指先の行方
「あ、天音さん」
リビングに戻ると晴がピアノのカバーを開けようとしているところだった。聞けば、愛子さんが昼をそうめんで済ませるという英断を下したおかげで暇になったらしい。昼食にも気合いを入れるつもりだったのか、晴は不服そうだ。
「流しもしないらしいです」
「でしょうね」
右方面のソファで溶けている愛子さんを見れば分かる。
「二人とも、そういうわけだから遊んでていいよ」
「はーい」
台所にはすでに麺束と鍋とレタスとトマトが準備済み。隣の根菜とカレー粉を見るに夜も横着を敢行するつもりのようで、こっちも晴の不満に一役買ってそうだ。私としてはしばらく時間が空きそうでちょうどいい。
「晴、お昼の後ちょっと付き合ってくれない?」
頭にハテナマークを浮かべる晴。お楽しみはそうめんを食べてからにしておこう。
時は流れて昼食後。もはや見慣れた田舎道を、晴を連れ立ってひたすら歩く。急な予定にもかかわらず、特に気を悪くした様子もない。
「どこに行くんですか?」
「翔人のところ。斎藤さんもたぶんいるよ」
空は雲一つない快晴で、横を歩くのは見目麗しいお嬢様。至福のひと時だ。
ふわりと、風が晴の長い裾を揺らす。ワンピースタイプの服かと思ったら、今日は単に大きめのシャツを着ているだけらしい。細い手足とのアンバランスさが引き立つ。かわいいけど珍しくあんまり似合っていない。というか、これメンズのLサイズだ。
「もしかして、凪のおさがり?」
話のタネにと指摘してみると、「違うんです」とはにかんだ笑い。
「これは単に、凪が着てそうな服を選んでるだけです。ここだと、あんまり人目も気にしなくていいので」
自分の服の生地をきゅっと抱きしめながら照れている晴。詳しく聞いてみると、昔は本当におさがりを着ていたらしい。
「なんだか安心するんです。ほわっとして、あったかくて」
「ふーん」
侭のではないことは聞くまでもないだろう。なんかかわいそ。
「経済的ですし気に入ってたんですけど、学校でクラスの子に『ダサい』って言われちゃって」
「それで恥ずかしくなったり?」
「いえ、凪が」
「あー、なるほど。クラスの子って男子?」
「よく分かりますね」
その男の子はきっと、晴のことが気になってちょっかいをかけたとかなんだろう。でもそれを真に受けた凪がお兄ちゃんシステムを発動して、たぶん暴力で解決したに違いない。それで晴がおさがりを着続けることに危機感を持ったと。そんなシナリオがありありと見えてきた。
「途中から凪が服をくれなくなって、わたしもあんまりそういう服を着なくなったんです。でも、たまに休みの日とかに着たくなっちゃって」
「凪も罪造りだねえ」
いろいろあった結果、最終的に服の趣味として「おさがりっぽい服」が残っちゃったというわけだ。
「わたしにとっては、凪が着てる服が一番かわいい服だったんです」
えへんとでも言いだしそうな笑顔で胸を張る晴。この表情をもってすれば、似合わない服装も百二十点に代わる。今度凪に古着を打診してみようかな。
「でも、羨ましいなあ。私なんて、何着ても運動着に見られちゃって」
自分の着ているトップスをぴらりとめくってみる。年一くらいでファッション誌とかを見てちゃんと似合いそうな服を買っているつもりなんだけど、どうにもぱっとしない。いや、ぱっとしないらしいのだ。翠とかいわく。
「十分似合ってると思いますよ」
「いや、なんかジャージっぽいのがね」
先週も美奈に会うためにちょっと気合い入れた服で臨んだら、呼んでもないのに現れた優斗と聡に「今日のジャージはおしゃれだね」と悪意なく褒められたくらいだ。ジャージじゃないし。いやジャージも好きだけど。
「今度、服買いに行くの手伝ってよ」
「はあ、いいですけど」
よっしゃ。これで夏の目的が一つ達成された。内心でガッツポーズを作る。
「天音さんは、すごいですね」
唐突な晴の誉め言葉。伸びる視線で自分が外心でも拳を握っていたことに気づかされ、少し恥ずかしい。
「翔人のこともそうですし、わたしが足踏みする一歩を、簡単に踏み出してしまう」
「簡単にじゃないけどね」
「そうなんですか?」
「うん。ただ、前に進んでないとダメになっちゃうから頑張ってるってだけ」
雨水だって一つ所にとどまれば淀んだ池になる。でも、雲になって運ばれ続ける限りは誰かに必要とされるきれいな水でいられる。つらい過去に足を取られる人が多い時代だからこそ、持たされなかった身軽な私がみんなを遠くに連れて行きたい。そうありたいのだ。
「やっぱり、天音さんはすごい人です」
晴の左手が手袋越しに私の腕に触れる。きっとこの子も重い何かを抱えているのだろう。少しでも肩代わりできればいいなと思う。
市立轟米病院。名前のわりには静かだけど、静かなりに今日も人々が忙しそうに働いている。夏休みなしで働く医療従事者の皆さんに全霊の感謝を送りつつ、靴の泥を落として自動ドアをくぐる。
「あら晴ちゃんじゃない。検診?」
「今日はお見舞いです」
「あーはいはい、そういえば患者いたわ」
昔から病院通いだったという晴はここにも相当数の知り合いがいるようだ。受付から三階の病室まで、頻繁に声をかけられていた。
「もしかして、けっこう最近まで体弱かった?」
「病気は昔だけですよ。凪が通えって言うので」
「ふうん」
実に過保護だ。まあ、こんな儚そうな造形をしてたら不安にもなるか。結果として晴は医者に太鼓判を押され、今の健康体を得たのだと。
「ちょっと待ってて」
晴を入り口手前で待機させつつ、病室の扉を叩く。
「翔人いる? 今日も来たよ」
「いません」
「こざかしい」
ジメっとした返事にちょっとイラついたから、盛大に扉を開けて中に押し入る。
「……何しに来たんですか」
漫画本を読んでいた翔人が上半身でこちらを迎える。読んでいたのは昨日とは違うヒーローものの翻訳本。また第一巻だ。たぶん斎藤さんの差し入れなんだろうけど、なかなか趣味に合うものが見つからないのかな?
「何って、お見舞いだけど」
そういえば見舞いの品を用意していなかった。ポケットには、さっき凪から没収した木の枝だけか。
「枝、いる?」
「いらないです」
でしょうね。まあ見舞い品に関しては不要だろう。ゲスト連れてきたわけだし。
「入っていいよ」
呼びかけると、心配と不安のにじむ足運びで晴が来る。
「翔人、元気?」
「わ」
驚いて固まること一秒。晴がお見舞い拒否の対象かを判断するのに一秒、とりあえず布団をかぶってみるのに一秒、やっぱり会いたくなるのに一秒。たっぷり四秒待って、翔人は恐る恐る布団から顔を出す。
「晴姉、帰ってたの?」
「一昨日ね」
その顔は布団の暑さのせいでなく、少し上気していた。初恋かな。晴のほうが脈なし心停止状態なのはかわいそうだけど、まあそういうものか。
「じゃ、晴が相談に乗ってくれるらしいから、私は出てるね」
「え?」
若い二人に場を任せ、私は部屋の外に出る。晴ならきっと翔人の心の奥底から何かを引き出してくれるだろう。その間に私も情報収集を頑張らないと。深呼吸一つ、ちょうどいいタイミングで廊下を歩いてきていた事件関係者に声をかける。
「どうも、斎藤さん」
「ああ、今日も来たんだね。柏木さんだったっけ」
じっと観察する。夏だというのに薄手のコーチジャケット、それに緩い素材のボトムス。当然暑いのか、表情は少し汗ばんでいる。
「少し、聞きたいことがありまして」
「いいよ。場所を変えようか」
にこりと、笑っていない目でうなずく斎藤さん。向こうにも聞きたいことがたくさんありそうだ。
階段を少し上って四階への踊り場。斎藤さんはここで十分とばかりに壁に身をよりかける。
「どうかな? 昨日のメモは役に立った?」
「まあ、はい。ありがとうございます」
実際のところ要点は全部晴が押さえていたから役には立たなかったけど、話の本意はそこじゃない。
「ずいぶん子供たちのことを気にしてるんですね」
「仕事だからね」
「それなのに帰ってはくれないと」
「休みだからね」
「でも翔人のお見舞いには行くんですね」
「……」
言葉が止まる。ややあって、「友達に会いに来ているだけだよ」と返る。その理屈ならカシオペアに行かないのも変だ。翔人と会う理由があるのか、唯花たちに会えない理由があるのか。にらんでみても、斎藤さんは微笑み返すだけだ。
「斎藤さん、何か隠し事してませんか?」
「人は誰もが何かを隠して生きているよ」
「みんながケンカしてて大変なんです。助けてください」
「子供たちのケンカに大人が入ると不公平だよ」
「何を約束させたんですか?」
「言わない約束なんだ。ごめんね」
暖簾に腕押し。侭が言いそうな屁理屈。言いたくない理由があるという遠回しな主張。価値観の異なる者への平行線の提示、大人のやり口だ。
大人同士の隠し事は暴かないのがマナーだ。他者や世界を受け入れることは、子供と大人の一番大きな違いなのだから。そういう意味では、私はこの人の主張を信じるべきなのだろう。でも、やっぱり納得できない自分がいるのも事実だ。どうしよう。
思い出せ柏木天音。ここ数か月で、私は数々の困難を乗り越えてきたはずだ。
頭の中で凪が語り掛けてくる。
「殴っちゃえば?」
いや、ダメでしょ。
あるいは侭なら。いやダメか。こういう時は笑うだけで何もしてくれないし。
助けて大人の人。真っ先に浮かぶ愛子さんの豪快な笑み。
「ごねるなら殴ればいいよ」
うん。この人も参考にできなさそうだ。誰か、誰か対話を。
「話は終わりかな? そろそろ翔人のところに戻ろうか」
「あ、待って」
腕をつかんで呼び止める。向けられる困り顔は子供を相手にする大人のそれで、なんだかみじめな気持ちになる。
いっそ本当に殴ってしまおうか。もやもやした思考を振り払うべく、拳を握って小さく前に突き出す。起きる微風が提示するのは、残念ながら私の無力だけだった。
やっぱり私がすべきは、誠心誠意頼むことだ。頭を振って前を向き、倒れている斎藤さんを説得する言葉を絞り出す。
「ん?」
斎藤さんが倒れている。階段の手すりにもたれながら、どういうわけか苦しげに腹部を押さえている。
「……ああ。これは、大丈夫。気にしないでいいよ」
服の下からは、インナーにしては鮮やかすぎる、赤。血の色だ。
まさか。さっきの私の素振りは当たっていた? 度重なる暴力観察の結果、私の拳はいつの間にか凶器になっていた?
「自首。いや、救急車」
急いで病院に連れて行かないと。何か重い病気か、もしかしたら。
「あ、いた」
混乱する私に天の助け。階下から声をかけてくれたのは看護師姿のおばさん。手には松葉杖とカルテ。観察してる場合じゃない。
「ご、ごめんなさい」
とにかく謝らないと。肺の中から空気がストンと漏れ出る感覚、冷たさ、引いているのは血の気だろうか。看護師さんはつかつかと歩いてきて、私の頭にぽんと手を置く。
「大丈夫大丈夫」
「へ?」
「目を離すとすぐこれだ」
「ははは……すみません」
申し訳なさそうに看護師さんの肩を借りる斎藤さん。上着の襟を乱暴に剝がされている。その下にはなんだろう、薄緑色の、病衣?
「まったく男ってのはすぐ格好をつけるんだから」
バシンと背中を叩かれて再度うめく斎藤さん。何が起きているのか把握できない私に、看護師さんが一言。
「手伝ってくれる? この人連れ戻すの」
「は、はい」
混乱のままに肩を貸し、翔人の病室を素通りして、さらに別の棟に。混乱した頭が、一つの可能性をつなげつつあった。
天崎晴④:天音の服装がジャージっぽい理由が着こなしとサイズ感と生地選びのせいにあると察しつつ、でもそのほうが絶対似合うと確信しているため口を閉ざしています。




