砂を担う徒に問う、何を成す
④
小学校のころ、初めて母に料理を教わった時のことを思い出す。当時の私にとって料理とは皿に乗せられた概念であり、魚の切り身と水族館は別の世界だった。皮をむいた玉ねぎの透明さや秋鮭のきれいな白身が、フライパンの中で私の世界を塗り替えて皿へとつなげていく。常識とはこうして塗り替わるものなのだと、子供ながらに感動したものだ。
「ムニエル?」
「……ホイル焼き」
聞かれてた。ちょっと恥ずかしいのは置いておいてだ。今私の心身を満たす感覚は、きっとあの時のそれと近いのだろう。バラバラだった法則が一つの意味を成し、世界を形作る感覚だ。
「ここはたぶん、逆再生の死源なんだと思う」
切り出した核心に対し、周囲の反応は三様だ。凪は考えるつもりのない真顔、白鳥さんは話を咀嚼しようと片目を閉じる。いち早く私の思考に寄り添った侭が、「その心は」と確認を求める。
「壊れたものが戻ってる」
例えば、さっき目の当たりにした泥の塔のリバースビルド。あれほど視覚的に現象と逆再生とつなげるものはない。
「常盤君、最初にここに来た時石投げたりしなかった?」
「ああ、投げたな」
予想通り。最初のリセットの際に飛んできた石礫。あれは紛れもなく凪自身が投げたもの。聞くと、石を投げたのは現象が発生する少し前。
「ある一定の地点を境にして時間の流れが逆転する、みたいな感じだと思う」
「へえ」
納得する凪。対照的に、侭は懐疑的だ。
「となると、リセットも逆再生の影響だと」
「うん」
指摘の通り、少し前にいた場所に戻されるという現象も逆再生と関連付けられる。私たちは戻されていたんじゃなくて、自らの足で戻っていた。
「その場合僕らは時間逆転に気づきもせず、しかもなぜか無意識で後ろ歩きをしていることになるね。この現象に理屈はつく?」
「うーん」
当然、確信の持てる説はない。思い当たる節があるのか、代わりに白鳥さんが指を立てる。
「人間はそもそも時間の流れを知覚できない生き物だって聞いたことがあるよ。止まった虫を見逃す両生類のように、俺たちは逆転を認識できず、しかし世界を変えるほどの変容に耐え切れず、意識を落とす。どうかな?」
「なるほど」
「超越負荷とでもいうべきか。ない話でもないですね」
納得を示す私と侭。侭の謎ネーミングはともかく、この仮説なら時間逆転によるリセット現象が説明できる。でも、何か別のところに見落としがあるような。あ、そうか。
「白鳥さん、逆再生される私たちのこと、見ました?」
おそらく白鳥さんが死源に再び引きずり込まれたのは逆再生の影響。なら、侵入は離脱の逆再生として起こるわけで、その時私たちの姿を見ていないとおかしい。
指摘すると、白鳥さんの顔は曇る。
「見たかもなんだけど、思い出そうとすると頭がぼんやりしてさ」
「……なるほど」
これはまあ、侭の記憶弱化の影響だよね。当人は自覚があるのかないのか、「しっかりしてくださいよ」と白鳥さんに責任を擦り付けている。一応、糾弾しておくべきかな。
「じゃあ次の謎だ」
「あ」話、逸らされた。もういいや。
「超越負荷を前提とした次の違和感。すなわち今だ。僕らは逆転世界を普通に流れている」
「そこも、自信がないところ」
ここが真の意味で逆再生の死源であるのなら、私たちは意識を取り戻した後も壊れたマリオネットのように後ろ向きに進み続けなければならない。けれども時の流れは健全そのもので、だからこそ私は現象に気づくのに時間がかかってしまった。
「人には意志がある」
私の背中を押したのは、意外にも凪の一言。
「というと?」
「あるだろ?」
押された背中が崖下へと落ちていく感覚。しょうがないから、飛び込み姿勢は自分でとるしかない。
「抗精神力の存在が異能の効きを弱めて、過去を逆再生しようとするのに抵抗する、ってこと?」
「だいたいそんなんだな」
自分で口にしてみると、なんとなく私自身の体も緩やかにどこかへ誘導されているような気になってくるから不思議だ。流れに沿って歩くと、きっと過去の逆再生になるんだろう。
ぱちりぱちりと、はまるピースを表現するかのようにまばらな拍手がなる。
「なるほど。ここは砂場かと思ったけれど、養鶏場だったわけだ。鶏が先か卵が先か、答えの出しえない命題に対し、鶏と卵を行ったり来たりすることで世界は矛盾の存在をなかったことにした。実に壮大で、実に盛大な話だね」
たぶん納得を示してくれているのだろう、白鳥さんの軽薄な語り。本人には話さないけど、これも逆再生説を推す一つの証拠だったりする。死源中を支配し続ける謎のノイズの正体は、たぶんこの人の絶え間ない独り言と、その逆再生だ。時間が一方通行でないこの死源において、あらゆる行動は履歴として蓄積していく。
「でもそうなると、大きな問題が一つある」
唐突に拍手をやめる白鳥さん。
「俺はどうやって逃げればいいんだってことだ」
「そこなんですよね」
白鳥さんの境遇に同情するだけではなく、これは私たちにとっても深刻な問題だ。何せ死源の外に出たとしても戻されるのだ。これではいつまでも私の日常は返ってこない。
「とにかく中心に向かおう」
凪はひたすらに前向きだ。中心、つまり死源の意志に触れることで、怪現象の解法を導き出せと、暗に私に示している。迷宮入りしないといいけど。
「死源の謎には必ず答えがある」
漏れ出た私の思考を拾う凪。自信満々に断言するけれど、根拠を聞くとまたもや「経験則」の言葉のみ。
「椎名君も同じ理解?」
「うーん」
こちらはずいぶんと自信なさげだ。
「否定する材料はない、と思う。ダンジョンの最深部に出口が出現するのはよくある話だし、出口のないアリジゴクにしては入り口が狭すぎる、ような」
「なんで推定系?」
黙り込んでしまう侭の代わりに、答えるのは凪だ。
「前回は解かなかったからな」
「ああ、そうなの」
そういえば、壊しただの殴っただの、謎解きとは言いがたい言葉を口走ってたっけ。経験則、さっそく崩壊じゃないか。
場に流れる気まずい空気を嫌ってか、侭は「過去のことはいい」と話を打ち切る。
「仮説は生まれた。柏木さんはどう動く?」
考えるべきことはいろいろある。けれども今やるべきは一つだ。
「もうすぐ時間逆転のはずだから、検証したい。手伝って」
時計を見ると十六時五十分。計算通りならあと十分くらいで時空が逆転する。調べる絶好のチャンスだ。
「あれ? 時計」
画面を見る手が止まる。私たちが死源に入って三時間半、現代技術の粋は正確に時を告げてくれているけれど、それはつまり時間が正しく順行していることを示している。私の説だと時間逆転に順応できるのは意思を持つ人間のみ。つまり、仮説崩壊?
去来するのは焦燥と羞恥。自信満々に時間逆転なんて言い切ったけど、よく考えるとオブジェの再生成はサイコキネシスとかでも実現できるわけで。いやでも破片の戻り方を考えるとあれは逆再生にしか見えないし。
「椎名君」
「なんですか」
ぐるぐると逡巡する私の思考。それを受けて動くのはどういうわけか白鳥さん。
「柏木ちゃん、困ってるよ。助けてあげたら?」
「僕にできることなんてありませんよ」
指摘された通り、何かを知っているのだろう。侭は不機嫌をあらわにする。それを見て白鳥さんはにっこりと笑う。
「分かるよ。普段から意地悪してそうだしね。悪意がないにせよそのスタンスを貫いたがゆえに、いざ助けたいと思ってもプライドが邪魔して言葉が出ないんだ」
ぽんぽんと肩を叩き、ことさら優しく諭すように。侭が手で払ってもお構いなしだ。しばらくからかいが続き、諦めたのか侭は息を吐く。
「黙ってると、この人の言葉が正しいと誤解されそうだ」
きっと私に対する建前。どちらかというと今の行動は白鳥さんの指摘が正しいことを証明するような気もするけど、何はともあれ助けてくれるらしい。
「僕は未来が好きなんだ」
「へ?」
「講じた策の成り行きを想像する。結果によって変わる景色を想像する。僕にはそれが許されている」
唐突な語り。真意を理解できないまま、続きを待つ私。
「想像の中で、柏木さんは苦い顔をしていて、ちょっと怒っている。理香を電話でけしかけて、卑怯にも自分の手を汚さずに僕を殴らせるんだ」
「うん?」
イタズラのターゲットは私か。というか、想像するまでもなく少し前に経験したパターンだ。例え話の意図は何だろう。確かなことは、私はそんなの許してないってことくらいか。
「僕らの想像する世界は服を着ていて、眼鏡をかけているんだ。僕から出せるヒントは、それだけ」
言い切って、侭は後ろを向いてしまう。だから表情は見えないし、やっぱり真意も見えてこない。
「眼鏡かけた人、いたっけ」
「柏木さんはもう少し頭を柔らかくしようね」
漏れ出た私の独り言。我ながら引くほどのマヌケさに侭がうめく。
「眼鏡ならたまに理人がかけてるな」
「凪はしゃべらなくていいよ。時間の無駄だ」
「んだと」
「次は俺か。眼鏡といえば――」
「大喜利はいいんで、白鳥さんも黙っててください」
がやつく男どもをぴしゃりと黙らせて、再びの沈黙。侭は私の返事を待っている。
頭を巡らせる。侭は未来の話をしたけれど、私が潜るのは過去だ。薄暗くて、つらい過去。泣き腫らした美奈の冷たい目、糸が切れたような優斗と聡。透明な猫、今となってはちょっと嘘くさい初対面の凪、安定して嘘くさい侭、透明人間。
「あ」
一つだけ、思い至る。透明になっていく観鈴の体。抗精神力の作用を考えると、まず服だけが消えるべき状況で、実に自然に消えていく。そういうことか。そして確かに、私の想像する過去で、みんなは服を着ていた。
「ありがと」
やっと侭の言いたいことが分かった。抗精神力は生物が異能に抵抗する力だ。その対象は、厳密に本人自身だけではなく、服や持ち物なんかを含んでいる。スマホの時が進み続けたのは、私がスマホと自分をセットと認識していたから。つまり侭は、私の仮説が正しいのだと応援してくれている、ということになる。この時間がない状況で、なんて回りくどい。
「何のことかさっぱりだよ」
やっと背中で語るのをやめる侭。胡散臭い笑顔が、少し優しく見えた。
「眼鏡はいいのか?」凪が私と侭とを交互に見回す。
「うん。大丈夫」
時間もあまりない。すぐに検証を再開しないと。肩に力をこめる。
「えい」
弱い投擲でスマホが砂漠に転がっていく。
「なんだいきなり」
「投げたものが戻ってくることの確認と、手を離れたら時計が逆回りするかの確認」
これで逆行現象とさっきの抗精神力の仮説を検証できるはずだ。多少の不安はあれど、こちらは問題ないだろう。次だ。
「まさか、さかさま、あからさま」
「今度は何だよ。急にしゃがんで」
「声の逆再生の確認」
予想通り、ノイズは白鳥さんの顔の高さを離れるほど小さくなった。多少は聞き取りやすくなるだろう。そういえば、オアシスで見舞われた怪現象、浮遊自体は超能力の履歴なんだろうけど、聞こえてきた声は誰のものなのか。声音も高度も違うから白鳥さんの独り言ではないんだろうけど。意見を聞いてみようと見やると、逆に問いが飛んでくる。
「それで、超越負荷はどうするつもりかな?」
「……そこも頭の痛いところです」
時間の境界で意識を落とす。対策のしようはあるのだろうか。
「僕にいい考えがある」手を挙げるのは侭。一応聞いてみよう。
「目を覚ますには衝撃を与えればいい。凪が柏木さんのことを時間切れまで殴り続けるんだ」
聞くんじゃなかった。
「ごめん、間違いだったか」
抗議の視線を送ると通じてくれたらしい。侭は首を振る。
「逆再生だから、思い切り押さえた状態から急いで手を離す、だね」
「……」
言い争いをし続けても時間の無駄だ。これも説教袋に入れておこう。
「俺がやろうか?」
被害者を買って出てくれる凪。それはそれでちょっと申し訳ない。少し迷って、腕を差し出す。
「一回だけ」
「あいよ」
残り時間は一分。周回がまったく同じ時間で起きる可能性はないけれど、そろそろだ。
「お願い」
「おう」
ぐっと押さえられた凪の指先が恐ろしいほどの速さで離れていく。これは痛そうだ。はたかれ損にならないといいけれど。
恐る恐る待つこと一分。時間逆転は、起きない。
「……念のためもう一回お願い」
これを三度繰り返し、本当に逆転が起きるのか懸念が生じ始めた段階で、ようやく私の意識は落ちていく。ここからが本番だ。
作中における超能力は物理現象の一種として作用しますが、それはそれとして使う側・受ける側の主観に強い影響を受けます。程度としては「できると確信してもできないことはあるが、できないと確信するとできないことはある」くらいのイメージです。




