変わらない空、変わり始めたもの
「……そういえばさ」
不意にレンが口を開いた。
向かいの席に座るレンは、アルの方を向いてにこりと笑っている。
「アルさん、昨日のことって、どこまで覚えてる?」
「…………え?」
隣で、カイの眉がぴくりと動いた。
アルの胸に、朝から感じていた嫌な予感が再び蘇る。
「レン」
「ん?」
「私、昨日……何かしたの?」
「何かっていうか……」
レンがカイを見る。
「なあ?」
「俺を見るな」
カイは即答した。
おかしい。
明らかにおかしい。
アルは昨夜の記憶を辿った。
王宮での夜会。
カイと踊った。
そのあと、酒を飲んだ。
そこまでは覚えている。
問題は――その先だ。
「……途中から、あまり覚えていないの」
「ああ、やっぱり」
「やっぱり?」
レンの言葉に、アルの不安が一気に膨らむ。
「私、何をしたの?」
「別に大したことじゃないよ」
「その言い方は絶対に大したことがある時の言い方でしょう!」
「じゃあ、一個だけ」
レンが人差し指を立てた。
「カイに『大好きです』って言ってた」
「……」
馬車の中が静まり返った。
アルは瞬きをした。
セシルも驚いて言葉を失っている。
一度。
二度。
そして、ゆっくりと隣を見る。
カイは窓の外を見ていた。
耳が赤い。
「…………私が?」
「うん」
「カイ様に?」
「うん」
「……大好き、と?」
「かなりはっきり」
「レン」
カイの低い声が飛んだ。
「それ以上言うな」
「まだ何も言ってないだろ」
「だから言うなっつってんだよ」
「まだあるのですか!?」
思わずアルが声を上げる。
レンが笑った。
「まあ……あるにはある」
「レン!」
「はいはい」
カイに睨まれ、レンは両手を上げた。
「この辺にしとくよ」
「待ってください!気になりますわ!」
「知らない方が幸せなこともあるって」
「何をしたの、私!?」
「アル」
隣から呼ばれた。
振り向くと、カイがこちらを見ている。
「気にすんな」
「その言葉が一番気になるのです!」
「別に嫌なことされたわけじゃねえし」
「そういう問題ではありません!」
アルは両手で顔を覆った。
熱い。
間違いなく、顔が真っ赤になっている。
向かいではレンが肩を震わせている。
どこを見ればいいのかわからない。
ーーお酒を飲むのは控えよう。
そう決心したアルだった。
それから数時間。
馬車は山間の道を進み、やがてバハード王国へ入った。
夕方が近づくにつれ、空気が徐々に冷たくなっていく。
窓から見える木々も、セレディアとはどこか違う。
そして何より、空だった。
山を越えた頃から雲が厚みを増し、空一面を覆っている。
つい先ほどまで差し込んでいた陽の光も、今ではほとんど見えない。
アルは窓の隙間から入り込んだ空気に触れ、わずかに肩をすくめた。
「……寒くなってきましたね」
「ああ。夜はもっと冷えるぞ」
カイが答える。
アルは再び窓の外を眺めた。
ほんの少し前までいたセレディアとは、空の色も、空気も違う。
「セレディアとバハードでは、こんなにも違うのですね。山を挟んでいるだけなのに……」
もちろん、知らなかったわけではない。
王太子妃となるための教育では、地理についても学んできた。
バハードの気候も、地形も、主要な産業も。
書物の上では知っている。
それでも、知識として知ることと、実際に自分の肌で感じることは違った。
「昔からこうだったわけじゃないらしいぞ」
カイが言った。
「ええ。王宮でもそのように教わりました」
「今から二百年くらい前だったか。突然、気候が変わったって」
「はい。それ以前のバハードは、今よりずっと温暖だったと」
アルも覚えている。
古い記録には、現在のバハードからは想像しにくい風景が記されていた。
今よりも陽の差す日が多く、冬も短かったという。
それが、およそ二百年前を境に変わった。
突然山々の形が変わり、それまでとは異なる風が流れるようになったそうだ。
湿った空気が山にぶつかり、バハードの空には厚い雲が広がるようになった。
人々は神々の怒りだと考え、恐れたという。
以来、この国では曇天の日が増え、冬も長くなった。
「俺には想像つかねえけどな」
カイはそう言って笑った。
アルはもう一度、窓の外を見た。
厚い雲に覆われた空。
冷たい風。
今ではそれが、バハードという国の日常だった。
さらに馬車は進む。
見覚えのある景色が少しずつ増えていった。
「あ……」
アルが小さく声を上げる。
遠くに、バハードの王都が見えてきた。
石造りの建物。
その向こうには山々が連なり、厚い雲が低く垂れ込めている。
初めてここへ来た時とは、不思議なほど気持ちが違った。
あの時は、何も分からなかった。
婚約を破棄され、その日のうちにセレディアを離れた。
知らない国。
知らない土地。
知っているのは、突然自分に結婚を申し込んできた男と、その仲間たちだけ。
それなのに今は。
「……帰ってきた」
自然と、そんな言葉が口からこぼれた。
カイがアルを見る。
「ん?」
アルは小さく笑った。
「バハードに帰ってきたのだな、と思って」
一瞬。
カイが目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「おかえり、アル」
「…………」
アルは少しだけ目を見開いた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「はい」
そして笑った。
「ただいま、カイ様」
向かいでレンがにやりとした。
「いいねえ」
「レン」
「何も言ってないだろ」
「顔がうるせえ」
「無茶言うなよ」
アルは思わず笑った。
セシルも口元を緩めている。
やがて馬車は王都へ入り、そのままヴァルグレン邸へ向かった。
屋敷へ到着した頃には、すっかり夜になっていた。
馬車が止まり、扉が開く。
先に降りたカイが、いつものようにアルへ手を差し出した。
アルはその手を取る。
地面へ降り立った瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
「寒っ」
「だから言っただろ」
「セレディアを出た時は、こんなに寒くありませんでしたもの」
「もうバハードだからな」
続いてレンとセシルも降りる。
後ろの馬車からは、レイ、ソラ、ユウトが姿を現した。
「やっと着いたー」
ユウトが大きく伸びをする。
「兄貴、俺もう腹減った」
「お前、途中で食ってただろ」
「あれは間食」
「十分食べていましたよ」
レイが眼鏡を押し上げる。
「お前、見てたの?」
「同じ馬車ですから」
「馬車の中、ずっと食べ物の匂いしてた」
ソラが冷たく言う。
「そんな嫌そうに言うなよ」
いつものやり取りに、アルが笑う。
帰ってきた。
改めてそう思った。
――その時だった。
「カイ様」
屋敷から、一人の使用人が足早に出てきた。
その表情を見て、カイの顔から笑みが消える。
「どうした?」
「王宮より、使者がお見えです」
レイたち四人の空気も変わった。
「内容は?」
使用人は一度息を整えた。
「北部で、魔物の群れが確認されたそうです」
「……群れだと?」
カイが眉を寄せる。
「はい」
使用人は頷いた。
「これまでにない規模だと」




