さわれない咎
柔らかな日の光が、観鈴の目蓋を開けさせる。眠ってしまっていたらしい。コンクリートの地面が観鈴の背中を痛ませたが、幸い温かい夜で体調はかなり回復していた。
「店員さんに、お礼言いたいな」
もしもの可能性にかけて体を確認するが、依然として消えている。せめて顔を見たい、勇気を出して話しかけたい。そんな思いと共に、店の中に近づく。
「働いてる」
カウンターの内側で、常連客らしきおばさんたちと話す店員の姿が見えた。おぼろな視界はすべてを曖昧にしていたが、少なくともエプロンを付けた人間は一人だけ。彼が店長なのだろうと推測する。
時間はお昼時。それにしては客足が少ないと思ったが、観鈴にとって都合はよかった。人がいなくなったタイミングで声だけかけて、そのまま立ち去ろう。
「――猫がねぇ」
観鈴の思考を遮ったのは、常連客の発した声。婉曲な言い回しの雑談だったが、要するに変な猫を見つけて驚いたという話をしている。
「行かなきゃ」
途端、頭の中に熱が入るような感覚が観鈴を襲う。焦燥に駆られ、衝動に突き動かされ、無心に喫茶店を飛び出した。
一日ぶりの猫たちのたまり場。住人たちはおとなしく観鈴を迎え、けれども変化が一つ。
「ちょっとくっきりしてる?」
経験上、完全に透明化すると視界が塞がる。ゆえに観鈴はわずかに輪郭を残して猫たちを消していた。けれども足元の半透明は、観鈴の記憶よりもさらに不透明だ。能力は時間経過で減衰するらしい。
「ごめんね」
もう一度能力をかけなおす。ほとんど見えなくなった猫を見ると、少しだけ心のざわめきが鎮まる気がした。
半日をかけて猫たちを探し出し、再び消していく。六匹を消し終わるころには夕方を迎え、再び空腹と疲労に苛まれる。
「シカクとハート、どこに行っちゃったんだろ」
観鈴の不安を加速させるのは、見つからなかった猫たちの存在。明日は見つかると自分を騙す。
疲れた体を揺らして迷い込むのは再びの路地裏。あの喫茶店であれば、夜を明かすくらいは許してくれるだろうと、身勝手な期待をしてしまう。
「やあ猫さん、いらっしゃい」
温かく迎えてくれる三上の声。湯気を立てるパスタと、猫には不要なフォーク。明らかに人間だと見抜かれている。
「みゃあお」
けれども観鈴の常識は正体を晒すことを許さない。泣きそうになりながら精一杯の感謝を表現し、空腹を満たす。涙によく似た味の優しさが、ここにいていいと観鈴に言ってくれている気がした。
太陽が月を呼び、月が太陽を連れてくる。その繰り返しの中、観鈴はひたすら猫を消し続けた。家には戻れない。学校にも行けない。それでも、日ごとに減っていく猫たちへの思いが、観鈴を動かす。
慣れと焦りが能力に込める意思を増幅させていく。最初は半透明だった猫たちは、やがては観鈴の目にも視認できないほどの精度で世界から姿を消すようになる。猫の減少は止まらない。
「今日は四匹、だけかな」
効果はないのかもしれない。けれども観鈴は力を行使することをやめられない。目蓋の奥にうずく痛みが、思考を痺れさせていた。
一日のほとんどをかけて猫たちを消し、夜には喫茶店に戻る。観鈴が猫の姿でひっそりと庭先に忍び込むと、見計らったかのように食事が用意されていた。依然混乱はあったが、それ以上の感謝と罪悪感が、疑問を埋もれさせていく。せめてお金だけでもと、透明な財布から紙幣と硬貨を庭先に隠した。
「前に一度、ここでジャコウネコを飼おうとしたことがあるんだけどさ」
食事の間、三上は扉越しに他愛のない話をすることが多かった。ぐだぐだと管を巻く、話し好きの長話。けれども柔らかい三上の声が観鈴を安心させたのは間違いない。返事ができないもどかしさの代わりに、猫の鳴き真似で感謝を示した。
再び日は昇る。その日観鈴が見つけたのは、猫ではなかった。三匹の猫を消し終えた帰り道、スーパーマーケットの入り口に門番のように立ち尽くす、重厚長大なスーツ姿。
「野茂さんだ」
サングラスで強面を増強させながら、何かを探すように周囲を見ている。助けに来てくれたのだろうか。情報源はたった一分の通話だけ、観鈴の秘密を守るために協力者も得られない。その状況で、この場所にたどり着いた。オイルの切れた重機のような重い動きが、支払った労力の大きさを観鈴に伝える。
帰れる。助かった。終わった。胸の内に広がる安堵の感情。駆け寄っていく足。音に気づく野茂の目が、観鈴の頭の高さに合う。
「いますか?」
低く通る、巌のような声。声音には疑いと訝しみが混ざっていたが、少なくとも敵意はない。この人なら助けてくれる。観鈴の手が、野茂へと伸びる。
「……」
けれど、指先は届くことはなかった。金縛りにあったかのように固まる右手。困惑する観鈴の内側から発せられる、声。
「ごめんなさい」
「どういう意味ですか」
「私には、やるべきことがあるんです」
観鈴の心を支配したのは、猫たちのこと。自分がいなくなれば、あの子たちを守れる人がいなくなる。
地面に落ちる透明な涙。アスファルトにできた暗がりを見て、野茂は息を吐く。
「しばらくここにいます。用事が終わったら、帰ってきてください」
「……」
観鈴は無言のままに踵を返す。終わりの見えない戦いが、真の意味で心を削り始める。
猫を消し続け、八日が過ぎる。悲壮な決意が何をもたらしたのかは分からないが、力は日に日に増していく。
「私、どうなっちゃうのかなぁ」
体は依然として元に戻らない。けれど、込める力をさらに増やしたおかげか、ここ三日ほどは猫の減少にも歯止めがかかっていた。自分の力は役に立っている。その事実だけを奮いにし、歩き続ける。
「野茂さん、今日もいる」
喫茶店から始まる巡回ルート、その帰り道に立ち尽くす野茂の姿。日に日にやつれているように見え、それも観鈴の心身に鞭を打つ。
「事情、話してみてもいいのかな」
心細さから、観鈴の常識が揺らぐ。野茂であれば、渋い顔を見せつつも黙って話を聞いてくれるのではないか。淡い期待が、再び観鈴に救いの手を伸ばさせる。
「――っ」
指先はまたも動かない。止めたのは内を蝕む敵意だけではなく、外側の第三者。スーツの背中を通した反対側に、少年の姿があった。ぼやける視界は相貌を映さない。けれども背格好が、冷徹に響く声が、握られた拳が、観鈴にノナの死をフラッシュバックさせる。
少年は野茂に対して何かを訴えているようだった。おそらく立ち退きの依頼だろう。反対する野茂と、頭をかく少年。どういうわけか、しばらくの会話を経て構えを取る男二人。
理解できないままに始まる闘争。そして観鈴は見てしまう。野茂と殴り合う男の、この世のものとは思えない恐ろしい形相を。
「ひ」
観鈴の発する音に気づいたのか、少年の顔がこちらを向く。ぼやけた視界を貫通して打ち付けられる、強い意志。「殺す」と、そう言いたげな顔は、見えていないはずの観鈴をまっすぐに見据え、けれども野茂の拳によって視線を戻されていく。
高鳴る心臓、震える膝と肩。やがて去っていく野茂。追いかけようにも道路を横切る少年の歩みがそれを阻む。一瞬、その顔がこちらを向いた気がした。射貫くような視線はすでに消えていたが、目に焼き付いた闘争の光景が観鈴をその場に縫い付ける。呪縛から抜け出たころには野茂の姿はどこにもなかった。
少年たちがどこかへと去るのを見届けて、観鈴はようやくその場を後にする。
異能犯罪。確か父が専門とする分野の一つだったはずだ。超能力者の中には敵意を増幅させられて犯罪に手を染める子供がいると、ニュースで見たこともある。あの少年や、ノナを燃やした犯人もきっとそうなのだろう。全身に染みついた恐怖を抱え、観鈴は喫茶店へと逃げ帰る。
蒸し暑いくらいの春の夜。それなのに体の震えが止まらない。何かが音を立てて崩れる、変わり始める、そんな気配がした。
二日後の夜、観鈴はそれを見つける。
「なに、これ」
足が止まり、言葉が途切れる。クビキリ通りの路地にいたのは四つ足の華奢ドクロ。傍らに首輪を投げだしたそれは、猫の死骸だった。
「ダイダイ?」
名前を呼んでみる。返事はない。あるはずはない。かつてふわふわだったオレンジ色の毛並みは硬い白だけに変貌していて、そこに生命は一滴たりとも残っていない。
「なんで?」
猫の姿は完全に透明だった。一日やそこらで見えるようになるはずもなく、観鈴ですら探すのに時間を要するほどだ。見つかるはずがない。殺されるはずがない。
「なん、で?」
息が肺の中に入っていかない。呼吸の仕方が分からない。光を拒絶した暗い視界が、観鈴の心に絶望の二文字を植え付ける。
「探さなきゃ」
絶望に背中を押され、叩かれ、打ち据えられて、観鈴はただ走り出す。
「よかった。この子はまだ生きてる」
残りの猫たちを探し、嫌になるほど強く力をかけていく。反動で見えなくなる世界が、観鈴をさらに不安にさせる。何度も壁にぶつかり、地面に転がりながら、喫茶店に逃げ帰る。
「やあ、今日も来たんだね」
変わらず観鈴に声をかける三上。穏やかな声が、かき混ぜられている心を少しだけ鎮めてくれる。野茂はいなくなってしまったが、三上を頼るのもありかもしれない。
「にゃ――あの」
観鈴のか細い声は、三上の言葉に打ち消される。
「今日は珍しいお客さんが来たんだ」
いわく三人組の高校生らしい。確かに若い客がこの場所にたどり着くのは珍しい。
「透明な猫がいるとかで、その原因を探してるんだって」
三上は「超能力ってすごいんだね」と受け売られた知識や現象の話に花を咲かせる。
「物を浮かせたり、透明にしたり、解除したり、面白いよ」
「え?」
思わず、声が漏れる。三上は確かに解除と言った。超能力を解除すると。気にせず話し続ける三上に耳を傾けると、確かに三人組の高校生は透明な猫を見えるようにして回っているらしい。三上は「猫の場所を教えたから、透明な猫はいなくなっているかも」とも言った。
まずい。震えていた血液がさらに温度を失い、氷点下の戦慄が奔る。それなのに血管を流れる音や心臓の鼓動はやけにはっきりしていて、観鈴の体を突き動かす。
「にゃ、にゃあ」
鳴き真似一つ、コインを二つ。そのまま、弾き出されるように喫茶店を離れる。
遠くから聞こえてきた「夜は不審者が出るから危ないよ」という言葉が、観鈴の足をさらに速めた。その不審者を見つけなければ、猫たちが危ない。
「……そんな」
さんざん足を運んだ猫のたまり場。そこで観鈴が見つけたのは、最悪の具現。白骨化した猫の遺体だ。同じ光景が、場所を変えても変えても観鈴を襲う。
「なん、で」
漏れ出た感情は困惑ではなく、怒り。観鈴の中で、事件が起きた理由は明白だった。猫は透明でなくなったから殺された。ただ、それだけの話だった。
「余計なこと、しないでほしいのに」
分かっている。三上の話を聞く限り、三人の高校生に敵意はない。ないはずだ。善意に基づいて猫たちに起こる怪現象を解消し、満足して帰っていった。
「何も知らない、くせに」
怒りに染まりつつある思考。打ち切って、首を振る。
「お墓、作らないと」
図書館の横に、お気に入りの花壇にお墓を作ろう。月明かりを反射する青白い成れの果てに、精一杯の慈悲を込めて手を触れる。
「……え?」
眼前の光景が、観鈴の手を止める。運ぼうと触れた白骨死体、けれども目の前には、生前と変わらない姿で野良猫が座っていた。
「ダイダイだ」
人懐っこい笑顔を見せるオレンジ猫。死から最も遠い、望んだ猫の姿がそこにはあった。
「あ、あはは」
あぶくのような笑みがこぼれる。
「そうだったんだ」
頭の内側の熱が、ギリギリと頭蓋骨を圧迫する感覚。けれども不思議と、嫌な気分ではなかった。
「私の力は、この子たちを助けるためにあったんだ」
触れた遺体を生前の姿に戻す。猫は鳴かず、触れられない。けれども生きている。観鈴はそう信じ、疑わず、死の秘匿を意志とした。
再び観鈴の戦いが始まった。その夜のうちに三匹の死を覆い隠し、安全な場所に動かす。生き返らせた猫は隠せないからだ。その理由から観鈴はそっと視線を外す。
巡回を朝と夜の二回に増やした。猫たちが決して死んだままの状態にならないよう、必死を尽くした。
「また、いた」
次の日に、新たに三匹の遺体を見つけた。猫殺しの中で、何かが吹っ切れたのだろうか。それとももしかすると遺体は初めから存在していて、すべてから目を逸らしていただけなのかもしれない。そう感じるほど簡単に、白骨死体は観鈴の前に現れた。
「ごめんね」
見つけた遺体を一つ一つ死から逃れさせていく。見つけた六匹すべてが死ではなくなった。観鈴はそれに高揚を感じつつ、けれどもノナを生き返そうという思いつきを実行に移すことはしなかった。違和感の正体に気づく前に、急いで公園を抜け出した。
消すのではなく現す異能。今まで経験してこなかった使い方は観鈴の脳に鈍い痛みと痺れを与えていく。手足もうまく動かない。喫茶店に立ち寄っても、食事が喉を通らない。
「やっぱり、私、おかしいのかも」
猫を探し、死に絶望し、生き返す。悲劇だけを報酬に走る孤独なメリーゴーランド。最後の路地裏。観鈴はついに、そこに佇む一人の少年を見つける。
背丈は自分より頭一つ以上大きく、学校指定らしきジャージ姿。透明化を解いている高校生か、猫殺しの不審者か。前者なら邪魔をしないよう頼みたい。後者なら。
「――さなきゃ」
緊張で喉が締まる。呼吸が浅くなるのを自覚しながら、観鈴は足音と息を殺し、少年の後ろにつく。その双眸が一瞬、観鈴の姿を捕らえたように光る。きっと、気のせいだ。
男はしゃがみ込み、退屈そうにあくびを噛み殺す。猫に触れているであろうその手は優しげで、もしかしたらいい人なのかもしれない。味方をしてくれるかもしれない。
「そうだ」
男は何かを思い立ったらしい。手を低く掲げて指を鳴らす。
瞬間、光が弾けた。
その光を見た瞬間、頭の中が真っ白になる感覚があった。足元で、生き返らせた猫たちが風に引き裂かれるかのように空中に分離していく。
思わず息を呑む観鈴と、それを察知したのか振り向く男。その表情は、観鈴の狭い視界でも理解できる程度には、狂気に染まっていた。
猫探しの少年と重なる、敵意。もはや両者が同一人物かどうかなどどうでもよかった。
無心のまま、透明にしておいた傘を拾い上げ、少年へと思い切り振りかぶった。
翌朝、一睡もできないまま観鈴は朝のパトロールに向かう。もはや意地だった。昨日の戦いが夢であること、光に呑まれた猫などいないこと、自分こそが誤りで、猫たちはそもそも死んでなどいないこと。ありえない期待を寄る辺にして、猫の住処を巡り歩く。
猫たちは変わらない姿でそこにいた。朝日にまぶしがるでもなく、人の気配に尻尾を立てるでもなく、変わらない。
「……おはよう」
触れられない猫たちに手を添え、少し力を込める。猫たちの姿が少しぶれ、目の色や耳の形が変わる。違和感。
「違う、こんなじゃない」
痺れる脳とぼやけた視界が、それでも否定する。現わされた猫たちの姿が記憶と乖離する。そう思えてならない。何度やり直しても違和感は増していき、次第にありとあらゆる負の感情が内側から観鈴の首を絞めていく。
「どうして?」
初めは、後悔と絶望。猫たちへの気配りが足りなかった。監視が足りなかった。
「どうして」
次は、恐怖と疑念。これをやったのはきっと三人組。透明化を解除できるなら、死の秘匿も解除できるはず。でも、なぜ死ぬと分かっていて猫たちを骨に戻せるのか。
「どうして!」
やがて恐怖は怒りへと変わる。自分以外の超能力者はすべてが敵だと、ボロボロの思考が結論を急がせていく。
「殺してやる」
透明な猫のうわべを撫でながら、無意識につぶやく。足元の影から観鈴を暗がりに引きずり込む何者か。それが己自身から這い出た敵意であることに、観鈴は気づかない。
毎回ではありませんが、本作では犯人や被害者に対し短い回想パートを用意しています。物語が停滞しないよう、一部を除き二話以内で終わります。




