バハード王国。
バハード王国。
大陸の北方に位置するその国は、厳しい自然とともに歩んできた。
冬は長く、北へ行くほど風は冷たい。険しい山々が連なる地域もあり、決して暮らしやすい土地とは言えない。
それでも、初めて王都を訪れた者は、少なからず驚くという。
王都の中央には、バハードの民なら誰でも利用できる大きな図書館がある。
歴史や地理、農業、医学、建築、外国語、文学。専門的な学術書から子ども向けの本まで、膨大な数の書物が収められていた。
居心地のよい読書スペースが設けられ、筆記用具の貸し出しや文書の複写も行われている。
その近くに建つ王立博物館には、国の歴史を伝える品々をはじめ、各地から集められた鉱石や動植物の標本、古代の遺物、外国からもたらされた珍しい品々が並ぶ。
さらに少し歩けば、美術館がある。王侯貴族の所有していた絵画だけでなく、名もなき若い画家の作品が展示されることもあった。
そして、王立学院。
そこは、貴族だけのための学校ではない。一定の学力を認められれば、商家の子も職人の子も門を叩くことができた。
騎士を目指す者には訓練の場があり、技術を身につけたい者には、それを学ぶ場所がある。
商いも、研究も、芸術も。選ぶ道は違っても、学ぼうとする者の前に、最初から扉を閉ざさない。
それが、今のバハードという国だった。
人々の暮らしを支える施設も整えられていた。
王都には身分を問わず診療を受けられる王立療養院があり、各地区には小規模な診療所が置かれている。
寒さの厳しいこの国では、公衆浴場も広く普及していた。安価で利用できる浴場は、身体を清潔に保つだけでなく、冷え切った身体を温め、人々が言葉を交わす憩いの場にもなっている。
学ぶ場所。身体を治す場所。健やかに暮らすための場所。
王が国中に整えようとしていたのは、人が自分の人生を歩くための土台だった。
かつて、その方針について、一人の臣下が尋ねたことがある。
「陛下。これほどの施設を民に開放する必要がございますか。知識は力となります。身分を問わず与えることを危ぶむ者もおります」
「ならば、なおさら学ばせればいい。何も知らない者ばかりの国を作ってどうする」
王は、さも当然のことのように答えた。
「生まれる場所は選べない。だが、その先まで生まれた場所だけで決められる必要はないだろう」
王族として生まれる者もいれば、明日の食事に困る家に生まれる者もいる。それは本人にはどうすることもできない。
だからこそ、学びたいなら学べばいい。剣を握り、絵を描き、商売を志すことも、生まれだけを理由に諦める必要はない。
もちろん、望めばすべてが叶うほど世の中は甘くなかった。
才能の差はある。努力しても届かないことも、失敗することもあるだろう。
「最初から道がないのと、道があるのに歩かないのとでは、まるで違う」
国は、その道を作る。
本を置き、学校を建て、技術を学び、芸術に触れられる場所を用意する。
「その先は、自分でやれ」
「ずいぶん突き放されるのですね」
「当たり前だ。人生まで国に歩いてもらおうとするな」
王は豪快に笑った。
学び、動き、失敗したら考える。転んだ時に立ち上がるのも、最後は自分自身だ。
「自分の人生だ。自分の足で歩け」
それが、バハード王の持論だった。
◇ ◇ ◇
「陛下。本日の書類でございます」
執務机に、分厚い書類の束が置かれた。
「……多くないか?」
「昨日、陛下が後回しになさいましたので」
「昨日の俺を呼べ」
「時間を戻すより、お読みになる方が早いかと」
王は盛大にため息をつき、一枚目を手に取った。
先ほどの国家理念からは、少々想像しにくい姿だった。
現国王バハードは豪快で、細かな作法にこだわらず、身分より能力を見る。そして、長い話が嫌いだった。
「長い。これを書いた奴に、三枚以内にまとめろと言っておけ」
「十二枚ございますが」
「だからだ! 要点を先に書け。何を決めてほしいのか、ここまで読んでも出てこないぞ」
「そのご指摘も含めてお伝えしますので、今回は最後までお読みください」
「お前、最近俺の扱いが雑じゃないか?」
「長年お仕えしておりますので、進め方は心得ております」
王はぶつぶつ言いながらも、再び書類に目を落とした。
こう見えて、必要なものには必ず目を通す。細かな作法には無頓着でも、国に関わることを疎かにする王ではなかった。
臣下たちが小言を言いつつも、この王についてくる理由である。
何件かの決裁を終えたところで、側近が次の報告を差し出した。
「もう一件、北方のヴァルグレン卿について。緊急の報告ではございませんが――」
「その前置きが必要な話か。カイがどうした」
「陛下が以前から気にかけておられた、ご結婚の件でございます」
王は書類を机に置き、額に手を当てた。
「……そっちか」
国境問題、税制、学院の増築、街道の整備、冬への備え。王が気にかけていることは山ほどある。
その中に、国政とは別に長年頭を悩ませている問題があった。
バハード王国五騎士。
王国でも指折りの力を持ち、国民から英雄と称えられる五人の男たち。頼もしい彼らには、国王を大いに悩ませる共通の問題がある。
「あいつら、いつになったら結婚するんだ」
国王の悩みは、今日も深い。




