∞-1
④
静かに揺れる水面。のぞき込むと砂の底がうっすら見えている。侭いわく、死源には許可されない生物は存在できない。だからここには虫もコケも住んでなくて、初見の印象よりはかなりまともだ。遠目に澱んで見えたのは、きっとこの曇り空のせいなのだろう。つまり、言うほど悪くない。
「……よし」
ひとしきり空想で自分を納得させたあと、さしてきれいではない現実の水に足を入れる。もちろん男二人の目があるから服も靴もフル装備だ。布と革から泥が染み出てきて、ただでさえ微妙なオアシスの景観がさらに悪化していく。
「長風呂はほどほどにね」
少し離れた個所で水分補給にいそしむ侭の声。どうでもいいけど、水浴びする女子をガン見するのは趣味が悪いからやめたほうがいいと思う。服着てるから別にいいんだけどさ。
服についた泥をこすり、絞り、ちょっと布地を心配し、よく考えると体のラインとかモロに出るじゃんと気づいたりすること数分。恥ずかしさを水気で相殺しつつ、ようやく人心地。
「どうかな、初めての死源は」
暇を持て余したのか尋ねてくる侭。いつの間にか近くの岩場に腰かけていて、なんだか実家のソファにでも座っているようなくつろぎっぷりだ。というかそろそろ水から出て服絞りたいんだけど、まさかずっと見てるつもりなのかな。
「感想も何も」
最悪だ。そう言おうとしたけれど、意外にも私の口は言いよどむ。危険と奇怪に満ちた旅、でもそこには出会いがあって、気づきがあって、思ったよりも楽しんでいる自分もそこにはいた。
「……次は普通の旅行、行きたいな」
水場から足を出して、浅瀬で髪を絞る。なんというか、比較対象が欲しい。こんな危ない場所じゃなくて、普通の海とか、山とか。
正直な感想。侭にとってはそれが意外に映ったらしい。目を丸くして、普段より少しだけ自然に息を吐く。
「いいね。ちょっと、楽しそうだ」
嫌味もなく肯定されて、今度は私が面食らう。はにかむように笑う侭の仕草が普段より少し子供っぽく見えて、なんだか初めて素の彼と接した感覚だ。
「でも今は、この異界に付き合ってもらうよ」
すぐに作り笑顔の仮面に隠れていく、椎名侭の素顔。ただの人でなしじゃない。今はそれで十分だ。
「服乾かすから、ちょっと後ろ向いて――」
言い終わるや否や、体がふわりと浮かぶ。
「泥を集めておくれ。」
「え」
見知らぬ何かの声。幻聴じゃない、明確に人、子供の声だ。何が起きている。そう考えるよりも早く気流が周りを覆い、切るような寒さで風が吹く。何かの攻撃、浮かぶ体、頭だけでも守る。まばらな思考の中、風は私の体をするりと抜けていき、気づけば地面に足がつく。
「んー?」
時間にして十秒ちょっと。結果だけ見れば、私の服は乾いていて、幻聴は幻聴だったとしか思えないほど跡形もない。
「どうかした?」
後ろを向いたままの侭が不審に思ったのか振り向いてくる。そういうの許可取ってやってよ。
「あれ、もう乾かしたの? どうやって?」
「分かんない。椎名君、泥がどうとか、聞こえた?」
「何の話?」
かまいたちのごとく私を襲った怪異、話を聞くと侭の首が曲がる。
「妙だね。この死源、乾燥機能はついてないはずなんだけど」
「幻聴機能はついてそうなのが怖いところだよね」
確認する限り、侭は「泥を集めろ」なんて言葉は聞いていないという。これはリアルな幻聴なのだろうか。一方で死源に奇妙なノイズが満ち満ちているのも事実で、気のせいと切り捨てるのも難しい。
「一応、常盤君の意見も聞きたい、んだけど。どこ?」
そういえば、水浴びしている間からずっと姿を見ていない。気を利かせてどこかに隠れてくれていた、と信じるには彼の行動原理は秩序から離れすぎている。
「凪ならあっちの方に行ったよ」
言うや否や、轟音。近くにある高いビルが地響きとともに半壊する。
「ひええ」
音の主が凪である蓋然性は高く、その由来が戦闘であることも想像に難くない。
「なんで止めてくれなかったの」
「止める理由が僕にはないからね。それにほら」
空中に指先を向ける侭。壊れたビルの上に人型の浮遊物体。服装からして、きっと凪だ。
「あれ、止められると思う?」
話に聞いていた、でも信じがたかった、人が浮く威力のサイコキネシス。凪らしき物体は低い風音が聞こえてきそうなほどの急加速で上昇し、本人が言っていた通り死源の天井にぶつかる。いや、着地(着空?)している。そのまま飛ばされていった凪は、街とビルの狭間へと落ちていく。
「あーあー、どうしよ」
ビルとの縮尺を見るに凪の到達高度は五十メートルくらい。普通の人間が落ちればまず間違いなく死ぬ高さだ。私が駆けつけて何ができるわけでもないけれど、焦るのが人間というものだ。
「ほっときなよ。さっきもあれくらい飛ばされたんなら、きっと大丈夫」
対して侭は落ち着き払ったままだ。水を口に含みながら、視線は遥か遠く、ビルの反対側に向いている。
「あれがシドかな」
豆粒の大きさで見えている、人の影。凪の情報通り、全身を黒衣で覆う怪人物だ。振るう力の大きさに相応する、得体の知れなさが遠目にも伝わってくる。
当人は凪との戦いに集中しているのか、腕を掲げたまま凪の着地方面を見て、こちらに気づいてもいない。
「奇襲でも仕掛けてみる?」
「やめなよ」
ここは視界がひらけすぎている。近づいた瞬間にサイコキネシスで制圧されて終わりだ。というか、戦闘を基準に物事を考えさせないでほしい。
「ん」
観察して、引っかかる点が一つ。シドの左手はワイングラスでも持っているかのように胸の位置で固定されている。よく見ると、掌の上に浮かぶ砂粒が一つ。
「コイン?」
柄までは見えないけれど、凪が好んで浮かせる記念硬貨と印象がかぶる。奪って浮かべている? 何のために?
「実はあのコインは凪の親の形見で、人質に取られてるとか」
「前回火あぶりだったじゃん」
妄言のやり取りをする間に、遠くの方で地響きの音。凪が着地か、あるいは墜落した音だ。
「助けに行かないと」
もつれそうになる足を引き連れて走る。その背中に刺さる侭の声。
「柏木さん、方向間違ってない?」
「うん、そうなんだけど」
足は自然とシドの方へと向かっていた。凪が心配なのは間違いないんだけど、危険は承知の上なんだけど、それでも私の好奇心が進む方向を決めつけて抵抗を許さない。
「もう好きにしなよ」
呆れて物も言えない珍しい侭。ごめん凪、あとで話聞きに行くから大ケガだけはしないでね。
「おーい」
意を決した私の背中から聞こえてくる、聞き覚えのある声。奇妙なことに、凪のそれではない。
「おーい、そこの人たち。助けてくれぇ」
振り返ると、見覚えのある顔が走ってきていた。
「え、なんで?」
「頼むよ。助けてくれ。助けてくれるよな。ありがとう」
白鳥さんは廃墟街の方を指さしながら必死で近づいてくる。よく見ると後ろに別の人影が見えたから、追われているらしい。促されるままについていき、混乱したまま廃ビル跡地に身を隠す。
「俺の名前は白鳥光也、大学生。先輩の誘いで山に遊びに来ていたはずが、ひょんなことから砂漠に迷い込んでしまっていた。豹変する日暮さん、俺たちは何に巻き込まれたのか。砂に埋もれた事件の香り、迷宮入りの匂いがするぜ。あれ? なんか同じこと前も言わなかった?」
「いえ」そんなトンチキ自己紹介を聞いた覚えはないです。
「なんか変なんだよな。俺は――痛っ」
急に頭を押さえてうずくまる白鳥さん。部屋中に先住民のホコリが舞っていて、かなり過ごしづらい。やがて、「そうだった」と低く笑う。
「柏木ちゃんと椎名君だ。思い出したよ。悪いね、人の名前覚えるのは得意だったつもりなんだけど」
「ちょっとタイムで」
ノリよくピタリと止まる白鳥さんを待たせつつ、事実確認。
「椎名君、これどういうこと?」
「記憶弱化は完全じゃないんだ」侭は忌々しげに笑顔を崩す。
「同じような状況を再現すると、簡単に記憶が戻ってしまう。憎らしいほど簡単にね」
ぶつくさと文句をこぼし始める侭。意外と自分の能力にプライド持ってたりするのかな。というか、問題はそこじゃない。
「白鳥さんの記憶、消してたの?」
「そりゃ消すでしょ」
「……そうかもだけど」
確かに私たちの立ち位置を考えると消したほうが合理的なんだろうけど、複雑な気分だ。考え込みたい気分だけど、律儀にストップ状態の白鳥さんを放置するのもかわいそうだ。気持ちを切り替えて、再生ボタンを押す。
「あ、もういいんだ」
「ありがとうございます?」
私は何にお礼を言っているんだろうか。
「それで、何が起きてるんですか?」
酸素供給がてら、バルコニーから顔を出して周囲を確認する。今のところ日暮氏は追ってきていなさそうだ。
「俺にもよく分からないんだ」
困惑を全身にへばりつかせた白鳥さんの話によると、死源から出たと思ったらいつの間にか戻っていたらしい。
「やっぱり、リセットのせい?」
死源の外にいた白鳥さんを異界が再び引きずり込んだ。そんな仮説を口にすると、侭が首を振る。
「異界化が作用するのは死源の内側だけじゃないかな」
「私もそう思うんだけど」
極大の超常現象を前にどこまで私の常識が機能するかは分からない。でも、死源が世界を隔てている以上、外側に異界が及ぶのは筋が違う気がした。
「ところで、白鳥さんはいつこっちに戻ってきたんですか?」
「あんまり自信ないけど、二十分か三十分くらいは前かな。ぼうっとしてたら日暮さんが襲ってきたから、すぐ逃げてきたんだ」
現在時刻は十六時半過ぎ。直近のリセットは推定十六時ジャストだから、白鳥さんの再侵入?時刻とも一応整合はする。でも、リセット現象に見舞われたのなら私たちと同じ場所に現れるはず。違いは何だろう。
「お、常盤君だ。おーい」
増える私の疑問をよそに、のんきに外に声を上げる白鳥さん。どうやら無事着陸できたらしい凪は、急な呼びつけに驚きつつ二階に上ってくる。さすがに無傷とはいかなかったのか、かなりくたびれた足取りだ。
「状況は」
「私もさっぱり」
少なくとも、鍵を持っていない白鳥さんが死源に入ることはできない。だからこれは死源の作用なのだろう。リセットに近い、けれどもリセットではない何か。
「というか、勝手に戦いに行かないでほしいんだけど」
「悪いとは思ってるよ」
言外に「でも行動を改めるつもりはない」と補足しつつ、凪が頭をかく。
「収穫はあったんだろうね」と尋ねる侭に対し、「よく分からん」と不服そうだ。
「奴の意志が見えない」
凪なりに目的あってシドに近づいてはいるらしい。戦闘以外の手段をとってもらえるとありがたいんだけど。
「仕掛けてきたのは向こうだ」
無実を主張する凪だけど、シドの言い分を聞いていないから判断がつかない。仕掛けてきたのであればあしらわれるように吹き飛ばされている現状は妙な感じだ。少し掘り下げたいけど、平行線になりそうな気配もする。
「それで、俺を助けてくれる話はどうなったのかな?」
茶化しつつも話題を切り替えてくる白鳥さん。侭に意見を求めると、ゆっくりと首を振る。私たちの持つ鍵は凪の一回分だけで、残念ながら余剰はない。冷静に事実を告げる侭に絶望する白鳥さん。一瞬笑ってしまうけど、すぐに他人事ではないと気づく。
「帰りのことは帰り考えればいいじゃないか」
愉悦たっぷりに諭してくる侭にやるかたない思いを感じつつ、話は次だ。
「日暮さんはどうしよう。引き続き豹変中な感じですか?」
「俺が話した限りはね」
白鳥さんは自分の腕を見せてくる。真新しい青痣がいくつもできていて、それなりに激しい戦闘があったことを想起させる。
日暮氏とシド。死源の東西に陣取る二つの脅威。幸いにも行動範囲は狭そうだから避けて調査することはできるんだけど、でも移動し続ける死源の中心を探すという意味では、行動を制限されるのは痛手だ。
「次はどうすんだ?」
行動を急かしてくる凪。放っておくとまたシドと戦いに行きそうだ。ついていくべきか、あるいは日暮氏との交渉に挑んでみるべきか。
迷うままバルコニーから外を見る。ちょうどさっき私が沈みかけたばかりの流砂地帯が映り、あっちに行くなと言われている気分になる。
「ん?」
視界を別の砂山に動かし、何度目かの違和感。そしてすぐに気づく。
「どした」
「あの山の方」
違和感の正体は砂地に残されたオブジェ。視界の彼方で豆粒サイズになっても分かる、私が最初に見舞われた被害の痕跡だ。
「泥だな」
「あれ、爆発したのさっきの周回なんだよね」
「ん、ああ」
凪も気づいたらしい。首をかしげる。
爆発したオブジェはリセットを経由すれば元に戻る。少し前に見た通り、それが私の仮説だった。けれども今見えている別の残骸は復活しておらず、私が土の味を知った時と寸分たがわない配置で砂に晒されている。
「日暮、がまた爆発させたとか」
「そうかも」
でも、何のために? それとも核である鍵を引き抜いたことが影響している? いや違う。日暮氏が作った物質が死源の現象に影響するはずがない。でもなんで。不可解が頭蓋に刻み込まれていく。そもそも法則などあるのだろうか。困惑する私たちの目の前で、さらに異質が表出化する。
残骸が、動いた。
「なにあれ?」
動いたという表現は正確ではない。空中に浮かび上がった泥の破片は、まるで演習場に整列する軍人のように宙に並んでいく。数秒と待たずして出来上がる、元のオブジェの形。その情景は、私に一つの可能性を示唆するのに十分すぎる衝撃を与える。
「……逆再生だ」
よどみなく進行していた夢幻砂漠が足を止め、ぐるりと反転する。
これまでの不可解を説明しうる死源の真実、すなわち時間の逆転現象。
全身を怒涛の勢いで流れる「ありえない」と「まさか」の洪水。けれどもその中に確かな興奮を感じている自分がいた。
異界に満ちる現象は超えるべき壁であると同時に、本作においてはハウダニットの一種でもあります。事件はすでに起きているのか、それともこれから起きるのか。




