第十四章
Hgの魔術工房。ドアを開けた瞬間、そこには大量の花が咲いていた。部屋の両側は花壇のようになっていて、所狭しと花が咲いており、歩けるのは玄関から一直線の通路のみ。その通路や壁にすら、花が敷き詰められていた。
誰も、部屋に入ろうとはしない。ただ、唖然と入り口から室内を見つめているだけだった。
どれもこれも美しい花なのだが、室内でこれだけ大量に咲いていると、気味が悪い。花から目をそらしても、香りが鼻から、皮膚から染みこんでくるようだった。
「――なによ、これ」
ようやく、口を開いたのはアイシャだった。みんな、同じ感想だろう。
「A。これ、何かの罠じゃないでしょうね? 嗅いだらヤバイとか、そういう」
「それはありません。ただの花ですよ。ここまで多いと、別の何かに思えますけどね」
Aは即答し、部屋の中に入っていった。足下の花が目に入っていないかのように、躊躇なく踏みしめていく。
「魔術などは一切、関係ありません。ただの花です。美しくて、良い香りがするだけの」
Aが、足の下にある花を、ぎゅっと踏みつぶす。不快な虫でも殺すかのように。
伊武は花を見つめて、Hgのことを思い出していた。
伊武は花が好きだった。綺麗で可愛いから。
Hgは花が嫌いだった。花はいつか枯れるから、虫が湧くから。
それでも、Hgはよく伊武に花をくれた。頭に飾ってくれた。
この一面の花を見ると、嫌でも、そのことを思い出す。
Hg――この大量の花には、どういう意味があるの――何を考えているの――。
伊武が立ち尽くしていると、アイシャに背中を押された。
「まれー、邪魔」
「……あ……うん」
それで伊武は正気に返り、先へと進んだ。
アイシャは伊武の背中を見送ると、むせかえるような花の香りに顔をしかめながら言った。
「どうして花なのよ……高田、Hgって花を育てるのが趣味なの?」
高田は見事な花にみとれながら答える。怖がってはいないようだった。
「いや……そんな話は聞いたことがないよ。僕も驚いてる。しかし、見事なものだね。造花でもないようだ。これだけ大量の花が、同時に満開になるなんて。それぞれ咲く季節もめちゃくちゃだ。温室でも使わない限り、あり得ないよ」
花について饒舌に語る高田。アイシャは素直に関心した。
「高田、あんた花に詳しいの?」
「実は、趣味でね。家でいくつか育ててる。しかし、これは――見事なのは認めるけど、不思議と、うらやましくないな」
そういうと、高田は近くにあった花に手を伸ばして触れる。
「――ああ、そういうことか」
高田が、つまらなそうな声を出す。花の魔力を振り払ったかのように冷静な声。直巳は、その高田の声を頼もしいとすら思った。
「高田……何かわかったの?」
直巳がたずねると、高田は花片に触れながら返事をした。
「ああ。これは生きてる花じゃないよ。恐らくは全部ね」
「どういうこと? 造花じゃないよね? 匂いもするし」
「造花じゃないよ。ちゃんと、「生きていた花」だ。プリザーブドフラワーだね」
「プリザーブドフラワー?」
直巳は初めて聞く言葉だった。ドライフラワーぐらいしか聞いたことがない。
「生花に特殊な加工を施して、その形のまま保存する方法さ。生きてる状態に近い姿で保存することができるし、香りも残る。光で劣化しちゃうから、室内で使うことが多いね」
「へえ……そういう方法があるんだ」
「結婚式のブーケとか、展示とかでよく使うかな。気づいてないだけで、君も目にしたことはあると思う。見慣れないと、本物と区別がつかないかもね。便利なんだけど、加工費用が結構かかる。これだけの数だと、いくらかかることか……って、僕の金だろうな」
「へえ……そんなのがあるんだ」
直巳は、改めて部屋中にある花を見てみた。花も葉も、生きているのと同じように、何とも色鮮やかに咲いている。加工をした花と聞くと少し不気味さは薄れたが、それでも気持ちの良いものではない。
これをやったのはHgだろうか。ならば、どうして彼女は、こんなにも美しいものを、ここまで気味悪く飾り付けることができるのだろうか。まるで、花が咲き乱れている地獄のような風景ではないか。
そう思った直巳の目に、アイシャの姿がうつる。
彼女だけが、この花の咲き乱れる暗闇に溶け込んでいた。
永遠に生きる花。永遠に生きる少女――同じだ。
アイシャは、この花と同じ――いや、この花よりもずっと美しく、長い時を生きている。
「――くん――椿君」
「えっ? あ、なに?」
アイシャに見とれていた直巳は、伊武に呼ばれて正気に戻った。この薄暗い灯りと、香りに酔っていたのかもしれない。
伊武は直巳が自分をきちんと見ていることがわかってから、言葉を続けた。
「……その……この部屋には……Hg……いないけど……捜索……続けて……いい?」
「ああ、そうだな。他の部屋は――通路の奥か」
この花にまみれた部屋は、壁も他の部屋もない。すべてぶち抜いて一部屋になっている。部屋の右奥に扉が見えた。構造上、あれが2階への階段だろう。
「じゃあ、2階に行こうか。何があるかわからないから、気をつけて」
「うん……Aが先頭……私は……最後に……」
「わかった。そうしよう」
直巳はそう言うと、Aとアイシャの元へと歩いていった。
伊武は直巳の背中を見ながら、近くにあった花を、そっと握り潰した。
1階奥にある扉を開けると階段があったので、全員で二階に向かう。
階段を上り、2階の部屋に入る扉の前に来る。罠などがないか、Aがひとしきり調べた。問題はないようだ。鉄の扉に耳を当てて、中の音を聞く。人が動いているような音はしない。
「では、開けますよ」
Aが、ゆっくりとドアを開ける。部屋の中が暗くて、何も見えない。だが、今度は花が咲いているようなことはないようだった。匂いも気配もない。
Aがハンディライトを付けて、部屋の中を照らす。いかにも研究室といった様子で、得体の知れない本や器具、骨董品のようなものが大量に転がっていた。
Aが壁に電灯のスイッチを見つけて、オンにする。少しのタイムラグがあって、部屋の蛍光灯が点灯した。部屋が明るくなり、暗い所にいた直巳と高田――普通の人間は、目が慣れるのに少し時間がかかった。
ようやく、目が慣れてきたころ。Aが楽しそうな声を出した。
「――これはこれは」
何だろうと思い、直巳が部屋の中を見回す。
すると、部屋の隅で、壁にもたれかかるように倒れている女性の姿があった。
長い髪が垂れているせいで顔は見えないが、白衣を着ている。下はありふれたベージュのチノパンで、くたびれたスニーカーを履いていた。
「――ッ!」
最後尾にいた伊武が全員をかきわけて、女性の元へ走った。
「起きろ!」
そういって襟首を掴んで持ち上げるが、女性はぐったりとしたまま動かない。
そこで、ようやく女性の顔が見えた。眼鏡をかけた妙齢の女性。特別に美人でも醜いわけでもない。なんというか、特徴のない顔だった。
しかし、その顔は伊武の記憶にあるHgの顔と、ほぼ一致している。
伊武が、女性の首や心臓、脈に手を当てて状態を確かめた。
調べ終わると、伊武は彼女を静かに横たわらせてから、立ち上がって全員に伝えた。
「……死んでる」
直巳と高田が息をのみ、アイシャが深い溜め息をついてから言った。
「はぁ……高田。あれ、Hg本人か確認して」
「わ、わかった」
高田が女性に近寄り、その顔を見る。間違いのないように何度も確認すると、辛そうにうつむく。呼吸を整えてから、はっきりと言った。
「――彼女がHgだよ。間違いない」
伊武と高田がHgだと確認した。彼女がHgで間違いないだろう。
ようやく見つけ出したHgは、死んでいた。
「……クッ!」
伊武がHgの死体を見ながら、ギリッと唇を噛んだ。ようやく見つけ出した右腕の仇は、死んでいたのだ。死体には何もできない。仕返しをすることも、なぜ自分を攻撃したのかという質問に答えることも。
「――死因、わかるかな」
直巳の口から最初に出たのは、そんな言葉だった。悔やむほどの親しみはない。それよりも彼女がどうして死んだのかを、調べておくべきだと思った。
「俺とアイシャは部屋を調べる。Aと伊武は死因を調べてくれ。わかる限りでいい」
「かしこまりました」
Aは二つ返事で了承し、伊武も黙ってうなずく。二人はすぐに、彼女の服を脱がせて、死因が何かを調べ始めた。
アイシャが直巳のそばにより、小さな声で話しかけてくる。
「ずいぶん、落ち着いているじゃない――って、そうでもないか」
直巳の握りしめた拳は、力を入れた太ももは、かすかに震えていた。
「怖いに決まってるだろ……一階が異常な部屋、二階でようやくHgを見つけたと思ったら、死体になってたんだ……今すぐ、ここから走って逃げたい気分だよ」
「怖いのなら、逃げてもいいのよ。後はやっておくから」
挑発的なアイシャの言葉に、直巳は間髪入れず、「バカ言うな」と返した。
「そうはいかないだろ。今回は、俺の問題だ。できる限りはやるさ」
直巳は自分の太ももを、パンと叩くと、アイシャから離れて部屋の中を調べ始めた。
アイシャは、少し哀しそうな目をしてから、高田を使って部屋を調べさせた。
20分ほど部屋を調べたが、特にこれと言ったものは見つからなかった。部屋にある骨董品のほとんどは魔術具ですらない。所々壊れているので、何かを作る時のパーツ取りでもしたのかもしれない。研究成果などが書いてあるノートも見つからなかった。ようするに、この部屋の中に、価値のあるものは何もなかった。
アイシャの方も落ち着いたのか、高田を引き連れて直巳のそばへやってくる。
「駄目ね。魔術具、研究成果、資金……そういったものは、一切ないわ」
アイシャはそういうと、近くにあった事務椅子に座る。生前、Hgが使っていたものだろうか。どこにでもあるような、グレーの事務椅子だ。ちなみに、物を動かしたり、探したりはアイシャの指示で高田がやっていた。高田は疲れたのか、床に座り込んでいる。
直巳も捜索で使った腕や腰の疲れを感じながら、壁に寄りかかって報告した。
「こっちも駄目だ。何もないよ。ここが研究室だとしたら、不自然なぐらいに」
「そうね……Hgの死と関係があるのかしら」
「他殺だとしたら、犯人が持ち出したか。自殺だとしたら、あらかじめ処分したか」
「普通に考えればね。直巳はHgが普通だと思う?」
「魔術師なんて、みんな普通じゃないだろ。わかった、先入観は捨てるよ」
「その方がいいわね。で、Aとまれー、そっちはどうなの?」
アイシャに呼ばれると、二人も簡単な検死を終えた所だった。とはいえ、外傷や薬物反応があるかを見るぐらいしかできないが。AはHgに白衣を着せると、胸に手を置いて寝かせた。
「外傷はありません。皮膚には薬物反応も、痛みや苦しみでかきむしった後もありません。眠るように死んだ、としか。これ以上は私達ではわかりませんね。希衣様も同じ意見です」
Aの言葉に、伊武は黙ってうなずく――正直、もうどうでもいい。
本来なら、Hgに会って色々なことを聞いた後、復讐を果たす予定だった。そして、つばめを助けるための道具を作らせて、直巳の役に立つ予定だった。
それが、どういうことだ。ようやく再会したと思ったら、勝手に死んでいるではないか。しかも苦しんだ様子もなく、安らかにだ。さすがに、死体にどうこうするほど、伊武も落ちぶれてはいない。そんなことはしたくない。
せめて地獄で苦しむよう、Aにお願いしてみようか。まさか天国に行くこともないだろう。
そんなくだらないことを考えながら、伊武がAを見ると、目が合った。Aは、ずっと伊武のことを見ていたからだ。まるで、伊武の心中がわかっているかのように、にこりと笑った。
相変わらず不愉快だ。Hgの代わりに、こいつを殺してやろうか、悪魔は死んだら天国で苦しむのだろうか、などと考えていたところで、突然、部屋のドアが開いた。
全員の目が、一斉にドアに向く。伊武は反射的にフリアエを抜き、構えた。
入ってきたのは、喪服のような黒と紫のドレスを着た、一人の女性だった。帽子、ドレス、長いスカートにブーツ、長い手袋。全身を隠すような装い。顔は帽子から垂れたベールで隠れているため、はっきりとは見えない。手には装飾のほどこされた大きな日傘を持っていた。背は一般的な女性より、少し低いぐらいで、スレンダーな体型をしていた。
「――なんの用ですか?」
女性が口を開いた。低く、はっきりとした美しい声。見た目よりも若い声だった。直巳は、その声をどこかで聞いたことがあるような、不思議な錯覚を覚えた。
「あなた達な誰なのかと、聞いているのですが――そんな、剣まで持って」
女性は、改めてはっきりと告げると、伊武の顔と、その手に持っているフリアエをじっと見つめた。侮蔑するような態度で、伊武とフリアエに、何度も視線を往復させる。
伊武が、ちらりと直巳を見る。行けと合図すれば、伊武は一瞬で彼女を拘束するだろう。
誰も女性に返事をせず、場を沈黙が包む。一秒、二秒。誰も喋らない、動かない。アイシャにいたっては、彼女の存在を認識していないかのようだった。完全に無視。
直巳に取っては、これで十分だった。少なくとも、彼女はいきなり攻撃してこなかった。
直巳が一歩前に出て、穏やかな表情と声で語りかけた。
「私達は彼女、Hgの知り合いです。用事があってたずねたのですが、あなたは?」
「私はAg。先生の弟子であり、身の周りのお世話をしておりました」
ゴシックな装いの女性は、Agと名乗り、Hgの弟子だと言う。師匠が水銀、弟子は銀。そういう名前をつけるのが彼女達クリエイターのやり方なのだろうか。
Agは全員を見渡すと、一歩下がった。当然のごとく、警戒している。
「あなた方は先生に用事があると言うことですが、入り口のシャッターが壊れていました。それに――先生はどうされたのですか? まさか、無理矢理に気絶をさせて?」
Agが床に横たわっているHgを見て、怪訝な表情をする。それはそうだろう。Agから見れば、直巳達は無理矢理に押し入って、Hgを昏倒させたようにしか見えない。
「違う。聞いてくれ。まず、ここに高田という男がいる。Hgの出資者だ。わかるか?」
直巳に言われると、高田は立ち上がってAgの前に来た。
「高田陽治だ。Hgの支援をして、魔術具を作ってもらっていた」
Agは、じっと高田の顔を見た後、少し表情を緩ませた。
「ああ、高田様ですか――ええ、先生からお話は聞いております。お写真を拝見させていただいたことも。お世話になっております」
Agは高田を認識すると、安心したように息を吐いてから、礼儀正しく頭を下げた。
「しかし、ここに勝手に来ないような契約になっていたはずでは?」
「そうだよ。でも、もう何日も連絡が取れないんだ。何かあったら行けないと思って、無理矢理だけど入らせてもらった。契約解除覚悟でね。そうしたら……ご覧のとおりだ」
「ご覧のとおり? どういうことですか?」
「その……僕達が来た時にはもう……Hgは……死んでたんだよ」
「――え? あなた、何を」
Agは高田を押しのけて、Hgの遺体に向けて駆け寄った。そして、脈拍や呼吸、心拍を確認すると、哀しそうに彼女の首筋に顔をうずめた。
「先生……そうですか……逝かれてしまったのですね……」
Agは悲しんでいるが、驚いてはいない。前から、Hgが死ぬとわかっていたようだった。
Agは少しの間、Hgの遺体を抱きしめて別れを惜しんでいた。誰も、それを止めない。
少ししてAgがHgと離れると、直巳に向かって話しかけた。
「失礼しました。大丈夫です。あなた達が殺したのではないと、わかっていますから」
「たしかに、俺達は何もしていないけど、わかっているって……」
どうにも、物わかりがいい。何か理由があるのだろう。
「ええ。先生は心臓を悪くしていました。研究の無理がたたって、何度か発作を起こしていました。それでも、先生は何かに追われるように研究を続けていました。きっと、また何日も続けて徹夜でもしたのでしょう。それで、そのまま発作が起きて――」
Agは最後まで言うことなく、顔を伏せた。泣いてはいないが、声も表情も辛そうだ。当然だろう。先生と呼ぶ人間が亡くなったのだ。その心中は察するに余りある。
「それは……お気の毒でした……」
「いえ……私がもっと、注意していれば……」
「ねえ。あんた、ここに来たの何日ぶりよ」
突然、アイシャが普通の口調で割り込んできた。死者を悼む直巳とAgのやり取りなど、一切なかったかのような不遜な態度。
それでも、Agは機嫌を悪くするようなこともなく返事をしてくれた。
「ええと……2日ぶりですね。用事が無い時は来るなと、言われていたもので」
「ふうん。2日前は元気だったの?」
「ええ……いつもどおりでした」
「あなたがHgに仕えてたのは、いつごろから?」
「もう、何年も前になります。弟子と言っても、半ば押しかけで、使用人のようなものでしたから。高田様をはじめ、他の方に紹介されたことはございません」
「ふーん……なるほど。わかった。で、これからどうするの?」
「まずは、先生をきちんと葬って差し上げたいです」
「警察とか、そういうのはいいの? 死因、違うかもよ? 他殺かもしれないし」
アイシャが言うと、Agはアイシャをバカにするように、冷たく笑った。
「フフッ……魔術師でもない、知らない人間に体をあばかれるなんて、そんなこと、先生が喜ぶわけはないでしょう。お嬢さん、あなたは魔術師かしら? 私の言うこと、わかります?」
「どうかしらねー。わかるような、わからないような」
Agが挑発的な言葉を吐くが、アイシャはそれに乗ることなく、のらりくらりとかわした。
Agは少し不愉快そうに咳払いをした。
「それに、先生が自然死か自殺か他殺かなんて、もはやどうでもいいことです。先生は間違いなく死んだのです。ならば、死んでからのことを考えるべきだと――先生なら仰るはずです」
「ふうん――あんた達、生前に師弟でそんな話をしてたの?」
「そこまでは具体的には話しませんよ。ただ、先生に一番近かった人間は私です。ですから、死後の処理は私がやります。何か、ご意見でも?」
「Hgの死体に興味なんかないわよ。それこそ、あんたが煮るなり焼くなり埋めるなり、好きにすればいいんじゃない? 問題はその後よ」
「その後?」
「Hgの力を借りたかったのよ。天使の力に強いクリエイターを探してたってわけ」
「ああ、そういうことですか――それならば、私がお話を聞きましょう。これでも先生の弟子ですから。高田様にはお世話になっておりますし、それに――」
Agはフリアエを構えたままの伊武に近づいた。
「――あなた、伊武希衣?」
ベールの向こうから、舐めるような視線が伊武を見上げる。伊武は、じっとその目を見つめ返した。なんだか、嫌な感じがする。恐怖ではない。ただ、不快な目線だった。
「……そう」
「ああ、やっぱり……ということは、それがフリアエですね。どちらも、先生の話していたとおりです」
Agはにこりと笑うと、伊武に背を向けて離れようとした。が、伊武がその肩を掴んで、無理矢理に振り向かせる。
「痛いですよ、伊武希衣。あなたは大きくて強いのだから、手加減してくれないと」
「Hgは……なんて……言っていた……」
「は?」
ぼそぼそと喋る伊武に向かって、Agは耳を突き出した。殴られてもおかしくないぐらいの舐めた態度だ。伊武はこめかみに血管を浮かべながら、もう一度言った。
「Hgは……私とフリアエのことを……なんて……言っていた……」
「別に。どちらも、大きくて人を殺すことに特化したような形だと、聞いていただけです。一目でわかりました。先生の言うとおりでしたから」
そういうと、Agは伊武の手を払いのけて、直巳とアイシャの元へと戻っていった。
伊武は怒るというよりも驚いていた。なぜ、彼女はそこまで自分に対してだけ、挑発的なのだろうかと。ケンカを買ってやろうかとも考えたが、Hgがいない今、彼女の力を借りるかもしれないので、伊武は怒りをぐっと抑えた。その様子を観ていたAは、楽しそうに口元を押さえて笑っている。どこまでも、何もかも不愉快なやつだった。
Agは直巳とアイシャを見比べた後、直巳に向かって話しかけた。
「あなたに話をすれば良いのですか? それとも、そちらのお嬢さんに?」
直巳はアイシャとアイコンタクトを取ることもなく、即答した。
「俺でいいですよ。椿直巳といいます。よろしく」
直巳が手を出すと、Agは両手で、そっと直巳の手を包んだ。
「椿直巳さん……お花の名前ですね。よろしく」
Agは体温が低いのか、握った手は手袋越しでも冷たかった。
それから直巳達は、Hgの死体を葬ることにした。アイシャのツテを使って、Hgの遺体を焼き、灰にした。火葬にはAが立ち会い、間違いなく燃やす所を見たという。それ自体はものの数時間で終わった。
アイシャは、墓が欲しければ用意してやるとAgにいったのだが、断られた。どうせ身寄りもないし、Hgはそういったセレモニーが嫌いだという。ならば、どうするのかとたずねると、Agは近くの川に、灰を全て流してしまった。
「いや……ちょっと……いいの? 先生……なんだよね?」
さすがにひどい扱いだと思い直巳が口を挟むが、Agはまったく悪びれることはなかった。
「先生は元々、人間の体に興味がありませんでしたから。意のままにならない、しかも衰えていくだけの服を着せられているようで不愉快だと。だから、何もなかったことにしてあげるのが一番の供養になるかと」
そういうと、Agは灰を入れていた壷も、普通に割って捨ててしまった。
これ以上、直巳が何か言うこともできない。
間違いないのは、Hgの体は灰になり、この世から消えてしまったということだけ。
何の感傷もない葬儀――葬儀と呼ぶのもはばかられる。Hgの意向どおり、本当に死体を処分するだけの作業だった。
これが、HgとAgの世界なのだろうか。仮にも先生と呼ぶ人間に対して、そこまでドライになれるものだろうか。直巳はどうしても理解できなかった。
伊武は何も言わず、ただじっと、一連の作業をじっと眺めており、その間、ずっと右肩を押さえていた。Hgに斬られた右肩を。
すべての作業が終わるまで、半日もかからなかった。直巳達は一度別れて、再び工房で会う約束をして別れた。
その日、帰宅した直巳は、入念にシャワーを浴びて、服をすべて洗濯機に放り込んだ。体中に花の匂いがまとわりついているような気がしたからだ。
ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。
ようやく眠ってからも、嫌な夢を見た気がする。
内容は覚えていない。とにかく、嫌な夢だった。
目が覚めても、まだ夢が続いているような気がして、落ち着かなかった。




