あなたの妻になるということ
王宮を離れてから、三日が経った。
アルは自室の窓辺で、本を開いていた。
正確には。
開いているだけだった。
「…………」
一向に、頁が進まない。
同じ行を、もう何度読んだだろう。
原因は分かっている。
ふとした瞬間に。
別のことを思い出してしまうのだ。
『嫌だったら、嫌って言っていいんだからな』
あの声。
『無理なもんは無理。嫌なもんは嫌。それでいいだろ』
「…………」
アルは本から目を上げた。
窓の外では、風に木々が揺れている。
「どうして……」
どうして。
あの方の言葉ばかり思い出すのだろう。
婚約を破棄されたとき。
追いかけてきてくれたこと。
自分が倒れたとき。
目を覚ましたら、傍にいてくれたこと。
水を飲むだけなのに、やたらと心配されたこと。
そして。
『カイ・ヴァルグレンです』
「……ヴァルグレン」
思わず呟く。
あの日は驚きすぎて、まともに考える余裕がなかった。
けれど。
家へ戻ってから、何度考えても不思議だった。
あれほどの家の人間が。
どうしてあんなにも、自分の家柄に無頓着なのだろう。
『一応、ヴァルグレン家の人間だな』
「一応って……」
思い出しただけで、また言いたくなる。
そして。
気になることは、もう一つあった。
レイ。
レン。
ソラ。
ユウト。
あの四人だ。
ヴァルグレン家ほどの名門の人間を前にして。
彼らは、あまりにも遠慮がない。
『距離感おかしいだろ』
『カイ、顔赤いぞ』
『そこから!?』
「…………」
仮にも、北方を率いる将である。
普通なら。
たとえ親しい間柄であっても、もう少し何か――あるのではないだろうか。
けれど。
カイ自身も、それを気にしている様子がまるでなかった。
命令するというより。
彼らの言葉を聞き。
言い返し。
時には止められ。
そして四人も。
カイを敬っていないわけではない。
むしろ。
あの四人の中心には。
間違いなくカイがいた。
それなのに。
主と家臣という言葉では。
どうにも説明できない。
「……どういうご関係なのかしら」
ぽつりと呟く。
もっと知りたい。
なぜか。
そんなことを思った。
そのときだった。
「お嬢様」
扉の向こうから侍女の声がした。
「旦那様がお呼びです」
「お父様が?」
「はい。お話があるとのことです」
「分かりました。すぐに参ります」
◇ ◇ ◇
父の書斎へ入ると。
父と母が揃っていた。
「アル。座りなさい」
「はい」
何だろう。
二人の雰囲気が、いつもと少し違う。
アルがソファへ腰掛けると、父が一通の封書を手に取った。
厚手の上質な紙。
封蝋には。
見覚えのある紋章が刻まれている。
「アル」
「はい」
「お前に、正式な婚姻の申し入れが届いている」
「…………」
一瞬。
意味が分からなかった。
「……婚姻?」
「ああ」
「どなたから、ですか?」
父は。
なぜかほんの少しだけ嬉しそうに見えた。
「ヴァルグレン家からだ」
「…………え?」
アルの心臓が。
大きく跳ねた。
「ヴァルグレン……」
「カイ殿だ」
「…………」
あの日の光景が蘇る。
『俺と結婚しないか』
あれは。
婚約を破棄された直後だった。
あまりにも突然で。
あまりにも真っ直ぐで。
だから。
アルはどこかで思っていたのかもしれない。
自分を救うために言ってくれたのだと。
傷ついた自分を。
あの場から連れ出すために。
カイは、困っている者を放っておけない人なのだろう。
父のことも助けた。
自分のことも助けた。
ならば。
あの求婚も。
あの場で自分を救うための言葉だったのではないかと。
そう思っていた。
けれど。
「……本気、だったのですか?」
ぽつりと漏れた。
父の眉が上がる。
「アル。お前はカイ殿が冗談で求婚したと思っていたのか?」
「冗談というわけでは……ただ、あの場でしたから」
父は額を押さえた。
「……あれだけ大勢の前で求婚しておいて、冗談なものか」
「あなた」
母が静かに父を見る。
「嬉しそうですね」
「そんなことはない」
「顔に出ています」
「出ていない」
「出ています」
「…………」
父が黙った。
アルは二人を交互に見る。
「お父様は……カイ様との婚姻に賛成なのですか?」
「私は――」
「大賛成です」
母が答えた。
「あなた」
「……まだ何も言っていないだろう」
「言わなくても分かります」
「…………」
父は咳払いをした。
「カイ殿には、以前命を救われている」
「はい」
「だからといって、それだけで娘を嫁がせるつもりはない」
父はアルを真っ直ぐ見た。
「だが、あの男がどういう人間なのかは、多少知っている」
「……どういう方なのですか?」
アルが尋ねると。
父は少し考えた。
「真っ直ぐな男だ」
「…………」
妙に。
納得してしまった。
「驚くほどにな」
母がため息をつく。
「それは褒めていらっしゃるの?」
「もちろんだ」
「そう」
「……何だ、その顔は」
「別に」
父はまた咳払いをした。
「ともかくだ」
明らかに話を戻した。
「私の意見は関係ない」
「え?」
「決めるのは、お前だ。アル」
「私が……」
「ああ」
父は真っ直ぐアルを見る。
「もう、お前の結婚を王家の都合で決めさせるつもりはない」
アルは息を止めた。
「家のためでもない。国のためでもない」
父の声は静かだった。
「お前が決めなさい」
「…………」
「カイ殿と結婚したいのか」
「…………」
「したくないのか」
そんなふうに。
問われたことなど。
一度もなかった。
十二年前。
王太子との婚約が決まったとき。
幼かったアルは、それを当然のこととして受け入れた。
公爵令嬢として。
国のために。
王家のために。
正しい王太子妃になるために。
ずっと努力してきた。
結婚とは。
そういうものだと思っていた。
けれど。
今。
父は言った。
自分で決めていい、と。
「……すぐには」
アルは膝の上で指を組んだ。
「お答えできないと思います」
「ああ」
「それでも……よろしいのですか?」
「もちろんだ」
父は微笑んだ。
「カイ殿にも、急がせるつもりはないらしい」
「え?」
父は封書から、もう一枚の紙を取り出した。
「これは、お前宛てだ」
アルは両手で受け取った。
そこには。
驚くほど簡潔な文字が並んでいた。
『あの日の言葉を、勢いで言ったつもりはない。
俺は今でも、あなたを妻に迎えたいと思っている。
ただ、今すぐ答えを出してほしいわけじゃない。
今度は誰かに決められるんじゃなく、あなたが決めてくれ。
カイ・ヴァルグレン』
「…………」
アルは。
しばらく手紙から顔を上げられなかった。
――あなたが決めてくれ。
まただ。
この人は。
いつも。
アルが今まで持っていなかったものを。
まるで当たり前のように、差し出してくる。
◇ ◇ ◇
その夜。
アルは眠れなかった。
「…………」
右を向く。
「…………」
左を向く。
「…………」
もう一度、右を向く。
駄目だ。
全く眠れない。
原因は。
枕元の小さな卓上に置かれた手紙だった。
――あなたを妻に迎えたい。
「…………妻」
口にした瞬間。
妙に恥ずかしくなった。
妻。
カイ様の妻。
つまり。
カイ様と結婚する。
同じ家で暮らす。
朝になれば顔を合わせて。
一緒に食事をして。
そして。
夜になれば――。
「…………夜?」
アルの思考が止まった。
待って。
結婚。
夫婦。
夫婦になれば、当然。
いずれは子供を望まれる。
ましてヴァルグレン家ほどの名家なら。
跡継ぎだって必要になる。
そして。
子供を授かるためには。
「…………」
アルは固まった。
「…………え?」
頭の中に。
カイの顔が浮かんだ。
黒い髪。
真っ直ぐな瞳。
大きな手。
自分よりずっと広い肩。
そして。
あの日。
すぐ目の前にあった顔。
『熱はねえな』
「――――っ!!」
アルは勢いよく布団を頭まで被った。
顔が熱い。
耳まで熱い。
ということは。
結婚したら。
カイ様と。
そういう行為を。
「…………す……」
そこから先が言えない。
「何を考えているの、私は……!」
布団の中で小さく叫ぶ。
落ち着かなければ。
結婚すれば夫婦になる。
夫婦になれば、そういうこともある。
何もおかしくない。
アルは王太子妃教育を受けてきた。
当然、知識としては知っている。
そう。
知っているだけ。
これはカイだから特別というわけでは――。
「…………」
アルの動きが止まった。
「……待って待って」
では。
もし。
あの日。
婚約を破棄されなかったら。
予定通り王太子と結婚していたら。
自分は。
殿下と。
「…………」
想像してみる。
「…………」
もう一度。
「…………絶対に嫌」
即答だった。
「…………え?」
自分で言って。
自分で驚いた。
十二年間。
殿下と結婚するのだと思っていた。
王太子妃になり。
いずれ王妃となり。
世継ぎを産む。
それが自分の人生だと思っていた。
疑問に思ったことさえなかった。
けれど。
考えてみれば。
アルが十二年間見ていたのは。
婚約者である一人の男性ではなかったのかもしれない。
王太子殿下の婚約者なのだから。
立派な王太子妃にならなければ。
ずっと。
そればかりだった。
好きだから結婚する。
そんなことを。
一度でも考えたことがあっただろうか。
「…………」
王太子と。
一人の男性と一人の女性として。
夫婦になる自分を想像する。
「……やっぱり嫌だわ」
嫌だった。
驚くほど。
迷いなく。
では。
カイなら。
「…………」
浮かんでしまった。
すぐに。
『嫌だったら、嫌って言っていいんだからな』
「…………」
嫌なら。
嫌と言っていい。
そう言われた。
では。
自分は。
カイとの結婚が。
嫌なのだろうか。
「…………嫌、では……」
そこまで呟いて。
アルは止まった。
「…………」
数秒。
「――何を考えているの、私は!!」
再び布団を頭まで被った。
違う。
違う。
カイとそういうことをしたいと思っているわけではない。
絶対に違う。
ただ。
もし夫婦になったらと。
そう考えただけで。
「…………」
アルは。
そろそろと布団から目だけを出した。
「……嫌じゃ、ない……?」
自分で言って。
また顔が熱くなった。
どうして。
殿下なら。
あんなにも簡単に。
嫌だと思えたのに。
カイだと。
嫌ではないのだろう。
「…………」
心臓がうるさい。
アルは枕元の手紙へ目を向けた。
『あなたが決めてくれ』
「……カイ様」
小さく。
名前を呼んだ。
会いたい。
ふと。
そう思った。
「…………え?」
今度は。
別の意味で眠れなくなった。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。
アルは。
昨夜の自分を心の底から恨むことになった。
「アル」
「――っ!!」
公爵家の応接室。
聞き慣れ始めた声に。
肩が跳ねた。
「……?」
カイが不思議そうにアルを見る。
その後ろには。
レイ。
レン。
ソラ。
ユウト。
四人も一緒だった。
昨日。
会いたいと思った。
確かに思った。
だから。
カイが訪ねてきたと聞いたとき。
ほんの少し――いや、かなり。
嬉しかった。
それなのに。
実際に顔を見た瞬間。
『子供を授かるためには――』
「――っ!」
駄目だった。
「ご、ごきげんよう、カイ様」
「おう」
「…………」
「…………」
カイが眉を寄せる。
「なんでそんな遠いんだ?」
「遠くありません!」
「いや、遠いだろ」
「適切な距離です!」
「この前までそんな距離じゃなかっただろ」
「この前とは状況が違います!」
「何が?」
「それは……!」
言えるわけがない。
あなたとの子供を授かる場合について考えてしまいました、などと。
絶対に。
死んでも。
言えるわけがない。
「…………」
カイが一歩近づいた。
アルが一歩下がる。
カイが止まる。
「……アル?」
「はい!」
「俺、なんかした?」
「しておりません!」
「じゃあなんで逃げるんだよ」
「逃げておりません!」
さらに一歩下がった。
「逃げてるだろ」
「逃げておりません!」
レンが怪訝そうに二人を見ている。
ソラも首を傾げている。
一方。
レイは。
アルの真っ赤な顔を見た。
次にカイを見る。
そして。
テーブルの上に置かれた、ヴァルグレン家の封蝋が押された書状へ目をやった。
「…………」
数秒。
レイは何も言わなかった。
隣でユウトも同じ順番に視線を動かす。
アル。
カイ。
婚姻の申し入れ。
アル。
「…………あ」
ユウトが小さく呟いた。
レイと目が合う。
「…………」
「…………」
「言わないであげてください」
「俺まだ何も言ってねえよ」
「顔が言っています」
「お前もな」
「何の話だ?」
カイが振り返る。
「何でもありません」
「何でもねえ」
二人の声が揃った。
「?」
カイだけが分かっていない。
そして。
カイは再びアルを見た。
「ていうか」
「……はい」
「顔赤くないか?」
「!!」
カイが近づく。
「熱――」
いつものように。
額を近づけようとした。
「だ、大丈夫です!!」
アルがものすごい勢いで後退した。
「…………」
「…………」
「…………」
部屋が静まり返った。
カイの手が。
行き場をなくして宙に浮いている。
「……俺」
カイがゆっくりレイを見る。
「やっぱなんかした?」
「していません」
「じゃあ何なんだよ」
「それは私からは申し上げられません」
「なんでだよ」
ユウトが。
耐えきれなくなったように横を向いた。
肩が震えている。
「おい、ユウト」
「いや……」
「何だよ」
「何でもねえって」
「笑ってんだろ」
「笑ってねえよ」
「こっち向け」
「無理」
「なんでだよ!」
アルは。
恥ずかしさで消えてしまいたかった。
そんな中。
ユウトがぼそりと呟いた。
「まあ、まだ何もしてねえしな」
「ユウト!」
レイが即座にユウトの脇腹へ肘を入れた。
「いって!」
「……まだ?」
カイが反応した。
「まだって何だ?」
「何でもありません」
「だから何なんだよ!」
「何でもありません」
「絶対なんかあるだろ!」
「ありません」
「レイ、お前そういう顔してる時、絶対なんか知ってるだろ!」
レイはにこりと笑った。
「気のせいです」
「嘘つけ!」
騒がしくなる応接室の中で。
アルは一人。
真っ赤になったまま俯いていた。
けれど。
ほんの少しだけ。
笑っていた。
昨日。
父は言った。
――お前が決めなさい。
まだ。
答えは分からない。
この胸の奥に生まれたものが。
何なのかも。
けれど。
カイ・ヴァルグレンという人を。
もっと知りたい。
彼がどんな場所で育ったのか。
なぜあれほど真っ直ぐなのか。
そして。
なぜあの四人が。
あれほど自然に。
彼の隣にいるのか。
知りたいことが。
少しずつ増えていく。
そして何より。
昨日。
会いたいと思った。
今日。
会えて嬉しかった。
その二つだけは。
もう。
気づかなかったことには、できそうになかった。




