ロールエンド
こぼれ落ちる無数のサイコロ、崩れ落ちる頭蓋の音。それだけを待って、魔人の館に静寂が戻る。
手元のゲームログには怒涛の勢いで攻撃と回復の文字列が流れ、呼応するように倒れ伏した細見さんが痙攣する。無数の処理はゲームマスターの精神をむさぼり喰らい、その意識を代償にようやく完了する。
「終わりだな」
静寂に凪の声だけが響く。メッセージに滔々と追加されていく「何もしなかった」の文字列が、私に戦闘の終わりを伝えてくる。でもなぜだろう、実感が湧いてこない。倒れている細見さんが妙に弱々しく見えて、素直に喜べないからだろうか。
遠くで獣の遠吠えのような音が聞こえてくる。窓の外に目をやると、ざわめく影と魔物たちの姿が見えた。最初にこの屋敷を訪れた時と同じ、何かが起きる気配。
「またドラゴンとか飛んでこねえよな」理人のぼやきにも疲れが見える。
「まさかここに来て裏ボスだと?」一方で隣の侭は楽しそうだ。
「原典からの乖離はリスペクトに欠ける愚挙だ、けれどシナリオは超えてこそというTRPGのメッセージ性を踏まえるとこれは歓迎すべき事態なのか?」
どうでもいいけどこの子はいつまで寝ころんでるんだろうか。いや、ほっとこう。どうでもいいし。
ばたん。背後から何かが倒れるような音。
「ひ」
マヌケな口を押さえつつ振り向くと、部屋の奥に黒い穴。仰々しい装飾で見えなかったけれど、別の部屋への扉があったらしい。そこから出てくる、布に覆われた、腕のようなもの。
細い腕だ。青白く、骨ばっていて、でも翼や弦のごとき美しさを感じさせる、女の人の腕。箸すら持てない非力さが、転がるように体を扉の外に出す。
丈を持て余した新品同様のブラウス、結われていない長い黒髪。人形のようだ。そう感じた。あるいは、柳か尾花なのかも。
この世ならざる雰囲気が、にこりと笑顔を作る。
「ちょっと待っててね」
腕と同じく細い足。肘と腰とを支えにして、文字通りに這いずってこちらに近づいてくる。入院患者のリハビリのように苦しげに、懸命にだ。圧倒され、思わず道を譲ってしまう。
女の人が向かう先には、倒れたままの細見さん。
ただ、頬に手を触れる。光も音も温度もない。でも私は、目の前で行われている行為を治療だと確信していた。それほどに女の人の仕草はたおやかで、慈悲の心に満ちていた。ややもせず、硬直していた細見さんの顔に安らぎが戻る。
「よし」
触れていた手のひらで寝顔を撫でつけて、つらそうに息を吐く。
「よかったの? 放っておいて」
「侭だって見てたでしょ」
実際、この人は細見さんの仲間なんだろう。治癒の能力で細見さんを復活させて、そうするときっとまた戦いが始まる。それでも、止めてはならないと私に思わせるだけの何かが、そこにはあった。
「ごめんね、せっかくのお客さんなのに、置いてけぼりで」
上半身を懸命に起こし、失敗して地に伏せる。苦しげに笑う姿が痛々しくて、気づけば私は何ものかも分からないその人に手を差し伸べる。
「ありがとう」
私の手に重なる指先。閉じているはずなのに、指と指の間には隙間ができていた。
「痛っ――あれ?」
一瞬の痛みの後、違和感に気づく。地味にずきずきと疼いていた手と顔から熱が引いていた。見やると、手の甲の傷もまるでシールを剥いだかのように跡形もない。
「すげえな」
後ろで見ていた凪のつぶやき。侭の視線は訝しげ。理人は中立。いずれにせよ、状況を見守ることに決めたらしい。私に判断を放り投げてくる。
「ええと、どなたですか?」
失礼とマヌケを対消滅させた質問。女の人はクスリと笑い、「幽霊みたいなものかな」と答える。
幽霊。目の前にいるのがNPCでなく人間だと、私は確信できる。でもだとすると、この人は幽霊なのかもしれない。だって、生きた人間にしては、あまりに生気がない。
名乗ることすらせず、女の人は順番に私たちに触れ、ケガを癒していく。すでに根底からぐらつく私の常識を追加で揺さぶる、すさまじい威力だ。
「これでよし、と」
命を振り絞るように息を吐き、そのまま倒れ伏す女の人。荒い息が、治癒能力の代償を私に教える。
「だ、大丈夫ですか?」
「へいきへいき」
再び駆け寄った私の手を弱々しく握り、また笑う。苦痛が日常の中にあることを受け入れた、そんな笑顔だ。
「真司君のこと、怒らないであげてね」
怒りはない。私の中にあるのは困惑と、不遜な好奇心だけ。私の反応を見て安心したのか、指先から力が抜ける。
「タイミングが合ってよかった。それだけ、伝えたかったんだ」
「あの、説明してもらってもいいですか?」
「いいよ。まあ、私はただの――」
言葉が止まる。いや、言葉だけじゃない。まるで凍らせたかのように、女の人の全身が硬直していた。直後、その体が視界から消える。
死源に息遣いが戻る感覚、細見さんの意識が戻ってきたらしい。消えた女性の行き先がさっきの部屋であることを凪の視線が語り、同時にその行為に一切の敵意がないことも、間接的に教えてくれる。その一方で、こちらに向けられる視線は依然として険しい。
「まったく。冒険者どもは、なぜ人の家を物色したがるのか」
「勇者とはそういう生き物なんですよ?」
隠し部屋のほうが気になるのか、侭の声音は少し上の空だ。
「黙れ盗人が」
「だってさ凪」
「なんで俺なんだ」
文句を言いつつも凪が構え、半自動の機械装置のように戦闘が再開されていく。
再び始まる、見えない異能戦。嵐の中、私の心は冷えていく。
止められない妄執。ようやくその片鱗が見えてきた。真実にはまだ遠い、でも分かることがただ一つ。私が考えるべきは、勝つ方法じゃない。戦いを止める方法だ。だから私は、戦いの間隙を縫って、声を張り上げる。
「さっきの女の人は、誰ですか」
「……答える義務はない」
少し待っての返答は、今までとは違うもの。回答はGMの義務だと、自分で言っていたはずなのに。
「固めておいた人質とか?」
理人の意見。本人も違うと分かっているのか、その首は傾いている。人質というには、あの二人は互いに対して献身的すぎる。細見さんの頭に流し込まれた鉛の棒。あと少し話が聞ければ、きっと。
「ああ、あれはオブジェクトだよ」
緊迫を裂いて投げられたのは、侭の言葉。直後に攻撃を受けたのか床に頭から転がっていく。「何が言いたい」と、細見さんの言葉にも怒気が混じる。
「痛いな。定義に従うとそうなるじゃないですか」
冷笑する侭。態度は悪いけど、思い至る点もある。
経験上、私たちの行動はすべてがゲームログに記録されている。でも、あの女の人と会ったことは一度も表示されていない。少なくとも私たちは三回この屋敷を訪れているのに、一度もだ。
魔物もNPCもアイテムも、侵入者でさえも逃れられないその絶対則。その例外があるとすると、確かに建物や看板などのオブジェクトが該当する。道端を歩いたことをいちいち記録していては、ゲームログがパンクしてしまう。
「ログに表示されないから、あの人はオブジェクトってこと?」
「僕はそう思う。爆弾で壊れなかったから、かなり堅いオブジェクトだね」
趣味は悪いけど筋は通る。いつもの侭の切り口だ。
「それなら、エルダードラゴンの死骸も理屈がつくな」理人からも同意の声。
いきなり現れて死亡したドラゴンは、もしかすると屋敷でホルマリン漬けにされていた実験体だったのかも。あの人は私たちと話したがっていた。騒ぎを起こすために治癒して、そうしたら襲われて、返り討ちにした結果が空飛ぶドラゴンゾンビ現象。なんて、ちょっと無理があるか。
「で、正解はどうなんです?」
意地悪く急かす侭。細見さんは答えない。明らかに狼狽し、余裕をなくしている。そして何を思ったのか、そのまま壁を殴りつける。
GMのステータスで殴られたコンクリートには亀裂が入り、ガラガラと音を立てて破片を落とす。反射的にゲームログを見ると、やっぱり何も表示されない。
「オブジェクト、だと」うわ言のようにつぶやき、もう一度破壊を繰り返す。
一瞬よぎった八つ当たりという推測を、その表情がかき消す。あれは怒りじゃない、きっと失望とか絶望とか、地面に落ちるタイプの感情だ。
「これでは、無理か」
やがて止まる細見さんの体。がっくりと落とす肩は、先ほどまで戦っていた相手とは思えないほど小さく見えた。
「終わったのか?」
凪が残念そうに、けれども少ししんみりとつぶやく。
「たぶん」
今日も、手のひらに真実はない。けれど、戦闘が終わったことだけは、分かった。
次回から解決編です。ミステリにおける解決という言葉はずいぶんと身勝手なものだなと思います。




