地獄の冬季訓練1
地獄の冬季訓練
ーー「地獄の冬季訓練」とは、カイたち五騎士をはじめ、バハード王国に属する騎士たちが毎年行う恒例の訓練である。
極寒の中、服を着たまま全身を濡らし、重くなった衣服のまま剣を振るう。
泥に足を取られる状況や、雨、雪、強風など、悪天候下での戦闘も想定する。
当然、楽な訓練ではない。
その過酷さゆえ、いつしか騎士たちの間では――
『地獄の冬季訓練』
と呼ばれるようになっていたーー
「とうとうアレが始まるのかぁ〜」
ユウトが心底嫌そうな顔で呟いた。
「ちょっと早くない?」
レンがレイを見る。
「例年よりは早いですね」
レイが答えると、ソラが椅子の背に身体を預けたまま口を開いた。
「……まあ、それでアルが安心するならいいんじゃねーの?」
アルは目を瞬いた。
――やっぱり、ソラ様は優しいわ。
口調だけ聞けば少しぶっきらぼうなのに、何だかんだで人のことをよく見ている。
「何?」
視線に気づいたソラが眉を寄せる。
アルは微笑んで答える。
「いえ。ソラ様はお優しいなと思いまして」
「……やめて」
「どうしてですか?」
「調子狂う」
ソラが露骨に顔を逸らした。
レンが笑う。
「ソラ、照れてる?」
「黙れ」
「ほら、やっぱり照れてる」
「レン。あとで覚えとけよ」
「怖い怖い」
そう言いながら、レンはまったく怖がっていなかった。
その様子を見ていたアルは、小さく笑う。
そこでふと、別のことに気づいた。
五人が魔獣討伐から帰ってきたのは、今日の昼だった。
昨夜からほとんど休むことなく森を駆け、魔獣と戦っていたはずだ。
帰還した時のカイの服にも、泥や血がついていた。
それに――
アルは思い出し、少しだけ頬を赤くする。
帰ってきたカイの姿を見た瞬間、考えるより先に駆け寄った。
そして、そのまま抱きついた。
好きだと伝えた。
あの時は夢中で、何も考えていなかったけれど。
かなり近かった。
というより、思いきり抱きついていた。
なのに。
――カイ様、全然汗臭くなかったわ。
アルはちらりとカイを見る。
帰還してからも報告や今後の対応に追われている。
少なくとも、まだお風呂に入る時間などなかったはずだ。
それなのに。
今も、まるで汗臭くない。
カイだけではなかった。
レイも、レンも、ソラも、ユウトも。
つい数時間前まで泥と血にまみれて魔獣と戦っていたとは思えない。
――どうしてかしら。
アルは五人を順番に見た。
「……アル?」
カイが怪訝そうな顔をする。
「さっきから何見てんだ?」
「えっ」
「俺の顔になんかついてる?」
「いいえ!」
「じゃあ何だ?」
「何でもありません!」
「絶対なんかあるだろ」
アルは勢いよく首を振った。
「本当に何でもありません!」
「……怪しい」
カイが少し身を寄せる。
アルは反射的に一歩下がった。
「近いです!」
「さっき抱きついてきた奴が何言ってんだ」
「――っ!!」
アルの顔が一気に赤くなる。
「兄貴」
ユウトがニヤニヤしながら口を挟んだ。
「そこ拾う?」
「事実だろ」
「事実だけど、本人の前で言う?」
「何が駄目なんだよ」
「カイ」
レンが真顔で言った。
「そういうところだよ」
「何が!?」
ソラがぼそりと呟く。
「鈍感」
「お前まで何なんだよ」
「事実」
「レイ!」
「私に振らないでください」
レイは眼鏡を直す。
「今回は皆さんに同意します」
「何で全員そっちなんだよ!」
カイが納得いかない顔で五人を見回す。
アルは恥ずかしさのあまり、完全に先ほどの疑問どころではなくなっていた。
――やっぱり聞かなくてよかったわ。
何となく、そう思った。
「で」
カイが咳払いをする。
「話戻すぞ」
「逃げた」
レンが呟く。
「逃げてねぇ!」
「兄貴、顔赤いよ」
「ユウト、お前今日から訓練倍な」
「横暴!」
さっきまで黙っていたレイが、やれやれというように息を吐いた。
「そろそろ本題に戻ってもよろしいですか?」
「ああ」
カイは何事もなかったような顔に戻った。
耳だけは少し赤かった。
「よし。三日後から始めるぞ」
「三日!?」
ユウトが目を見開く。
「早いなぁ〜」
「さっきまでやる気なかったじゃん」
レンが言う。
「いや、やる気はあるよ? ただ身体が『休ませろ』って言ってる」
「身体のせいにすんな」
ソラが淡々と返す。
「でもまあ、頑張るかぁ」
「きついけど、あのご褒美がたまんないんだよね」
レンも、さっきまでとは違って妙に楽しそうだ。
アルは二人を見比べた。
「……ご褒美?」
ユウトとレンが同時に口を閉じた。
「今、何かおっしゃいました?」
「何も」
「言っていません」
「お二人とも今、『ご褒美』と」
「空耳じゃない?」
「俺も聞いた」
ソラが即座に裏切った。
「ソラ!」
「知らねぇよ」
レンが恨めしそうに見る。
「仲間じゃないの?」
「いつから?」
「冷たい!」
カイはそんな三人を放っておき、レイを見る。
「レイ、各隊に伝えろ。希望者も募っておいてくれ。毎年、参加したがる奴がいるだろ」
「承知しました。すぐに手配します」
レイは眼鏡を直し、その場で立ち上がる。
「では私は先に失礼します」
「休めよ?」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
「……はい」
カイが素直に返事をした。
アルは思わずカイを見る。
「カイ様でもレイ様には素直なのですね」
「違う。あいつは言い返すと倍になって返ってくる」
「聞こえていますよ」
扉の前でレイが振り返った。
「ほらな」
カイが小声で言う。
「聞こえるように言うからだろ」
ソラの一言に、また笑いが起きた。
レイが部屋を出ていく。
アルはその背中を見送ってから、改めてカイを見る。
「あの……」
「ん?」
「地獄とは、何が地獄なのですか?」
ぴたり、と空気が止まった。
ユウトとレンが顔を見合わせる。
ソラはわずかに口角を上げた。
アルはますます気になった。
「カイ様?」
するとカイは、少し考えるような顔をしたあと、人差し指を口元に当てた。
「内緒」
「……内緒?」
「ああ」
「どうしてですか?」
「三日後のお楽しみ」
「私は参加しませんよね?」
「しない」
「では教えてくださってもいいではありませんか」
「駄目」
「どうしてです?」
「その方が面白いから」
「カイ様がですか?」
「俺が」
即答だった。
「ひどいです!」
アルが思わず抗議すると、ユウトが吹き出した。
「兄貴、正直すぎるって!」
「別にいいだろ」
「アルさんを完全に見世物にしてるじゃん」
「してねぇよ」
「してる」
ソラが言う。
「してますね」
いつの間にか扉のところまで戻ってきていたレイまで口を挟んだ。
「レイ様!?」
「書類を忘れました」
机の上から紙を取りながら、レイは涼しい顔をしている。
「カイ。ほどほどにしてくださいね」
「……何で俺が怒られてんだ?」
「日頃の行いです」
そう言い残し、今度こそレイは出ていった。
カイがしばらく扉を見つめる。
「……俺、そんなに悪いか?」
「今気づいたの?」
レンが聞く。
「気づいてねぇから聞いてんだよ」
「重症だな」
ユウトが呟いた。
「聞こえてるぞ」
アルは思わず笑ってしまった。
地獄の訓練。
そんな物騒な名前なのに。
誰一人、本気で嫌がっているようには見えない。
むしろ、どこか楽しみにしている。
そのことが不思議であり、同時に少し安心した。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
王宮騎士団、王都警備隊、山岳警備隊、そして予備役の騎士たちへ、一斉に知らせが届けられた。
『三日後より、地獄の冬季訓練を開始する。
参加希望者は各隊の隊長を通じ、明日正午までに申請すること――』
知らせを受け取った騎士たちの間に、たちまちざわめきが広がった。
「おお! ついに今年も始まるのか!」
「あれ、キッツいんだよなぁ」
「でも訓練後のご褒美が最高なんだよ!」
「分かる。あれのためなら耐えられる」
「俺、去年途中で足つったけどな」
「今年も出るだろ?」
「出る」
「出るんかい」
過酷な訓練だと知っているはずなのに、経験者たちはどこか嬉しそうだった。
その盛り上がりから少し離れた場所では、新人騎士たちが明らかに怯えていた。
「なあ……地獄って何やるんだ?」
「知らねぇよ」
「去年参加した先輩が、笑いながら『死ぬぞ』って言ってたんだけど……」
「それ大丈夫なやつなのか?」
「しかもその先輩、今年も出るって」
「じゃあ死なねぇじゃねぇか!」
「いや、心が死ぬのかもしれない」
「怖いこと言うなよ!」
新人たちがひそひそと話していると、一人の先輩騎士が通りかかった。
「お前らも出るのか?」
「まだ迷ってます!」
「出た方がいいぞ」
「何するんですか?」
「言ったら怒られる」
「誰にですか?」
「五騎士全員」
「絶対聞かない方がいいやつじゃないですか!」
「大丈夫だって」
先輩騎士は爽やかに笑った。
「終わった後は最高だから」
「その前が知りたいんですよ!」
「はははー」
「笑って誤魔化さないでください!」
少し離れたところから別の騎士が声を飛ばす。
「おーい、新人! 参加するなら着替え多めに持ってこいよ!」
「何でですか!?」
「あと身体冷やすなよ!」
「だから何をするんですか!?」
「若いっていいなぁ」
「話聞いてます!?」
経験者たちは楽しそうに笑うばかりだった。
新人騎士たちの不安だけが、順調に膨らんでいった。




