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足元、指先、ガラス越し

 何かがおかしい。異常事態だ。今日は土曜日で、一生の思い出とはいかないまでも、新しい環境で交友関係を深める思い出深い一日となるはずだった。友達と呼べる人間が一人もいない現実に戦々恐々としつつ、私はひとり薄暗い遊阿多川のほとりをひた歩く。


「夕ご飯、どうしよ」


 残念ながら予算がなくなったらしく、今日から出前は自腹になるらしい。


「……別にあてにしてたわけじゃないし」


 見えない何かに言い訳をしつつ、それでも食事の準備が整っていないのは事実。スーパーでお弁当でも買って帰ろう。


「はあ」


 せっかくのいい夜なのに、私には一緒に星を眺める友達もいない。川のせせらぎと跳ねる小魚とに自然とか平和とかを感じつつ、仕方ないから事件について考えるのだ。星明かりが川面に反射していて、実にきらびやかだ。私の内面もこうならいいのに。


「透明人間の探し方、かあ」


 古来より言われていることだけど、人間は情報の八割を視覚から得ているという。つまりは透明人間に対しても一応二割のインプットはあるわけだ。足音、匂い、あるいは触れた感覚。そこから何かを得られることはあるだろうか。


 試しに目を閉じたまま歩いてみると、当然のようにバランスを崩して河川を転がるだけだ。匂いはどうだろう。スプレーで香りの強い気体を吹きかけて、それを頼りに敵の位置を探る。うん。今から犬をブリーディングしたほうがマシかな。触覚は論外。触れた時点で捕まえてるし。


 私の常識的知識は役に立ってくれず、何も浮かばず時間だけが過ぎていく。どうせ明日も召集だし、早くご飯食べて寝よう。


 立ち寄ったスーパーヤクマルに、知り合いの姿を見つける。


「あ、理香」

「天音じゃん。え、もしかして今日も付き合わされてた?」

「今終わったところ」


 なんとなく目に入ったかごの中身は、私と同じ冷凍ボロネーゼ。気が合いそうだ。

 理香は心ここにあらずな私の様子を、きっと少なからず不安に思ったのだろう。野菜ジュースのパックをボトルに入れ替えつつ、私に手を招く。


「うち、ここから近いんだけど、寄ってく?」

「行く」


 優しさに潤んでくる目の奥を固くつぶってごまかして、私は促されるままに理香の家に向かう。


 向かった先は駅向かいのワンルームマンション。四階の一角にある飾り気のないドア。


「ほら、入って入って」


 女子一人で暮らすには少しセキュリティが不安だ。余計な心配をしつつも扉をくぐると、これまた女子らしくない殺風景な玄関口。入ってすぐにキッチンがあるけれど、あまり使われてはなさそうだ。


「何にもないところだけどね」


 ちょっと照れくさそうに冷凍パスタ二つをレンジに放り込む理香。言葉の通り、キッチンの先に垣間見える部屋には、テーブル一つしか見えてこない。この子の生活がちょっと心配になってきた。


「物色してないでさっさと座れ」

「はーい」


 座って待つこと数分。冷凍食品と野菜ジュースなんていう、女子高生らしさの欠片もない味気ない夜ご飯をもそもそ食べながら、理香は私に言葉を投げる。


「それで、どうなの?」


 何が、とは聞かれないあたり、話題はやはりあの二人らしい。理香はこの手の事件は詳しいだろうか、嫌っているだろうか。探り探り、ショッキングな部分を隠しつつ捜査状況を話してみる。理香は少しだけ嫌な顔を見せたけど、結局は何も言わずに私の話を最後まで聞いてくれた。


「――そういうわけで、透明人間を捕まえる方法に行き詰まっちゃって」

「はあ」


 怒るか悲しむか、はたまた怖がるか。理香の反応は恐れていたどれでもなく、呆れだった。


「え?」


 困惑する私の頭部に、痛くない手刀が両サイドから二発飛ぶ。


「私はさ、そろそろ後悔したのかなって思って聞いたんだよ? 悲しそうにしてたし、無理にでもあいつらから引きはがそうって」

「あー」

「『あー』じゃない。全然へこんでないし、事件の相談とかされちゃうし、私にどうしろっての」


 非難囂々文句諤々の理香。でも不思議と心地よい罵倒だ。


「しいて言うなら、助けてほしいかな」

「……こりゃ大物だ。助からないや」

「失礼だなあ」


 突っ伏したままフォークで昼ご飯をくるくる回す理香。たぶん、何らかの壮絶な脳内会議が開催されているのだろう。たっぷり十秒はくるくるさせて、理香の手がようやく止まる。


「超能力事件なんだから、あいつらに任せたら?」


 たぶん、理香は正しい。二人は私がいなくても事件の核心に近づいて、きっと真犯人を見つけ出す。そもそも私がいなくても回っていた組織だし。


 私の心を縫いとどめるのは二人の態度。きっと私は、何かを期待されている。ただの小娘にいったい何を?


「ブレーキ役になってほしいんじゃない?」

「声出てた?」「うん」


 慎重さ、臆病さ。確かに、私にあってあの二人にない貴重な要素だ。行き過ぎて嫌いがちな二人が歩みを緩めるために部外者の私に助けを求めた。しっくりこないけど、筋は通る。


「でも、ブレーキかけていいのかな?」

「別にあいつらが解決しなきゃいけないわけでもないでしょ」

「そうかもだけど」


 でも、被害は拡大し始めていて、侭は少なくとも言葉では協力を求めている。残念ながら私の常識は、言葉の裏側に踏み込めるようにはできていない。一方で、犯人の常識はどんどん世界の外側にはみ出してきていて、被害はきっと拡大していく。


「少なくとも、天音の仕事じゃないでしょ。常識的に」

「常識」


 私の心が掬う理香の言葉尻。たぶん、私の敵はそれなんだ。異能犯の意思を知るには、同じように常識を壊さなければならない。そして、私の常識は、それができないことだとすでに悟ってしまっている。


「なんで、壊れちゃったんだろう」

「何が?」

「その、犯人の常識」


 超能力を忌避する心。災害と敵意が作り出した大きな壁のような常識は、そう簡単には切り崩せない。インビジブルが急に猫を消し始めたのなら、相応のきっかけがあったはずだ。


「私は、逆だと思うよ」

「え?」


 ほとんど独り言に近い私の疑問に返される、思いのほか芯の通った言葉。


「常識って、要は『やっちゃいけない』の集合体だし」

「常識がないから、犯罪を起こせると?」

「そんな感じ」


 経験という、足元に降り積もる個人の歴史。過去の失敗に引きずられて動けなくなる心情は、理解できる。でもなぜだろう。理香の言葉は、同じ地面で足踏みをすることに一生懸命になっているようで、少し悲しく響いた。だから理香の常識は、きっと私の常識とは少し違う。


 私にとって常識とは何だろう。その正体にはまだたどり着けないけれど、少なくとも足元にはない気がした。だって、私と理香は今こうしてお互いを思いやれている。


 きっと、私の常識は人と人との間にあるんだ。距離だったり、硬さだったり、見えなかったり、いろんな種類の壁があって、私の侵入を防いでいる。そして同様に、私の中にある罪悪感が、私自身の足を止める。


 インビジブルと私を阻む抗精神力の境界線。その向こうに手を伸ばしたい。伸ばしたいのに、そのための三本目の手が私にはない。見えない壁が、私を阻む。


「うーん、難しいや」


 見えない壁、解けないパズル。絡み合うパスタのように停滞する思考。悩む私の目の前に差し出される、ガラスの容器。アイスだ。


「疲れてるんでしょ? 糖分も取らなきゃ」

「ありがと」


 白くて甘いひんやりとした空気が、嗅覚を刺激する。いつの間にか台所から持ってきたらしい。自身も口に含みながら、理香は微笑む。


「別に手詰まりってわけでもないんでしょ? なら、あいつらにやらせておけばいいよ。なんで天音があいつらに協力するかは知らないけど、常識知らずは足りてるから」

「……だよね」


 甘さと冷たさと、温かさ。糖分補給のおかげか、ようやく私は、理香の真意が私をスピンオフから引き離すことにあると悟る。それでも私は、犯人の心に近づきたい。


「もうちょっとだけ、頑張ってみる」

「そっか」


 呆れを含む、でも優しい声。


「頑張りすぎて、自分を見失わないようにね」

「うん。ありが――」


 理香の口から出た、きっと私の身を案じての言葉。その何かを、私の心の奥深くが捕捉する。


「どしたの?」

「ちょっと待って」


 脳裏を支配する、天啓の二文字。消えた猫、凪の証言、椎名侭。不可視の違和感、その正体と対処法。対処法に至るための準備は、すでに終わっている。あとは、最後の一歩。


「分かったかも」

「いきなり何?」


 閃きが雷撃し、思考回路が一つのアイデアを形作る。「何か」が私の悩みを押し出し、全身を動かそうと心臓を叩く。


「あの二人、頼っていいのかな?」

「……私は丸投げしろって言ったつもりなんだけど」


 怪訝の果てに、理香は私を止めることを諦めたらしい。


「まあいいや。うまく使いなさい」

「そうする。ありがとう」


 お礼を言って部屋を飛び出す。変わらないはずの私の常識を変容させた「何か」。きっと後悔へと変わるそれに、けれども抗うすべはない。

雪村理香②:天音の友達です。お互いを助けたいと思えることこそ、良き友人関係の第一歩だと思います。

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