お帰りなさい、そして…
完璧な“未来の王太子妃”だったアルの素顔が、少しずつ見えてきます。
結局、カイたちが戻ってきたのは、夜が明けて昼近くになってからだった。
もっとも、冬を目前にしたバハードでは、厚い雲に遮られて陽の光はほとんど届かない。
朝も昼も、空は変わらず灰色だった。
昨夜、カイたちが出発したあともしばらく眠れなかったアルだったが、セレディア王国への旅の疲れも残っていたのだろう。
いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
「おはようございます、お嬢様」
ノックのあと、セシルが部屋へ入ってくる。
アルは布団の中でもぞもぞと動き、ゆっくりと体を起こした。
「ううん……」
まだ眠気の残る目を擦る。
そこで突然、昨夜のことを思い出した。
「あっ! カイ様たちは!?」
一瞬で眠気が吹き飛んだ。
長年染みついていた早起きの習慣も、王太子妃になるという重圧から解放されてからというもの、驚くほどあっさり崩れてしまったらしい。
そんなことを考えている余裕もなく、アルは寝台から飛び降りた。
「お嬢様!? まだお支度が――」
「あとでいいわ!」
身支度もそこそこに、アルは部屋を飛び出す。
走ってはいけない。
分かっている。
分かっているのだが、どうしても足が速くなってしまう。
「お嬢様! せめて髪だけでも!」
セシルが櫛を手にしたまま、小走りで追いかけてくる。
玄関広間が見えてきた。
そこには、すでに二人の騎士が待機していた。
「レン様! ソラ様!」
「アルさん!?」
レンが驚いて振り返る。
「そんなに急がなくても――」
「転ぶぞ」
ソラが呆れたように言う。
「でも、カイ様が――きゃっ!」
言われたそばから足を取られた。
前につんのめったアルの体を、ソラが片腕で受け止める。
「ッあぶねぇ!」
倒れる寸前だったアルの体が、ぴたりと止まった。
「も、申し訳ありません……」
「……ったく。気をつけろよな」
アルを立たせると、ソラはぷいっと横を向いた。
相変わらず、言い方はぶっきらぼうだ。
ーー私がちゃんと立つまで支えてくれていた。
――この人は、本当は優しいのだわ。
これまでは、口の悪いソラを少し怖いと思うこともあった。
けれど、きっと違う。ソラは朝、誰よりも早く起きて訓練をする努力家だ。
言葉は少し乱暴でも、誰かが困っていれば手を差し伸べる。そんな人。
アルがそんなことを考えていた、その時だった。
「カイ様、レイ様、ユウト様がお戻りです!」
使用人の声が響いた。
大扉が開く。
「今戻ったぞ」
聞き慣れた声。
カイ。
その後ろにはレイとユウト。
三人とも疲れた様子ではあるものの、自分の足で歩いている。
怪我らしい怪我も見えない。
無事だった。
それを理解した瞬間。
「……っ」
アルの目に、一気に涙が溢れた。
笑顔で迎えようと思っていた。
帰ってきたら笑って、「お帰りなさい」と言おうと思っていた。
なのに。
体は勝手に動いていた。
「カイ様!」
「アル?」
そのまま駆け寄り――
ガバッ。
「うおっ!? アル!?」
カイの胸に飛び込んだ。
「よかった……よかったぁ……」
涙が止まらない。
自分でも驚くほど、次から次へと溢れてくる。
婚約を破棄された夜ですら、泣かなかったのに。
いつから、こんなに泣き虫になってしまったのだろう。
でも。
あの頃とは違う。
大切な人ができた。
一緒にいたいと思える人たちができた。
そして――
大好きな人が、できた。
――……え?
アルの思考が止まった。
――大好き?
カイの胸に顔を埋めたまま、アルは目を見開いた。
大切だから心配だった。
無事でいてほしかった。
帰ってきてほしかった。
そう思っていた。
けれど、それだけではなかった。
カイが帰ってきた姿を見た瞬間、胸の奥から込み上げてきた、このどうしようもないほどの安堵も。
抱きしめられると安心することも。
一緒にいると嬉しいことも。
全部。
――私、カイ様のことが好きなんだ。
とうとう気づいてしまった。
いや。
本当は、ずっと前からそうだったのかもしれない。
――どうしよう。
急に恥ずかしくなって、顔を上げられない。
「アル? どうした?」
カイの声が頭上から降ってくる。
「大丈夫だ。俺も、レイも、ユウトも、隊のみんなも無事だ」
「……はい」
その言葉を聞いて、ようやく少しだけ安心する。
アルはゆっくりと顔を上げた。
カイがいる。
ちゃんと、自分の目の前にいる。
そう思うだけで、また泣きそうになる。
けれど今度は、それだけではなかった。
自分の気持ちを知ってしまった。
もう、知らなかった頃には戻れない。
アルは俯き、ぎゅっと目を閉じる。
――カイ様に伝えたい。
昨日、彼は戦いへ向かった。
いつ戻ってくるのか。
無事に帰ってくるのか。
自分には何も分からなかった。
戦うことを生業とする人を好きになるということは。
もしかしたら。
言いたいことを言えなくなる日が、突然訪れるかもしれないということなのだ。
だったら。
言える時に、言いたい。
後悔したくない。
アルはもう一度、カイを見上げた。
「カイ様」
「ん?」
涙を拭う。
そして、できるだけ笑った。
「お帰りなさい」
カイが目を見開いた。
ほんの一瞬。
それから、ふっと表情を緩める。
「……おう」
その顔を見たら。
やっぱり、言いたくなった。
「それと……」
「ん?」
アルは小さく息を吸った。
「私、あなたのことが大好きです。カイ様」
「…………」
玄関広間が静まり返った。
「「「「!?」」」」
レイ。
ユウト。
レン。
ソラ。
そしてセシルまで。
全員が目を丸くしている。
誰も、何も言わない。
「…………?」
アルはだんだん不安になってきた。
――あれ?
なぜ誰も話さないのだろう。
――何か、おかしなことを言ったかしら?
そう思った、その時。
「えっ?」
ふわり、と体が浮いた。
「きゃっ」
気づけばカイに抱き上げられていた。
「ようやく言ってくれたな! アル!!」
満面の笑み。
心の底から嬉しそうなその顔に、アルの胸が大きく跳ねる。
「カイ様……!」
「俺も大好きだぞ!」
そのまま、ぎゅっと抱きしめられた。
アルも迷わず、カイの首へ腕を回す。
「……はい」
嬉しい。
ただ、それだけだった。
「「「!?!?!?」」」
その様子を見ていた四人の騎士たちは、別の意味で固まっている。
最初に我に返ったのはレイだった。
「なるほど。これは、両思いですね」
「冷静に分析しないで、レイ」
レンがすかさず突っ込む。
「いやぁ、兄貴。よかったなぁ」
ユウトは両手を頭の後ろで組み、ニヤニヤしながら二人を眺めている。
「俺は何を見せられてるんだ……」
ソラは呆れたように呟く。
そう言いながらも、その口元はわずかに笑っていた。
セシルもまた、胸元で両手を組み、嬉しそうに主人を見つめている。
長い夜が終わったのだった。
しばらくして。
四人は顔を見合わせた。
そして誰からともなく、二人を残して食堂へ向かった。
セシルもまた、主人の邪魔をするまいと静かにその場を離れる。
玄関広間に残ったのは、アルとカイだけだった。
◇◇◇
「あら?みなさんいつの間にかいなくなってますね…」
「……」
ようやく我に返った二人は辺りがやけに静かなことに気づき、急に恥ずかしくなり、無言になってしまった。
先に口を開いたのはカイだった。
「お腹は?空いてるか?」
「あ、はい」
そういえば昨日の夜から何も食べていなかった。
カイもまともな食事は取っていないらしい。
「じゃあ食堂に行こう」
そう言って手を伸ばすカイ。
アルはその手をとる。少しぎこちなく。でも繋がれた手はしっかりと力強く握られていた。
◇◇◇
「アルさん、3日だったね。気づくまで」
食堂で合流したレンが言う。
「確かに。あれ確か3日前だったよな」
ユウトが肉を頬張りながら言う。
運ばれてきた食事を食べようとしていたアルは顔を両手で隠している。
「みなさん、勘弁してください…」
「カイもさ、ようやくって言ったけど…」
「あれは酔ってたからな。まぁ嬉しかったけど」
「……」
「みなさん、それくらいにしてあげてください」
みかねたレイが助け舟を出す。
「何か心境の変化があったのですか?」
心境の変化…アルは昨日、カイたちの背中を見送った時の不安な気持ちを思い出した。
「怖かったんです…カイ様がもしもう戻らなかったら、と。もちろんみなさんだってそうです。」
アルはもう、カイたちがいない生活が考えられなくなっていた。
「……」
「もちろん、みなさんが強いのは知っています。でも改めて、危険な仕事をされているのだと実感しました…」
「ふむ。」
アルの発言を受けて、レイは手を口元に当てて考える。
「でしたら、アルヴェイン様にも見てもらいましょうか。『地獄の冬季特訓』を」
その言葉を聞いた瞬間、レン、ソラ、ユウトの体が強張った。




