地獄の冬季訓練2
その頃、ヴァルグレン邸では――
敷地内の一角で、別の準備が急ピッチで進められていた。
大勢の職人や使用人たちが資材を運び込み、屋敷の一角を慌ただしく行き交っている。
木材。
石材。
大きな桶。
薪。
何に使うのか分からない道具まで次々と運ばれていく。
アルはカイ、レイと共に、少し離れた場所からその様子を眺めていた。
「カイ様、これは……?」
「さっき言ってた、訓練後のちょっとしたご褒美だな」
アルは目の前を見る。
十人以上が作業している。
「これが……ちょっとした?」
「ああ」
「カイ様の『ちょっと』は信用しない方がいいかもしれませんね」
レイがさらりと言った。
「お前、最近アル側につきすぎじゃねぇ?」
「合理的な方についているだけです」
「それ俺が非合理的みたいじゃねぇか」
「自覚がおありで?」
「ねぇよ」
「そうですか」
レイが眼鏡を直した。
それだけなのに、なぜかカイが負けたように見える。
アルは笑いを堪えながら、もう一度作業場を見た。
「これを作るのに、だいたい三日ほどかかります」
レイが説明する。
「だから訓練開始も三日後なのですね」
「それだけではありませんが、理由の一つではあります。各隊の調整も必要ですから」
昨夜から魔獣討伐と、その後の対応にあたっていた騎士たちには、順番に臨時休暇が与えられていた。
ユウト、レン、ソラは明日の夜まで休み。
レイは引き継ぎを終え次第、交代で休みに入る予定だった。
「レイ様も、きちんと休んでくださいね」
「もちろんです」
「カイ様もです」
「分かってる」
「本当に?」
「……分かってるって」
アルがじっと見る。
カイもアルを見る。
数秒。
「……休む」
「はい」
レイが横で小さく頷いた。
「アルヴェイン様がいらっしゃると助かりますね」
「おい」
「私たちが十回言っても聞かないのに、一回で聞きました」
「言い方!」
「事実です」
「兄さんみたいなこと言いやがって……」
カイがぼそりと呟いた。
アルはその言葉に一瞬だけ目を向けたが、カイはもう作業場を見ていた。
「ただ、悪いんだが」
カイが作業中の場所を指差す。
「アルは中には入れない」
「どうしてですか?」
「完成したら分かる」
「また内緒なのですか?」
「ああ」
「今日、内緒ばかりではありませんか?」
「三日待てって」
「ご褒美なのに、私は見てはいけないのですか?」
「今はな」
「少しだけでも?」
「駄目」
「入口だけ」
「駄目」
「一歩だけ」
「駄目」
「半歩」
「単位の問題じゃねぇ」
アルは少し不満そうに口をつぐんだ。
カイが笑う。
「そんな顔すんなよ」
「どんな顔ですか?」
「ものすごく入りたそうな顔」
「入りたいです」
「正直だな」
「カイ様に言われたくありません」
「……アル、最近ちょっと強くなってない?」
「誰の影響でしょうね」
レイが言う。
カイはしばらく黙った。
「俺か?」
「今気づいたんですか?」
「二人して攻撃してくるのやめねぇ?」
アルはつい笑ってしまった。
一体、目の前で急ピッチで造られているものは何なのか。
その答えが分かるのは――三日後。
◇ ◇ ◇
その日の夜、ヴァルグレン邸のレイの執務室。
「…………」
レイは机の前で固まっていた。
その目の前には、参加希望者の名簿が山のように積み上がっている。
「……多い」
思わず声が漏れた。
年々参加者が増えていることは知っていた。
五騎士と共に訓練できる貴重な機会。
普段は別々の部隊に所属している騎士たちとの交流。
訓練後には、例の楽しみもある。
人気が出る理由は分かる。
だが。
「多すぎる……」
もう一度言った。
名簿を一枚取る。
次の紙。
その次。
まだある。
「……」
レイは眼鏡を外し、眉間を押さえた。
「去年参加して二度と出ないと言っていた方までいますね」
さらに一枚めくる。
「……今年入隊したばかりの新人まで」
レイは静かに名簿を机へ戻した。
数秒考える。
「カイに投げましょう」
判断は早かった。
「いえ、相談しましょう」
一応言い直す。
そして大量の名簿を抱えた。
その頃。
レイが参加希望者の名簿と格闘している間、カイは屋敷の奥にある一室を訪れていた。
普段は滅多に入らない部屋だった。
扉を開ける。
先ほどまでの賑やかな空気が、嘘のように遠ざかる。
長い間大切に守られてきた場所。
壁には三人の肖像画が並んでいた。
男性が二人。
女性が一人。
カイはその前まで歩き、静かに立ち止まった。
「父上、母上」
少しだけ間を置く。
「俺、好きな人ができました」
もちろん、返事はない。
それでもカイは続ける。
「相手も、俺のことを好きだって言ってくれました」
口にすると、昼間のことが蘇る。
自分に駆け寄ってきたアル。
胸に飛び込んできた身体。
そして、震えながらも真っ直ぐ伝えてくれた言葉。
カイは少しだけ笑った。
「来年結婚します」
その言葉を、自分の口から両親へ報告する日が来るとは思っていなかった。
「その前に…ちゃんと紹介します」
アルならこの部屋へ入る時にも、丁寧に頭を下げるのだろう。
緊張して、何を話せばいいのか分からなくなって。
それでも最後には、あの真っ直ぐな目で笑う。
簡単に想像できた。
カイは隣にあるもう一枚の肖像画へ視線を移す。
若い男が笑っている。
「兄さん」
声が少しだけ低くなった。
「今、どこにいるんだよ」
返事はない。
カイはしばらく、その顔を見つめる。
「俺、結婚するぞ」
やはり、返事はない。
「兄さんにも、アルを会わせたいのに」
肖像画の中の兄は、昔と何も変わらない。
カイの記憶に残る、あの頃の姿のまま。
「未来の王太子妃になるために、十二年も頑張ってきたんだってさ」
静かな部屋に、カイの声だけが響く。
「なのに、突然婚約破棄されて」
あの日のアルを思い出す。
大勢の前で婚約を破棄されても、泣かなかった。
俯きもしなかった。
「でも泣かないんだぜ」
カイは小さく笑う。
「誰も追いかけねぇのな」
今思い出しても、腹が立つ。
あれだけ人がいたのに。
城を出ていくアルを、本気で追いかける者は誰もいなかった。
「城を出るまで、ずっと前向いて歩いてた」
だから目で追った。
気づけば身体まで動いていた。
「なんか気になってさ」
カイは顔を上げる。
「気づいたら後を追ってた」
そして。
「しかも求婚したんだぜ、俺」
自分でもおかしくなって、小さく笑う。
「『お嬢さん、俺の嫁にならないか?』って」
一度もまともに話したこともない相手に。
今思い返しても、かなりおかしい。
「兄さんいたら、絶対笑うだろ」
少しだけ眉を下げた。
「俺もそう思う」
笑っていたはずだった。
けれど。
ふいに視界が滲んだ。
一筋の涙が頬を伝う。
「……もっと色々、話したいのに」
声が少し掠れた。
「何でいなくなったんだよ、兄さん……」
昔なら、きっと散々からかわれただろう。
『お前が結婚?』
『どんな女だよ』
『俺にも会わせろ』
笑いながら、肩を叩いてきたに違いない。
カイはしばらく、肖像画の中の兄を見つめていた。
当然、その笑顔が動くことはない。
やがて手の甲で涙を拭い、小さく息を吐く。
「……また来る」
誰に言うでもなく呟く。
そして、もう一度だけ三人の肖像画を見上げると――
カイは静かに部屋をあとにした。




