。


「俺にはそんな声は聞こえない」


 コインが浮かんだままであることに舌打ちしつつ、凪が懐から鉄の棒を取り出す。


「この世界は停滞を望まない」


 言葉はゆっくりと、けれども空を裂く力強さ。なんだろう、怒ってる? 明確な戦意が私を下がらせ、逆にシドを構えさせる。


「仕方のないこと、なのですね」


 砂漠に巻き起こる風。


「いいでしょう。力の差を見せつけるのも、番人の役目というもの。」


 シドは、争うつもりはないと言っていた。少し話しただけでも、その言葉に偽りがないことが感じ取れる。でも、それならなぜ凪を煽るようなことを言う? 私の疑問をはねのけるように、周囲を異能の渦が覆っていく。その場にいるだけで飛ばされそうになるシドの異能が、私に言葉の無力さを刻み付ける。


「柏木さん、でしたね。」

「は、はい」

「二歩、左へ。」


 おとなしく傍観していろというシドからの指示。言われるがまま一歩、二歩と歩き、そこで地面が消える。あれ?


「――え」


 背中側にかかる痛烈な圧力、暴風。自分が吹き飛ばされたのだと気づくのに一秒。垣間見えた自分の行き先に高層ビルの廃墟が交ざっていることに戦慄するのに一秒。ぶつかる寸前でビルが勝手に崩壊し心臓が止まりかけるのに一秒。ここまで来てようやく、この現象が過去の再現であると気づく。


「ぐへっ」


 予想の通り、背中が死源の天井らしき場所にぶつかる。凪の言っていた通りだ。この先も話の通りなら、しばらく天井を転がって廃墟街のほど近くに墜落するはず。

 摩擦熱で服の繊維が傷む嫌な感覚を受けつつ、少し思考に余裕が出てきた。


「これ、ガラスかな?」


 指を添わせるとつるつるとした感覚が一瞬指先に伝わり、すぐに熱に変わる。実家の古ぼけた食器棚の表面をさわったときのような感覚。

 死源の周囲は謎の壁で覆われているはず。それとも、砂に紛れて見えないだけで周囲もガラスなのだろうか。手元の質感が続く果てを見る限り、ガラス張り説のほうが妥当かもしれない。


 下を眺めると、死源の全貌がよく見える。さっきも作戦会議に使ったビルの墓場が一つ。日暮氏の根城があり、オアシスが一つ。私がぶつかりかけたひときわ高いビル。あとは砂山が一つ二つ、全部で八つだ。シドと凪の後方にもいくつかある。おそらく異能戦を繰り広げているのだろう、二人の周囲では大小様々な石や岩が浮かんでいた。


「お」


 上への速度が緩んで、落下が始まる。


「あああああ」


 落下への恐怖が無意識に私を絶叫させる。それを他人事のように眺めながら、自分の軌道が少しだけ凪の時と違う事実を観察する。きっと、体重差や異能の有無が原因なのだろう。そう考えると、再現されたのは異能だけで、それによってもたらされた結果ではないということになる。つまり、私が期待していた凪の落下対策がそのまま適用されるというシナリオはなくなったわけで、どうしよう。


「無理無理無理無理」


 走馬灯のように加速する思考は、けれど解決策を思いつくわけでもなし。バラバラになる荷物の一部を反射的につかむけど、鞄一つで何ができると言うのか。軍手を使って落下速度を落とす生活の知恵とかないかな。ないか。あるわけないか。


 ぐわん。現実逃避をする私を連れ戻したのは、下からのさらに強い引力。


「おぐ」


 圧迫されて変な声が出るのを恥ずかしがる余裕もなく、ほとんど真下へと向かう体。中断される放物線、私の代わりに吹き飛んでいくペットボトル。あっという間に左半身から黄土の流れに着砂する。


「――っ」


 痛い、落ちる、あと斜めだ。やっぱり流砂は山にできるのかな。近づくものを流砂で襲う現象? でもだとしたら、どうして。あるいは、もしかして。

 私の疑問は納得に変わることはなく、限界を迎える意識が暗がりに落ちていく。どうか、窒息せずに済みますように。

死源の鍵には災鍵という正式名称があります。「読み方が分からない」という理由で実質お蔵入りとなったため、作中では死源の鍵としか呼ばれません。

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