ガラス越しのアルペジオ
宵と夜とがすれ違う、午後七時の田舎道。右手にはひとかけらの希望、左手には小さな被害者。世界を変えられたりはしないけど、私にできることはある。
「どこに行くんですか?」
決戦の地に赴く私が手を引くのは唯花の小さな手。吐息には半分涙が混じっていて、残りの半分は困惑だ。
「もちろん病院だけど」
行き先を告げた途端、少しだけ手にかかる抵抗が増す。
「翔人君、来ないでって言ってました」
「翔人の病室には行かないよ。斎藤さんのお見舞いだから」
「でも」
ためらいを見せる唯花の手を強く握って、それから前に引っ張り出す。
「ケガのこと、心配でしょ?」
「それは」
「お見舞い来てくれたら喜ぶよ? 友達を助けるのも約束なんだよね?」
「……はい」
「よし」
子供たちの根底に根を張る五つの約束。利用しているみたいで引け目も感じるけれど、嘘は言ってないからよしとする。
私たちが目指すのは斎藤さんの病室。ちょっとイレギュラーが起きるかもしれないけど、あくまで目的は斎藤さんのお見舞いなのだ。作戦を説明した時の晴の顔を私はしばらく忘れないだろう。誰が侭みたいだ。
「見えてきたね」
轟米病院の建物から光の導が私たちを迎える。お見舞いは八時までだから、少し急がないとだ。
自動ドアをくぐり、その場で晴と二手に分かれる。
「え? 晴姉どこ行くの?」
「私たちは差し入れ買ってこうか」
そそくさと作戦行動を開始する晴を見送って、私は売店で時間を稼ぐ。今日の品揃えはどうかな。閉店間際でそそられるものは売ってなさそうだ。残念。
「そもそも財布持ってないからいいんだけど」
「天音さん?」
素朴な疑問が背中にビシビシ刺さるのを感じつつ、三階の病室へ向かう。大人とは強引なものなのだ。
「着いたよ」
病室に提げられた「斎藤」のネームプレートを見て、唯花も少し安心したらしい。けれども別の不安が現れたのか、そのまま私の手を引っ張る。
「あの」
「なに?」
応答はノックをしつつだ。「待って」という声が、発声途中で諦めたように立ち消えていく。
湿った唯花の手が緊張を伝え、けれども部屋から返事はない。
「留守かな?」
ドアの隙間から漏れる照明の光。のぞき込むと部屋の中に斎藤さんの姿はない。晴がうまく連れ出してくれたらしい。唯花を室内に送り込みつつ、私は逆方向に踵を返す。
「え、天音さん?」
「私がいると話しづらいこともあるでしょ?」
「あ。はい」
納得と、それでも心細さが声音にこもる。私としても一緒にいてあげたいのだけど、残念ながら一人で戦うしかないのだ。
「頑張ってね。一階で待ってるから」
伝わらないだろう激励を飛ばし、扉を閉める。向かう先は病院の入り口、ではなく反対側の別の棟だ。連絡通路を抜けて、半開きの扉から暗がりの部屋に入る。
「晴、いる?」
部屋の奥から「いますよ」と小さな声。加えて「待っていたよ」と斎藤さんの声も聞こえてくる。その眉が少し吊り上がっているあたり、晴の説得は失敗に終わったらしい。
明かりをつけない部屋の中、窓から顔を出さないようそろりそろりと部屋の奥。自然と正座する形で斎藤さんに相対する。
「柏木さん、君は自分のやっていることをきちんと理解しているのかな?」
柔らかく、優しく、けれども少し強張った声。翔人の境遇を本気で案じていることが伝わってくる。
「私がやっているのは自己満足で、たぶん、ただのおせっかいです」
カシオペアの子供たちと翔人の両方を見てきたから分かる。きっと、この問題は時間が薄れさせてくれる。だからこれは、余計なお世話。
「ならなぜ、こんなことをするんだ」
暗闇越しにも、斎藤さんの目が細められたことが分かった。
「詳しくは言えないけれど、翔人は苦しんでいる。あまり負担をかけたくないんだ」
「翔人なら大丈夫ですよ」
作戦を考えながら、晴と何度も確認したことだ。翔人なら、今の境遇を乗り越えて、正しく前を向けると。だから私はここにいる。
「大丈夫なら、翔人はここまで落ち込んでない」
初めて、その鉄面皮が困り顔に歪む。頭を抱えるように両手を自身の耳に当て、小さくため息。
「これは黙っていた僕のミスだ。翔人のために、今からでも妙な真似はやめてくれないか」
姿勢は懇願。私なんかよりずっと翔人のことを考え続けた、翔人にとってベストな選択。だから私の行動は、決まっている。
「嫌です」
「どうして」
思いのほか強く断られたことに動揺したのだろう。斎藤さんの口が半開きになる。
「私がここに来たのは翔人のためじゃない。唯花のためだからです」
対立のストレス、髪飾りをなくしたショック、翔人に会えない苦しみ、すべてと自分を結びつける罪悪感。それら全部が唯花を蝕み、とうとう家出までしてしまった。この事実を見て満足しているのなら、私は自分の良心ととっくの昔に決別している。
「たとえひとりきりだとしても、翔人には斎藤さんがいた。けど、唯花はひとりです。あの子には翔人が必要。私はそう思って、だからここに来ました」
少しだけ熱を込めて事情を説明するうち、斎藤さんの表情も変わっていく。この人は子供たちのことを想っていたけれど、子供たちの近くにはいなかった。想像力は心の内側にしか存在できない。それが分かっているから、斎藤さんは苦悩に顔を歪ませる。
そんな斎藤さんの右手を、晴の両手が手袋越しに優しく包む。
「わたしも、天音さんと同じ気持ちです。翔人を信じましょう」
闇の中においても光を放つがごとき、晴の微笑み(私にはそう見えた)。それがとどめになってくれたらしい。半開きだった斎藤さんの口がへの字になり、それからようやく小さく笑みを作ってくれた。
「分かったよ。そこまで言うなら、君たちの作戦に乗ろう」
どうにか、これで第一関門突破だ。
「それで、翔人を唯花と会わせてどうするつもりなのかな?」
斎藤さんの声は落ち着いている。けれどもよく見ると視線が唯花の方に泳いでいたり、所在なく体を動かして痛む腹部を押さえたりと動転中だ。
「会わせるだけですよ?」
「それだけ?」
「それしかできないですし」
しょせんこれは私の自己満足。翔人の世界を再び塗り替えることなどできないし、唯花を救うのは翔人の仕事だ。私にできるのは問題の解決じゃなくて、きっかけづくりまで。あとはうまくいくことを祈って、ダメなら晴の異能でつり橋効果とかを狙えばいい。とにかく光明さえ見えれば、私の目的は達成。帰りの新幹線でおいしくお弁当が食べられる。
もちろん、いくつか狙いはある。でもそれは翔人次第であり、唯花次第だ。だから、私にできるのは二人を会わせて、あとは信じて待つだけ。
「翔人、来ましたね」
追加で飛んできそうな不安不満を黙らせつつ、私は仕込んできた盗聴器の電源をオンにする。
「え、なにそれ」
「音、聞こえないと困るんで」
受信機に耳を押し当てる。ちょっとノイズはあるけど、言葉を聞き取るのは問題なさそうだ。
「この子、もしかしてとんでもない子なんじゃ?」
「天音さんはすごい人です。いろんな意味で」
失礼だなまったく。これは侭の私物で、つまりはカシオペアが生み出した過ちだと肝に銘じてほしいものだ。
廊下を窓越しに廊下を歩く翔人の姿を観察する。とぼとぼ、なんて擬音をつけるのがふさわしい消沈ぶりだ。というか、やっぱり足のケガはもう完治してるらしい。慣れた様子で斎藤さんの部屋に向かい、ノックもなしに室内に入っていく。
「唯ちゃん?」
「翔人君?」
盗聴器が拾う頓狂音量。悪い大人たちのせいで予期せぬ遭遇を強いられた二人は、いったいどんな反応を示すのか。
「お見舞いには――」
定型句的に突き返そうとした翔人の声が止まる。きっと、唯花の顔を見たのだろう。晴の見立てでは、彼は女の子の表情の機微に聡いタイプだ。
「どうしたの?」思った通り、優しさでくるんだ声が病室に響く。
「お見舞い、斎藤さんの、あと、できれば翔人君にも会いたかった」
カラリコロリと何かが落ちる音。たぶん、唯花がまた氷の涙を流しているのだろう。そしてそれは、翔人の孤独を加速させるに違いない。
「がんばれ、翔人」
隣で両手のひらを組む晴。斎藤さんは拳を握ったりほどいたりと忙しい。
視線の先では少しの沈黙。翔人の葛藤を示す小さなうめき声が何度か、それからしゃくりあげる唯花の声。やがて窓越しに見えるくらいシルエットの一つが、静かにその手を差し伸べる。
「……少しだけなら。僕も、話したいこと、あるから」
よし。デバガメ三人から小さな歓声が上がる。第二関門も突破だ。
「天音さんの言った通りになりそうですね」
「どうかな? ここからは翔人次第だからね」
翔人の話したいこと。それは彼が話すことをはばかった秘密のうちの一つだろう。私が期待するのは、その内容ではない。
「ええとそれは、どういうこと?」斎藤さんが闇越しに首をかしげる。
「二人に秘密を共有させるんです。そうすれば、きっと二人は前に進める」
翔人の抱える誰にも話せない秘密。唯花が犯人でないことを示せれば助かるけど、中身はこの際何でもいい。大事なのは翔人が自分の意思で唯花に打ち明けることだ。二人の間に秘密という絆ができれば、唯花の心は軽くなる。翔人の孤独だって和らぐはずだ。
私の願望を聞いて、斎藤さんは半分呆れ、半分笑う。
「子供の発想だと言いたそうですね」
「そうだね。でも、あの子たちよりは大人だ」
言って、斎藤さんは少しだけ窓の上へと目を向ける。雲の切れ間からのぞくのは、まばらながらも澄んだ星明かり。
「大丈夫。きっとうまくいく」
言葉は無根拠なのに奇妙な心強さを帯びていて、なぜだか緊張が和らいだ気になった。
斎藤さんの言葉に背中を押されるように、窓の向こうでは翔人が沈黙から動き出す。途中からベッドに座ったらしく、ここから見えるのは隣り合った小さな頭二つだけだ。でも、それで十分分かる。唾を飲み込んで、小さくうなずいて、翔人が話す。
「……ずっと、唯ちゃんに謝りたいことがあったんだ」
「なに?」
「髪飾りの、こと」
翔人の選んだ話題は髪飾り。これも大事な秘密だけど、明かすべき秘密としてはベストじゃない。とはいえ軌道修正の手段はないし、今はことの成り行きを見守ろう。
「そんなの、気にしてないのに」唯花の片手が髪の毛に触れる。
「探してくれただけでも嬉しかったから」
「違うんだ、そうじゃないんだ」
少しだけ泣きそうな翔人の声。手のひらが唯花の前に差し出される。
「これ」
差し出したのは壊れた髪飾りだろう。唯花の口から小さな絶望がうめきとなってこぼれ出る。
「死源のすぐ近くで見つけてね、僕がケガした時に、一緒に持ってて、それで、壊しちゃったんだ。ごめん」
たどたどしく贖罪を述べる翔人と、黙って聞き続ける唯花。今すぐ割って入りたくなるいたたまれない空気が、夜の病室に霧散する。
「斎藤さんと相談して、髪飾りをなんとかしようとしてたんだ。ちゃんと元通りにして、それからちゃんと謝りたかったんだ。お見舞い断ってたのも、うん、それが理由」
翔人はもう一度「ごめん」と謝り、頭を下げる。
これはなんというか、いい感じだ。二人の間に秘密を作るという私の勝手な目的に、不自然なほど都合がいい。
私はほくそ笑んでいた。だから、唯花の口から出た「なにそれ」という言葉の冷たさに、冷や水を打たれる。
「え?」重なるのは、私と翔人の声。
「そんなことのために、お見舞い断ってたの?」
静かな、けれど確かな怒気。
「ご、ごめんなさい」
わけも分からずまた謝る翔人。けれど唯花は「もういい」と突き放す。
病室二つに満ちる混乱。かと思ったのだけど、横の二人からはため息。
「あれは翔人が悪い」
「ですよね」
「え、どういうこと?」
確かに、髪飾りのことを謝るタイミングとしてはちょっと唐突だったかもしれないけど、でも、唯花の性格からして許してくれそうなものだけど。
「唯花が怒ったのは、髪飾りを壊したことじゃないですよ」
「ほかに何が?」
晴はたぶん、呆れ顔のようなものを見せているのだろう。星明かり越しに見える小首が、かわいく傾げられる。
「髪飾りを壊したくらいで怒られると思われていたことに、唯花は怒ったんです」
「……それであそこまで怒る?」
盗聴器の向こうでは、「わたしがどんな気持ちで」とか、「ひどいケガかと思って怖かった」とか、かわいげありながらも深刻なトーンでの訴えが続く。
もしかすると、これはスローターの影響なのかもしれない。異能を使い続けることによる敵意の汚染。カシオペアでは凪と侭がうまくコントロールしていたそれが、感情の爆発に伴って、表に出てきている。
唯花の泣き叫びは加速度的に激化していき、とうとうピークに達したらしい。窓越しに見える影が翔人へと延びる。
「あ、待って」
「こんなもの、なくなっちゃえっ」
翔人から髪飾りを奪ったのだろう。頭上に高々と掲げられた腕は唯花の衝動によって加速し、私が介入するか迷うよりも早く、地面へと叩きつけられた。
ガラス製の髪飾りが砕ける音を覚悟する私たち。けれど、鋭い破砕音はせず、代わりに鈍い音と小さなうめき声。
「しょ、翔人君?」
唯花の驚いた声で状況を察する。唯花が叩きつけた髪飾りは、床ではなく直前でかばいに入った翔人にぶつかったらしい。
「ダメだよ。大事なもの、なんだから」
優しく髪飾りを唯花に手渡す翔人。いいぞ。これは好感度高い。
「ぐすっ」
聞こえてくる嗚咽。感極まって泣き出した唯花の、ではなく、翔人の声だ。
「痛いよぉ」
まあ、あの髪飾り、ちょっと重い材質だったからね。
夜の病室に響く翔人の鳴き声。うろたえる唯花がつられて泣き出すのも時間の問題だし、看護師さんが飛んできて私たちが説教コースなのも時間の問題だ。
そろそろ切り上げ時かもしれない。私が晴に乱入の合図を出そうとしたその時、異変は起きる。
ピシリと。盗聴器が捉えたのは何かに亀裂が入る音。
「なにか、変です」
晴が怪訝に声を強張らせる。異変は音だけではなさそうだ。目を凝らしてみると、病室の壁に何やら光る物質。
「……氷だ」
波動のようなものが何度も発せられ、窓ガラスの上に氷を張り付けていく。どこからかなど見るまでもない。唯花だ。
精神がとうとう限界に達してしまったらしい。ここからでも見えるほど大粒の涙を流しながら、唯花が周囲に冷気を放っていく。
氷は霜を張り、氷柱を生みだし、病室をぎしりとたわませる。いや、実際に音が聞こえたわけではないけれど、いつそうなってもおかしくない質量で部屋に広がっていく。
「まずい。まずいって」
判断が遅れた。私が悔いるより早く、ここから見える景色が暗くなる。氷が厚くなってきた証拠だ。このままだと、重さと応力で部屋が壊れる。
「どうしましょう」
晴が右手袋に手を触れている。
「できる?」
「安全には、できないかもです」
「真上になら?」
「この距離と、壁が、難しいです」
出力調整は苦手なのだろう。晴は何もできない私よりも申し訳なさそうに「すみません」とうなだれる。
どうする。この場合、判断を下すのは私であるべきだ。多少ケガさせることを覚悟のうえで部屋を壊すか、あるいは別の方法を考案する。そうしている間にも室内の氷は分厚さを増していっている。氷柱が氷山のごとき大きさで天井からつり下がり、今にも落ちそうだ。どうしようどうしよう。
「大丈夫。大事なものは壊れない」
眼前の氷結地獄をじんわりと眺めながら、真横から朗らかな声。斎藤さんは、私たちににっこりと笑いかける。
「翔人なら大丈夫。信じて、任せよう」
「でも」
確かにそう言った。それはあくまで唯花の接触を翔人が拒まないだろうという作戦の初期段階の話だ。とっくに今は能天気に眺めている場合じゃない。
やはり私が責任を負うべきだ。晴の手をつかもうとした私よりも一歩早く、斎藤さんが窓をがらりと開く。
「何を?」
息を大きく吸い込み、少しだけ痛みに顔を歪め、斎藤さんは、叫んだ。
「翔人!」
子供たちの顔がこちらに向く。涙で緩んだ、怯えた目。照明が音を立てて割れ、床を襲う。幸い破片は二人の背後に落ちたらしい。斎藤さんはそれを確認して、もう一言だけ。
「勇気だ」
たった一言。でも、温かくて力強い言葉。暗闇の中、星明かりが反射したのか、翔人の双眸に小さな光が灯ったように見えた。
瞬間、ばしゃりと音を立てて、氷が水に変わる。
「え?」
困惑はマイク越しに、部屋の向こうの唯花から。隣で晴が息を呑む音が聞こえる。
「そっか」
聞こえてきた音たちは真実の調べ。雨音のように、私の心に納得を降り注がせる。
「天音さんの、想像通りでしたか?」
私が何か悟ったことを感じ取った、晴の遠慮がちな確認。
窓の向こうで唯花が困惑している。だからあれをやったのは唯花じゃない。私は目で斎藤さんの許可を得て、見出した真相を言葉に変える。
「あれが、ひとりきりの理由なんですね」
マイク越しに聞こえる翔人の荒い吐息、そして斎藤さんの複雑そうな笑顔。散らばっていた手がかりたちが、頭の中でようやく真実の形を成し始めていた。
サブタイトルはアルペジオ→分解奏法→紐解く→種明かしのニュアンスでつけています。




