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第二十二章

 リビングで直巳と別れた後。伊武はベッドの上で仰向けになって考え事をしていた。

 いつもなら、伊武がベッドに入るのは眠る時だけだ。ベッドに入ってすぐに眠り、必要なだけ眠ったら、すぐに目を覚ます。眠りは意識的な休息であり、寝起きの良い悪いなど、伊武にはまったく関係なかった。

 だが、最近はベッドに入っても眠ることができない。眠りもしないのに横になっているというのは、気持ちが悪かった。こんなことは初めてだ。

 理由はわかっている。目を閉じると、昔のことを思い出すからだ。

 まだ、伊武が幼かったころ。天使が付く前、ただの少女だったころのこと。

 自分にいつも優しくしてくれた彼女のことを思い出す――Hg。

 伊武は生まれた時から反天使同盟にいた。両親がともに反天使同盟にいたので、それが当たり前だと思っていた。母親は忙しく、訓練以外で会うことは、ほとんどなかった。

 代わりに幼い伊武の世話をしてくれていたのが、Hgだった。彼女は大変に頭が良く、文字も数字も計算も、彼女が教えてくれた。教えるのが上手いわけではなかったが、子供相手だろうが理路整然と説明をするので、伊武はそれを理解しようと頑張っているうちに、色々なことを学ぶことができた。他の子供達よりも、学習は早かっただろう。

 勉強だけではない。Hgは伊武と遊び、愛情を注いでくれた。母親に甘えることのできなかった伊武は、代わりをHgに求めた。今思い返せば、恥ずかしくなるぐらいに甘えていた。彼女の膝で眠ったことなど、数え切れないぐらいだった。

 Hgは別に、子供が好きというわけではない。基本的に、あらゆる人間、生き物が嫌いだった。格好良い男性も、可愛らしい子猫も、正体不明の天使も。等しく嫌っていた。他の子供がHgに近づいても、最低限の会話以外は、一切相手をしなかった。Hgに遊んで欲しくて子供が泣くと、Hgは死んだ虫でも見るような目で一瞥し、耳を押さえて立ち去った。

 そんなHgが自分にだけ優しくしてくれるのは、特別扱いされているようで、伊武には心地よかった。二人は互いを必要としていた。

 後にも先にも、愛情を持って抱きしめてくれたのはHgだけだ。もっと幼いころ、両親は自分を抱きしめてくれたのかもしれないが、伊武は覚えていない。

 だから、伊武が知っている人のぬくもりは、Hgだけだった。

 Hgの柔らかく、温かい体。何の匂いもしない、清潔な髪と衣服。ずっと彼女といられたのなら、伊武はまた違った人生を歩んでいただろうか――いや、そうではない。問題はそういうことではない。

 もしも伊武が普通の少女であれば、Hgと別れた後にも、誰かに愛されることがあったかもしれない。優しく抱きしめられ、頭を撫でてくる人がいたかもしれない。それはHgのような母親代わりだったかもしれないし、恋人だったのかもしれない。

 それがかなわない理由は、簡単だ。

 戦うための心と体。大きく、強く、冷たい。まるで鎧そのもの。こんなものを抱きしめようなどと、誰が思うだろうか。伊武は、誰かに愛してもらうことを諦めていた。強さと引き替えに、体と引き替えに――違う。Hgに斬り付けられた瞬間に、「そういうもの」のすべてを失ったと思っている。

 そういうもの――言葉にするなら、少女としてのすべてを、失ったと思っている。

 そして、伊武の失った少女のすべてを、持っている者がいた。

 小さく華奢な体。可愛らしい服装。わがままで、お姫様のような――高宮アイシャだ。

 伊武は、直巳に抱きついていたアイシャの姿を思い出す。小さくて細い体で、直巳に抱きつく姿は、とても様になっていた。中身は三千歳を過ぎた、老人と言って良いのかもわからない化物だが、外見と仕草だけは間違いなく、最高に可愛らしい少女だ。

 自分も、あの姿を持っていれば。あの姿に似合う心を持っていれば。素直に直巳に抱きつけただろうか。今とは違う関係になっていただろうか。そうでなくとも、普通の少女ような生活を送ることができたのだろうか。

 死んだHgの顔が、目に焼き付いている。相応に年を取り、何も苦しむことなく、何も言い残すこともなく死んだHg。

 自分がHgを殺せば、自分で決別することができれば、こんな気持ちも少しは落ち着くと思っていた。

 だが、そのHgはもういない。いくら伊武でも、死んだ人間を殺すことはできない。

 残っているのは、どこか自分に似た面影のある謎の女性、Agだけ。伊武とは何の関係もない。彼女を殺して気持ちが晴れるのなら、どれだけ楽だっただろうか。

 時間が経てば、この行き先の無い気持ちも、どこかへ消えてくれるのだろうか。

 何年かかるのかはわからない。もしかしたら、死ぬまで消えないかもしれない。ならば、それまでずっと、こんな夜を過ごさなければならないのか。いつまでも、たった一人で。

 たった一人で――伊武は、Hgと眠っていた時のことを思い出す。

 伊武は眠っているHgのベッドに、よく勝手に潜り込んでいた。

 だから、Hgは眠る時には何も言ってくれない。

 でも、目覚める時にはHgがいて、微笑みながら言ってくれたのだ。

「おはよう、希衣」


 伊武は目を閉じると、誰にも聞かれないように、小さく小さく呟いた。

 禁じられた言葉を言うように、自分にも聞こえないぐらいの小さな声で。

 呟いたのは、誰の名前だったか。

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