帰る場所
いよいよ、バハード王国へ出発する時間となった。
ロゼリア邸の玄関前には、すでに数台の馬車が並んでいる。
荷物の積み込みも終わり、あとは乗り込むだけだった。
セシルも最後の荷物を確認し終え、アルのもとへ戻ってくる。
「お嬢様、こちらの準備はすべて整いました」
「ありがとう、セシル」
アルはそう答え、見慣れた屋敷を振り返った。
生まれ育った家。
ほんの少し前まで、ここで暮らしていた。
けれど今、自分が帰ろうとしている場所は――バハードだった。
「アル」
声に振り返る。
そこには父と母。
そしてアデルが立っていた。
「……もう行っちゃうのね」
アデルが言う。
「ええ」
「せっかく久しぶりに会えたのに」
「ごめんね」
「そこで謝るんじゃないわよ」
アデルは呆れたように言ってから、アルの後ろへ視線を向けた。
そこには、出発を待つカイたち五人の姿がある。
「……そうだわ」
アデルは何かを思い出したように、五人の前へ歩いていった。
「皆さん」
呼びかけられ、カイたちがアデルを見る。
アデルはドレスの裾を軽くつまみ、静かに頭を下げた。
「アルを助けてくださって、本当にありがとうございました」
先ほどまでの威勢のいい姿とは違う。
幼馴染を救い、遠い異国の地で支えてくれた者たちへ向けた、心からの礼だった。
「婚約を破棄されたと聞いた時は、本当に驚きました。私が知った時には、もうアルはバハードへ向かったあとでしたから」
アデルは顔を上げた。
「でも昨日、アルが皆さんと一緒にいるところを見て……今日こうして話して。大切にしてもらっていることが分かりました」
「アデル……」
アルが小さく名前を呼ぶ。
カイは少し困ったように頭を掻いた。
「俺たちが勝手にやってるだけだ。礼なんていらねえよ」
「それでも、言わせてください」
アデルは真っ直ぐ五人を見る。
「ありがとうございます。これからも、アルをよろしくお願いします」
「ああ」
カイが頷く。
レイたち四人も、それぞれその言葉を受け取った。
――と。
「それと」
アデルの視線が五人の間を動いた。
やがて、一人の男のところでぴたりと止まる。
「そこのあなた!」
「……はい?」
「超美形の長髪さん!」
一瞬、辺りが静まり返った。
レイが眼鏡の奥で瞬きをする。
「……私でしょうか」
「あなた以外に長髪はいないでしょう?」
「いや、超美形なら全員当てはまるけどな」
ユウトがニヤッと笑いながら横から口を挟む。
「自分で言う?」
ソラが呆れたように返す。
「そこは否定しろよ」
「面倒」
「ユウト、ソラ。少し黙っていてください」
レイが静かに制すると、レンが肩を揺らして笑った。
アデルは構わずレイの前へ進む。
「レイさん、だったわよね?」
「はい」
「あなたにお願いがあるの」
「何でしょうか」
アデルはちらりとアルを見る。
「たまにでいいから、アルの様子を手紙で教えてくれない?」
「私が、ですか?」
「ええ」
「アデル?」
アルも目を丸くする。
「私から手紙を書くわよ?」
「あなたの手紙だけじゃ心配なのよ」
「どういう意味?」
「アル、昔から自分のことになると『大丈夫よ』で済ませるでしょう?」
「…………」
アルは黙った。
否定できない。
「だから、第三者から見た様子も知りたいの」
「なるほど」
レイが納得したように頷く。
「承知しました。折を見て、アルヴェイン様のご様子をお知らせします」
「本当? ありがとう!」
「ただし、アルヴェイン様ご本人が知られたくないと仰ったことまで、勝手にお伝えすることはできません」
アデルは一瞬目を丸くした。
けれど、すぐに笑う。
「ええ。それでいいわ」
「では、そのように」
「よろしくね、レイさん」
「承知しました」
満足そうに頷いたアデルは、今度はアルへ向き直った。
「これで少し安心ね」
「もう。私からもちゃんと手紙を書くってば」
「はいはい」
「信じてないでしょう?」
「もちろん信じてるわよ。半分くらい」
「アデル!」
アデルが楽しそうに笑う。
「まあ、次に会うのは結婚式ね」
「ええ――」
答えかけて、アルの頬がふっと赤くなった。
「……結婚式」
改めて口にすると、急にその言葉が現実味を帯びる。
数か月後。
自分はカイと夫婦になる。
そう思った瞬間、なぜか隣にいるカイが気になった。
そっと視線を向ける。
ちょうどカイもアルを見ていた。
「…………」
「…………」
目が合った。
次の瞬間。
二人同時に視線を逸らす。
カイが口元に手を当てた。
耳がわずかに赤い。
アデルが二人を交互に見た。
「……ちょっと」
「な、なによ」
「そこで二人して照れないでくれる?」
「照れてないわよ!」
「俺も別に」
「じゃあ、なんで二人ともこっち見ないのよ」
「…………」
「…………」
「ほら」
レンが吹き出した。
ユウトも肩を震わせる。
「兄貴、耳赤いって」
「うるせえ」
「アルさんも真っ赤じゃん」
「ユウト!」
「俺まで!?」
アデルが声を上げて笑った。
「ふふっ。結婚式、楽しみにしてるわ」
「……もう」
アルは赤い頬のまま、それでも笑った。
「ちゃんと来てね」
「もちろん。あなたの花嫁姿、見逃すわけないでしょう?」
「うん」
「またね、アル」
「ええ。またね、アデル」
次に会う約束は、もうできている。
だから今度は、笑って別れられた。
アルは父と母へ向き直った。
「お父様、お母様」
二人の前へ歩み寄る。
「行ってまいります」
父は穏やかに頷いた。
「ああ。行っておいで」
その一言に、アルの胸が少しだけ詰まった。
「……はい」
母がアルの頬へそっと手を添える。
「身体には気をつけるのよ」
「はい」
「何かあったら、すぐに知らせなさい」
「分かりました」
「それから、一人で何でも抱え込まないこと」
「……はい」
母は娘の顔を見つめると、最後にふっと笑った。
「まあ、その心配はもういらないかもしれないわね」
「え?」
母の視線が、アルの後ろへ向く。
そこにはカイと四人の騎士たち。
そしてセシルがいる。
「あなたには、こんなにたくさんの人がいるもの」
アルも振り返った。
カイと目が合う。
今度は、逸らさなかった。
「……はい」
自然と笑みがこぼれた。
父がカイを呼ぶ。
「カイ君」
「はい」
カイが一歩前へ出た。
「娘を頼む」
短い言葉だった。
けれど、その声には父親としての思いが込められている。
カイも真っ直ぐ父を見る。
「任せてください」
迷いのない返事だった。
父はしばらくカイを見つめたあと、静かに頷いた。
「ああ。頼んだよ」
「はい」
セシルもロゼリア夫妻へ頭を下げる。
「旦那様、奥様。行ってまいります」
「セシル。アルをよろしく頼むよ」
「もちろんでございます」
母も微笑む。
「あなたも身体には気をつけるのよ」
「ありがとうございます、奥様」
これで、本当に出発だった。
用意された馬車は二台。
一台目には、アル、カイ、セシル、レン。
二台目には、レイ、ソラ、ユウトが乗る。
アルは馬車へ乗り込む前に、もう一度だけ屋敷を振り返った。
父と母。
アデル。
生まれ育ったロゼリア邸。
この寂しさだけはきっとずっと慣れることはないだろう。
それでも、今は前を向ける。
「アル!」
アデルが大きく手を振った。
「手紙、忘れないでよ!」
「分かってるわ!」
「絶対だからね!」
「アデルもよ!」
「分かってる!」
アルも手を振り返した。
カイが隣から手を差し出す。
「行くか」
「はい」
その手を取り、アルは馬車へ乗り込んだ。
カイ、セシル、レンも続く。
扉が閉じられ、ほどなくして馬車がゆっくりと動き始めた。
窓の向こうで、父と母、アデルの姿が少しずつ遠ざかっていく。
アルは見えなくなるまで手を振り続けた。
やがて屋敷が見えなくなる。
アルは静かに手を下ろした。
夜にはバハードへ着く予定である。
アルは座席へ身体を預ける。
「……帰るのね」
セレディア王都では、さまざまなことがあった。
レオンから思いがけない頼みを持ちかけられ、リリアが五騎士を自らの側へ引き入れようとする一幕もあった。
けれど、それだけではない。
カイと初めて人前で踊り、久しぶりにアデルとも再会できた。
嬉しかったことも、腹が立ったことも、驚いたこともある。
そのすべてを胸に残したまま、今は不思議と心が落ち着いていた。
「バハードに帰ろう」
「はい」
アルは微笑んだ。
バハードには、もう自分の居場所がある。
アルは窓の外へ目を向けた。
馬車は王都の街並みを抜け、バハードへ続く道を進んでいく。
――しばらくは、穏やかな時間が流れていた。
「……そういえばさ」
不意にレンが口を開いた。
レンは向かいの席で、アルの方を向いてにこりと笑った。
「アルさん、昨日のことって、どこまで覚えてる?」
「…………え?」
隣で、カイの眉がぴくりと動いた。
アルの胸に、朝から感じていた嫌な予感が再び蘇った。




