旅行へ行こう
古い偉人いわく、平和というのは相対的な概念であるらしい。人生という湖に大きな波紋が生まれ、それが収まった際にできる一時的な虚無。人はそこに虚しさではなく安らぎを覚えるのだとかなんとか。
だから、珍妙な事件やクラスメイトの失踪を乗り越えたここひと月の私は、正しい意味で平和だと言えたのだろう。普通の交友、普通の勉学、普通の衣食住。理香の助力も相まって、無事私は普通の高校生として環境に溶け込むことに成功した。
今日も普通に放課後を友達と過ごし、普通に買い物をして普通のワンルームに帰宅し、普通に食事し、洗い終わった食器の水滴を布巾で拭う。身に染みる。これが平和ということなのだろう。
垂れ流しのテレビでニュースキャスターが来週からの梅雨の到来を告げている。そうか、もうすぐ六月なのか。恒例行事という平和。
ふとテーブルに目をやると、置きっぱなしの端末が着信を知らせて点滅していた。発信者は――
「もしもし柏木さん、僕だけど」
平和が、崩れた。
ここひと月半の間沈黙を保っていたサバイバーズギルド・スピンオフ。その代表(人でなし)から電話がかかってきたのは、五月も終盤に入ってからのことだ。呼びつけに唯々諾々と従い、落日荘の門戸をくぐる。地下室をノックした私を待っていたのは、楽しげな侭の顔だった。長机に椅子を引き、足を組んで頬杖をつく悪役の態度。そのままワイングラスでも持つといいよ。
「週末に旅行に行こうと思うんだ」
ずいぶんと楽しそうな響きだ。問題は、この言葉の何パーセントに虚偽が含まれているかだけど。
「そう怖い顔しないでほしいな」
私の訝しみを察知した侭は、コピー用紙で作ったうちわのごとくへらへらと言を取る。
「僕はただ、柏木さんの歓迎会をやるべきだと思い立っただけだよ」
その後も「偶然知人が」とか「予算の都合がついて」とか、のべつ幕なく並べ立てる侭。ちょっと喉が乾いたし、お茶でも入れようかな。戸棚を漁るとインスタントの茶葉はどれも湿気ている。安さ重視で選んだに違いない。とりあえず一番マシな匂いだったアールグレイをカップに入れて、机のホコリを宙に集めている凪の横に座る。
「あれ、嘘だよね?」
「ああ、嘘だ」
凪の言葉は端的で助かる。そこ、露骨に不機嫌そうな顔をしない。「騙して連れていきたかったのに」なんて、そこを正直に言われても困るんだけど。
ただ、どこかへ出かける用事があるというのは本当らしい。
「行き先は?」
尋ねると、侭が引き出しから地図を取り出して見せる。国内地図には均等に赤い点が六つ、地図を持つ手はそのうちの一つを指さす。
「ここ」
「……ここって、死源だよね」
「あ、知ってた?」
そりゃあ知っているとも。死源とは読んで字のごとく、死の源。つまりは大災害、ジエンドの震源地だ。
「ジエンドの被害者は全国に満遍なくいるけれど、実はその分布には偏りがあるって話は聞いたことあるかな?」
「その中心地点が死源、なんだよね。知ってるってば」
侭がニマニマ笑いながら不謹慎をまき散らすのにもげんなりだ。
地図にできた点は実際には点ではなく、半径数キロの円形空間を示している。記憶が確かなら、その円の内外を一つの基準として死亡者数が十倍以上に跳ね上がるという調査結果が出ていたはずだ。つまるところ、死源はジエンドという大量殺人の事件現場と言えよう。
ある種のパワースポットである死源という空間に対し、災害の謎を解くという名目で研究する学者ども(自称かつ無給)もいるくらいだ。だから、この二人が目をつけていないはずはないと思っていた。
「一応言っておくけど、普通の人は入れないようになってるよ?」
「大丈夫。今はここが『開く』周期だから」
侭の言葉には倫理観が欠片も感じられない。シンプルに立ち入り禁止だと言えばよかったか。
「準備はいらないよ。手ぶらで結構」
「あーはい。そうですか」
そっけなく返してはみても、私に断る権利もなし、ついでに言うと週末の予定もなしだ。もう両手足を引き込まれている以上、できる限り頑張るしかない。
「『開く』って?」
意味深長に弾き出されたワードを拾いつつ、紅茶を一口。ちょっと薄い。
「文字通りだよ。六ケ所の死源は普段は何者をも拒む立ち入り禁止区画なんだけど、定期的に入り口を開いてくれるんだ」
「そんなバカな」
遊園地のアトラクションじゃあるまいし。警備の人を買収でもするのかな。答えが返ってくるのを期待して無言の圧をかけてみたところでにべもなしだ。
「まあ、楽しみにしておいてよ」
懐から何かを取り出して真上に放り投げる侭。一瞬だけ見えたのはこの間見せられたチェスピースもどき。いよいよもってあの謎物質が今回の旅程に関わってくるらしい。
諦めが肝心か。少なくとも、週末には何かが分かる。今はそれでよしとしよう。
「用事はこれで終わり?」
期待はするけどたぶん違う。これだけの用事なら昼休みに話せば十分だ。ようやく成り立ってきた私の交友関係に配慮してくれた、なんてこともないだろう。
「いいや」予想通り、侭の答えは否定。「宗像の所在が分かった」
「ほんと?」
宗像灯弥の失踪は、先の透明猫事件で起きた最後の謎だ。井垣さんが転校先に引き渡すまでのわずか数時間の間に雲隠れした事件の犯人。まんまと逃げられた侭を見て、凪が指さして笑ってたっけ。
「どこにいたの?」
「赤里の総合病院で保護されてた」
頭にハテナが浮かぶ。示された地名は、ここから車で四時間はかかる他県の田舎だ。困惑する私に、侭が続けて情報を流し込む。
「井垣さんいわく、記憶どころか自我すらろくに残っていない状態だったらしい」
突然現れ、何もしゃべらず、物の食べ方すら覚えていない不気味な患者、というのが井垣さんが直接聞きだした現地の看護師の言葉だ。
「椎名君、もしかして記憶処置に失敗したんじゃ」
あまり考えたくはないけれど、一番に浮かんできた疑問。記憶を消しすぎてしまったのでは? 侭は心外だと言いたげに首を振る。
「僕の能力はそこまで強くない」
侭の表情に笑みはなく、その言葉に嘘は――いや微妙に信用できない。実績が足りない。
「やったのは『The rENDだ』」
静かに話を聞いていた凪がぼそりと言う。
続く凪の説明によると、何もかもを失った宗像君が唯一覚えていた言葉が、その「The rEND」という単語らしい。
「Rend、確か意味は『裂く』だったっけ」
頭の中の辞書をひっくり返しながら考える。意味よりも、ジエンドに響きが似ていることのほうが気がかりだ。集団か個人かあるいは別の概念か。言葉からはおよそ推察しづらい。
「何者なのかな」
「井垣さんに調べてもらってる」
凪の言葉は裏返すと、まだ答えが見つかっていないことを示している。渋めの表情からしてありうべからざると言いたげだ。
「マフィアみたいな犯罪組織だったり」
声が震える。一番恐れるべきは、武力と知恵を持った大人の組織が相手である可能性。高校生数人と顔が怖いだけのおじさんじゃ太刀打ちできない。
「いや、たぶんガキだ」
凪の短い否定。言葉には確信が宿っているように思えた。
「なんで?」
理由を問うと、「俺らと同じ」と侭を見やる。
「まともな大人はこんなバカげたことをしない」
自虐する凪に対し、侭は嗜虐的な笑顔。
「まともじゃない大人かもしれないよ」
「ならもっとうまくやるだろ」
言われてみれば、自分の名前をわざわざ残すあたりは子供じみた挑発とも解釈できる。
「凪の論理はともかく、犯罪組織に子供が多いのは事実だ。昨日潰したラスグレイヴも大学生くらいの集団だったでしょ?」
「いや、私それ知らないし」
「そうだったかな? ごめん、次は誘うから」
「誘わないで」
なるほど確かに、子供じゃないとできない所業だ。嬉々として犯罪まがいの活動記録を見せびらかされても怖いだけだって。
「潰すか? The rEND」
「泳がせるよ。どうも僕らに用がありそうだし、そのうち近づいてくるだろう」
不安要素ではあるけど、その通りだ。侭がそこで話題を締め、会議は解散となった。
「柏木さん、夜道に気を付けてね」
「うん?」
心配されているのか脅されているか。送ってくれる気のない侭に空のカップを押し付けて重い足取りで地下室を出る。
「週末よろしくな」
「う、うん」
朗らかに不法侵入を促してくる凪。その笑顔を玄関口に置いてきて、今日の私は家路に着く。遠くの火事より近くの火種。急いで週末の準備をしなければ。
二章開始。異界の謎を解く話です。




