見えない真実
文月観鈴は聡い子供だった。政治家である父が常に「大事な時期」にいることを応援していたし、医者である母が自分より患者に会いたがることにも同情していたし、そうした多忙を理由に両親が自分との対話を避けていることにも気づいていた。
けれども理解で納得は代用できない。友達の家には当たり前に両親がいて、当たり前に笑顔がある。その事実は、幼い子供を歪曲させるに余りある境遇だ。
自分は愛されていない、いてもいなくても同じだ。九歳にして自己否定に苛まれる観鈴を変えたのは、大災害だった。
十二月二十八日、午後六時十二分。運命の時間。その時観鈴は母の職場近くの学童保育で孤立した時間を過ごしていた。母が仕事から解放されるまで数時間、この世で最もつらい時間だ。
「何、あの空」
観鈴が異変に気づいたのは、見ていたテレビが急にノイズまみれになったせい。耳鳴りと違和感を受けて窓際に駆け寄ると、見えたのは空を刺す黒い稲光、それから遅れて透明な光の波動。ようやく、未曽有の事態を自覚する。
「うぁ、あれ?」
理解不能な異質が体の中に流れ込んでくる感覚。記憶や人格を上書きしていく死という概念。虹色の視界に浸され、命が遠のく、にぎやかな末期の光。しかしそれは突如として静寂する。観鈴が意識を取り戻した時、彼女は母親の腕に抱かれていた。
「……お母さん?」
母親は観鈴が無事であることを確認し、そのまま動かなくなる。言葉はなかったが、その行動は観鈴に親の愛を確信させるに十分なものだった。歪な喜びが心を満たし、それ以上の速度で深い悲しみが虚ろに影を落とす。それが観鈴にとっての、ジエンドの一幕だった。
災害から数か月。生傷がようやく爪痕に成り代わったころ、観鈴の家に一匹の猫が届けられた。名前はノナ、送り主は父親で、知人が諸事情で飼えなくなったために引き取ったと、そう書かれた手紙と一緒だった。災害以来、政治家として今まで以上に多忙を極めるようになった彼なりの罪滅ぼしのつもりなのだろう。観鈴はそれを理解しつつも、父の事務的な優しさに不義理を見出さずにはいられなかった。
「こんな猫なんて、いらないのに」
積み重なる不満と失望。それなのに怒りを向けるべき父親は戻ってこない。ゆえに観鈴は鬱屈とした感情をノナに向けることになる。
餌を投げてぶつける、寝ているところを無理やり起こす、寝床を移動させる。くだらない嫌がらせだ。ノナはそのどれをも意に介さず、観鈴を余計に惨めな気持ちにさせる。
ノナは孤独な猫だった。一人で広い部屋に住み、給餌器から自動で出てくるペレットをくわえ、専用の出入口から気ままに外出する。
猫は孤独にとらわれない。罵倒も称賛も聞き入れない。次第に観鈴は、そんな飼い猫に快いものを抱くようになっていく。そして同時に気づいてしまう。失われた信頼を取り戻すのは簡単ではないということに。ノナは当然と観鈴を避け、そのせいで観鈴もノナに近づくことをためらうようになっていた。
「これじゃお父さんと一緒だ」
いつの間にか、父親の不誠実を笑えなくなっていた自分に嫌気がさす観鈴。その横を我関せずと通り過ぎるノナ。だから彼女は、自身を変えるべく再び異能を頼る。
ノナはいわゆる巡回猫だった。観鈴が飼育を怠ったこともあり、数日に一度は家を出て、長い時間をかけてどこかに出かけたあと戻ってくる。まずは彼女の世界を知らねばならない。その夜、観鈴は小さな決意と共に、能力を発動させる。
「よし。ちゃんと見えてない」
授かった異能は姿を風景に溶け込ませるだけのささやかな力。世間では異能を忌避する風潮が出来上がりつつあったが、観鈴にとっては母の愛を思い出す唯一の手段だ。
ぼんやりとした視界の中、首輪の鈴と青い目を頼りに、スニーカーで足音を殺しながらノナを追いかける。ロシアンブルーはふてぶてしく一度尻尾を揺らしたが、特に振り切ろうともせずゆっくりと歩く。
「……ノナ、人気者だ」
孤独な猫に供することで、観鈴はノナが孤独ではなかったことを知る。ある時は猫の集会に参加し、ある時は違う名前で魚をもらう。そこに家にいるときの仏頂面はない。当然といえば当然だ。猫より狭い世界に生きていた自分が恥ずかしくなり、同時になぜだか少しだけ温かい気持ちになった。
以降、観鈴に姿を消して猫を追いかける趣味ができた。日中は相変わらず不愛想なノナも夜間は楽しげで、観鈴にはまるでノナと仲良くなったかのような錯覚が生じた。
趣味は五年、六年と続いていき、しかし唐突に終わりを告げることになる。
最後の日も、観鈴はいつもと同じように揺れる尻尾を追いかけていた。珍しくいつもと違う巡回ルート、知らない公園。そこには先客がいた。能力の反動で相貌は不確かだが、雰囲気からして男の、未成年だろう。
「新しい飼い主さん、かな?」
少年は近づいてくるノナを見てしゃがみ込み、顎を撫でる。垂直に立った尻尾から、相手に心を許していることがうかがえた。
羨ましい。そう感じた観鈴は無意識に目を逸らす。そのままに時は過ぎ、事件は起きる。
一瞬のまばゆい光、横顔を照らす小さな熱に顔を向けると、そこにノナの姿はなかった。
「え?」
思わず声が出てしまい、焦って後ろに下がる。相手は観鈴の姿には気づいていないようだ。それどころか我を忘れたかのように自失し、膝から崩れ落ちる。背中から漏れるのは、震えた声。
「違う、殺してない。俺じゃない」
何一つ、理解不能な言葉。けれども嫌になるほど頭の中にこだまする。
ノナが消えた? 死んだ? 混乱の最中、再びの閃光。公園の遊具が見る間に消えていく。
「ダメだ。殺すしかない」
舌打ちし、去っていく少年。茫然自失から戻るころには、公園は静寂に支配されていた。
「殺された? なんで?」
視界が一段と深く沈んでいく感覚。ノナがいたはずの地面には、何も存在しない。
警察に連絡しなければ。電話に手を伸ばし、しかし止める。証拠すら残らない猫殺しに警察が手を貸してくれるはずがない。それに、ノナを殺した光は明らかに異能の力に見えた。異能者は人間扱いされない。誰も助けてくれない。
「私がなんとかしないと」
愚かな追走劇が始まった。
犯人は猫を消した。発した言葉から、同じ事件を繰り返す可能性は高い。ノナと歩いた記憶を頼りに、各地の猫だまりを廻る観鈴。そして、目についた猫を片端から透明にして回った。
透明化の力が自分以外にも作用するという事実に少しだけ驚きながらも、観鈴は確かな高揚感を覚えていた。
「お母さんは、きっと私にみんなを助けろって言ってるんだ」
能力を使うたびに頭のもやは濃度を増していったが、気にするつもりはなかった。気づけば夜は明け、周囲に朝の光が満ちる。
「誰か、心配してたりするかな?」
一応は政治家の娘だ。親代わりのハウスキーパーや警備員など、気にかけてくれる人は多い。けれども能力での脱走を繰り返したせいで、いつの間にか周囲は観鈴が姿を消しても焦らなくなっていた。好都合だ。せめて猫たちを全員消すまでは帰らない。そう決めて観鈴は猫を探し続ける。
探す、消す、捕まえる、消す。無心で繰り返す。犯人である少年とは出会わなかった。おそらく昼間は学校で、夜に活動しているのだろう。鉢合わせないよう祈りながら、秘匿を続ける。
「これで全員、だよね?」
オレンジ色の光の中、ついに見知った八匹すべてが姿を消す。観鈴の脳内には甘美な達成感が満ちていた。ノナが死んだ喪失感を何かで埋めたかったのかもしれない。
「……帰ろう」
虚しさが去来するのと同時に、空腹と眠気が観鈴を襲う。一日近く飲まず食わずで活動していたのだから当然だ。これほどの極限状態は災害の日以来だ。
ポケットに入っていた駄菓子を口に放り込む。透明な甘さが口の中に広がり、少しだけ冷静さを取り戻す。初めて、異変に気付く。
「戻れない?」
今まで念じるだけで透明になれ、念じるだけで可視化できていた。けれども今、自分がどうやってそれをやっていたのか思い出せない。混乱はやがて恐怖と焦燥に変容して精神を蝕む。わけも分からないままに観鈴は自宅に戻る。一晩眠れば戻れるだろう。そう期待していた。
けれども問題は再び生じる。自宅のオートロックの前に立ち、カメラに顔を近づけても扉が開かない。虹彩認識ゆえに、透明化した観鈴は鍵を開けることができない。
「誰か、誰かいませんか?」
誰もいない自宅の前でつぶやき、すぐに後悔する。六年かけて培われた観鈴の常識は、異能を人前に晒すという行為に対して相応の忌避感をもたらしていた。ときおり通り過ぎる人に声をかけるか迷い、ためらい、ついには諦める。
孤独の責任を能力に押し付けてきたしっぺ返し。観鈴は涙に袖を濡らしながら一駅を歩き、深山公園の砂の上で夜を明かした。
夜が明けても能力は解けていなかった。観鈴は解除を諦め、さしあたっての問題である空腹への対応を考える。
目についたコンビニエンスストアに近づくも、自動ドアが反応しない。光学迷彩状態にいるのだから当然だ。来客を待って中に入ることはできた。しかし、結局店員に見つけてもらえない。いや、気づかれてはいるのかもしれない。けれども世間は常識知らずの超能力者を人とは認めない。
観鈴にも議員の娘としてのプライドはある。万引きは最後の手段として、コンビニを後にする。
「あ」
試食品を目当てにスーパーマーケットを通りかかった時、観鈴は「文月そごう」の名前が大々的に押し出されたポスターを見つける。あまり好きではない父親の名だったが、ポスターの下部には問い合わせの電話番号が掲載されている。視界はぼやけたままだが、目を凝らせば読み取れるサイズだ。
「電話、してみようかな」
誰の連絡先も入っていない、一人用のスマートフォン。そこに初めて、観鈴は番号を打ち込む。
父とはもう何年も話していない。それどころか顔を見る機会さえ年に一度あるかないかだ。それでも観鈴の脳裏には母の一件がよぎっていた。もしかしたら、父ももしかしたら自分に対して愛情を持っていて、多くを語らずとも助けに来てくれると。都合のいい祈りに胸を痛めつつ、番号を入力していく。
「もしもし、文月十郷事務所です」
数回のコールののち、聞こえてきたのは事務的な重低音。父の声ではない。きっと秘書か誰かだろう。
「あ、あの、ポスター、見たんですけど」
「ありがとうございます」
父ではない。この人には何も話せない。父に代わってもらわないと。
「ち、文月十郷さんと話せますか」
「すみません、文月十郷は本日出張しております」
「え」
慌てて、口をつぐむ。閉じたはずの唇からこぼれていく何か。それが絶望だと気づくのに、数秒を要した。
「用件は私が伺います」
スナイパー型のアンドロイドのような声が先を促す。けれども、観鈴の口は閉じたままだ。親の愛すら疑う観鈴にとって、知らない人間など恐怖でしかない。
「う、あの、えっと」
しどろもどろになりながら、どうにか言い訳を考える。電話なら、父につないでもらえるかも。でもどうやって。忙しい政治家に緊急の用事、子供が誘拐されたとかだろうか。でも、それで取り次いでもらえなかったら、今度こそ絶望だ。
救いの手は、意外な形で差し伸べられる。
「もしかして、観鈴さんですか」
電話越しに、秘書が声のトーンを上がる。観鈴自身、心臓だけ不透明になったような驚きに駆られる。
少し優しさを増したその声に、思い出す。父の秘書の、野茂さんだ。父の代わりにと、何度か学校行事に出てもらったことがある。強面の、けれども悪い人ではない。
「声が出せない状況ですか? 何かしら合図をお願いします。助けが必要なら二回、何でもいいので音を鳴らしてください」
声なき声を聞いてくれる人がいた。そのことを噛みしめながら、観鈴は助けを求める術を考える。どうやったら能力を解くことができるのか。違う、この人に求めるべきは、家の鍵を開けてもらうことだ。この人は家の網膜認証を通過できる。多少不審に思われるかもしれないけれど、門の前で落ち合えればそれで十分だ。
「あの、今から」
異能を悟られないよう、異常を悟られないよう、慎重に言葉を選び、口にする。
けれどもその先は続かなかった。続いていたホワイトノイズが急にしなくなったからだ。数瞬を待って、充電が切れていることを悟る観鈴。
「そんな」
どうすれば、事務所に向かえば気づいてくれるだろうか。しかし、問題が一つ。
「……お父さんの事務所なんて、知らないよぉ」
父が娘を避けているだけでなく、娘も父を避けていた。積み重ねてきた十五年が、観鈴を窮地へと深く深く追いやっていく。
外部との連絡手段は絶たれ、精神的・肉体的にもピークが近づく。ため息と独り言を引き連れて迷い込んだ夜中の路地裏で、観鈴は立地に不似合いな小洒落たオープンファサードを見つける。
「喫茶店?」
@ネメントと書かれた喫茶店、店内からはかすかに焙煎と砂糖の匂い。誘われるように扉に手を伸ばし、やめる。どうせ気づいてもらえない。店の明かりに誘われるように、その足は裏庭へ向かう。
偶然か、図ったようなタイミングでガラス戸が開く。出てきたのは店員だろう。ぼやけて見づらいが、サングラスとエプロンが見える。
「お客さんかな?」
驚いたことに、反応があった。これまで入ったどの店でも、観鈴の行動に対して反応する者などいなかったというのにだ。
助けてくれるかも。話を聞いてくれるかも。期待が観鈴の心を揺らし、言葉に変える。
「にゃ、にゃあ」
けれども、口先から出たのは猫の真似だった。近くに置いてあった猫の餌皿が、観鈴に負の想像をもたらした。この人は猫に餌をあげに出てきただけだ。見えているわけじゃない。迷惑はかけられない。
「猫?」
店員は首をかしげ、小さくうなずいて去っていく。扉が閉まり、再び観鈴に絶望が満ちる。
「どうして」
どうして自分はいつもこうなのか。後悔が嗚咽を生み、見えない涙となって地に落ちる。扉が再び開いたのは、その時だった。
「猫さんの口に合うかは分からないけど、どうぞ」
食器に乗せられた柔らかさと香ばしさ、オムライスとコーヒー。カップの水面に映らない自分の姿に戦慄し、けれども穏やかなままの目の前の男。
猫に与える食事じゃない。やっぱり見えている? でも猫と呼んだのも事実。分からない。分からないけど、恐怖よりも空腹が勝る。
「にゃあお」
精一杯のお礼を言って、オムライスを口に運ぶ。一日ぶりの食事は涙が出るほど温かく、観鈴の心に染みていった。
文月観鈴①:本章の被害者。善良ゆえに敵意を振り上げたちょっと迷惑な存在であり、善良ゆえに周囲に救われるべき存在です。




