警戒する相手を間違えた
翌日。
王宮の大広間は、昨夜に続いて華やかな熱気に包まれていた。
王太子レオンとリリアの結婚を祝う宴、その二日目。
高い天井から吊るされた幾つものシャンデリアが、磨き上げられた床へ眩い光を落としている。
楽団が奏でる優雅な旋律。
色とりどりのドレス。
正装に身を包んだ貴族たち。
昨夜よりいくらか和やかな空気の中、あちらこちらで笑い声が上がっていた。
やがて楽団の音色が変わる。
広間の中央がゆっくりと開けた。
最初に進み出たのは、今日の主役であるレオンとリリアだった。
二人が向かい合い、手を取る。
曲が始まると同時に、レオンがリリアを導いた。
王太子夫妻の踊りを、集まった者たちが見守る。
けれど。
その二人の間には、昨夜までにはなかった、わずかなぎこちなさがあった。
昨夜の騒ぎのあと。
二人は揃って、王と王妃から厳しく叱責を受けている。
それだけではない。
レオンはその場で初めて知ったのだ。
リリアが五騎士を、自分の夜伽の相手として誘っていたことを。
「…………」
レオンは黙ったまま、リリアの手を取って踊っていた。
今日の主役は自分たちだ。
大勢の貴族が見ている。
王太子として、ここで感情を表に出すわけにはいかない。
分かっている。
分かってはいるのだが。
どうしても、昨夜聞いた話が頭から離れなかった。
リリアもまた、それを分かっているのだろう。
いつものようにレオンへ笑いかけようとして――どこか気まずそうに視線を逸らす。
そんな二人を。
アルも広間の端から、その姿を静かに眺めていた。
「…………」
不思議な気分だった。
かつてなら。
あの場所に立つのは自分なのだと思っていた。
レオンの隣で。
この国の王太子妃として。
誰より美しく、誰より正確に踊らなければならない。
そう思っていた。
けれど今。
胸の内にあるのは、悔しさでも、悲しさでもなかった。
ただ静かに、二人を見ていられる。
曲が終わった。
拍手が広間を満たす。
レオンとリリアが一礼すると、次の曲が始まった。
今度は広間にいた男女が、次々と中央へ向かう。
その頃には、五騎士の周囲にも何人もの令嬢が集まっていた。
「レイ様、もしよろしければ次の曲を……」
「お誘いは大変光栄ですが、申し訳ありません」
レイは穏やかな微笑を浮かべ、丁寧に断った。
レンも同じだった。
「ごめん。今日は遠慮しておくよ」
柔らかな物腰で断られれば、令嬢もそれ以上強くは出られない。
ソラはというと。
「踊らない」
短い。
あまりにも短い。
それでも端正な顔で言われれば、令嬢たちは頬を染めながら引き下がっていく。
ユウトもまた、困ったように笑っていた。
「悪い。俺も今日はいいや」
そんな四人から少し離れたところで。
カイはアルの前に立った。
「…………」
アルが顔を上げる。
カイは何も言わなかった。
ただ。
アルへ向かって、片手を差し出した。
「…………」
アルの瞳が、わずかに大きくなる。
昨夜の光景が頭を過った。
広間の片隅で始まった、突然のダンス練習。
何度も足を確認し。
四人からあれこれと言われながら、それでも最後まで練習を続けていたカイ。
差し出された大きな手を見つめる。
アルの頬が、ほんのりと赤くなった。
そして。
少し恥ずかしそうに微笑み、その手に自分の手を重ねた。
カイの指が、そっとアルの手を包む。
二人は並んで広間の中央へ向かった。
その姿に、周囲の視線が集まった。
「まあ……」
どこからか、令嬢の声が漏れる。
無理もなかった。
昨夜まで踊りなどほとんど経験したことのなかった男とは思えない。
カイの動きには迷いがなかった。
背筋を伸ばし、アルの歩幅に合わせて進む。
手の取り方も。
立ち位置も。
アルを導く仕草も。
どれも自然だった。
堂々とした体格。
整った顔立ち。
そして普段の豪快さとは違う、落ち着いた立ち居振る舞い。
そのすべてが合わさると、驚くほど様になっていた。
「素敵……」
一人の令嬢が思わず呟いた。
その隣でも、別の令嬢がうっとりと二人を見つめている。
そんな視線など気づいているのか、いないのか。
カイはアルしか見ていなかった。
曲が始まる。
カイの手が、アルを導く。
一歩。
そして、もう一歩。
「…………」
アルは驚いた。
足が止まるほどではない。
ただ、思わずカイの顔を見上げた。
「カイ様……」
「ん?」
「お上手ですわ」
「だろ?」
ほんの少し。
カイの口角が上がった。
得意げだった。
「…………ふふっ」
アルが笑う。
「何だよ」
「いいえ。何でもありませんわ」
「絶対なんかあるだろ」
「ありません」
そう言いながらも、アルは楽しそうだった。
カイの足運びには、もう昨夜のぎこちなさがほとんどない。
難しい技を使っているわけではない。
けれど、一度身体で覚えてしまえば強かった。
相手の動きを見て、次の動きに繋げる。
重心を移し、アルの動きに合わせる。
その一つ一つを、カイは驚くほど早く自分のものにしていた。
アルが一歩下がれば、カイが進む。
カイが導けば、アルがついていく。
やがてアルは、考えることをやめた。
次はどの足。
どこで身体を返す。
そんなことを考えなくても、自然と身体が動く。
カイがいる。
目の前に。
それだけでよかった。
「…………」
アルは、カイを見つめた。
黒い髪。
真っ直ぐな瞳。
いつも見ているはずなのに。
今夜はなぜか、ひどく格好よく見えた。
――いえ。
アルは心の中で小さく訂正する。
いつも格好いい。
ただ。
こんなふうに正装して、自分の手を取り、優雅に踊るカイを見るのは初めてだった。
つい、見惚れてしまう。
「アル?」
「!」
「どうした?」
「な、何でもありませんわ」
「そうか?」
「はい」
アルは少しだけ視線を逸らした。
頬が熱い。
けれど。
すぐに、またカイを見た。
そして笑った。
心から。
楽しそうに。
カイも笑う。
二人の周囲では、何組もの男女が踊っている。
大勢の貴族が見ている。
それでも。
二人には、そんなことはもうどうでもよかった。
少し離れた場所で。
レオンが、その姿を見ていた。
「…………」
何も言わない。
隣にはリリアがいる。
リリアもまた、アルとカイを見つめていた。
そして。
もう一人。
人々の向こうから二人を見つめる女性がいた。
アルの幼馴染、アデルだった。
幼い頃から、ずっとアルを知っている。
昔から。
王太子妃になるために学び。
努力し。
いつだってきちんとしていたアルを。
ダンスだってそうだった。
美しく。
正確に。
失敗しないように。
そんなアルを、ずっと見てきた。
けれど。
今、目の前にいるアルは。
ただ楽しそうに笑っている。
好きな人を見つめて。
その人と踊れることが嬉しいのだと。
全身で伝えるように。
アデルの表情が柔らかくなった。
「アル……変わったわね」
その声は、音楽に溶けて消えた。
少し離れたところでは、ロゼリア夫妻も娘を見ていた。
母が、そっと夫へ視線を向ける。
父も気づき、妻を見る。
二人とも何も言わなかった。
ただ。
穏やかに笑った。
やがて曲が終わる。
カイとアルが足を止めた。
アルは名残惜しそうにカイを見上げる。
「楽しかったですわ」
「ああ。俺も」
二人が広間の端へ戻ってくる。
「カイ」
真っ先に声をかけたのはレンだった。
「普通に踊れてたな」
「普通どころではありませんよ」
レイが眼鏡を押し上げる。
「昨日の状態から考えれば、上出来でしょう」
「だろ?」
まただ。
ソラが半眼になる。
「さっきから得意げだな」
「そりゃそうだろ」
「調子に乗るなよ」
「なんでだよ」
ユウトが笑う。
「まあ、あれだけ踊れりゃ調子にも乗るだろ」
「だよな?」
「乗せんな」
ソラが呆れたように言った。
アルはそのやり取りを聞きながら、口元に手を添えて笑った。
しばらく踊っていたせいか、少し喉が渇いている。
ちょうどそこへ、給仕が飲み物を運んできた。
アルはその中から一つ、グラスを取った。
淡い色の液体。
一口飲む。
「まあ……」
甘い。
果物の香りが広がる。
「この果実水、とっても美味しいですわ!」
アルの表情がぱっと明るくなった。
その声を聞きながら、四騎士は別のものを見ていた。
カイである。
「…………なんだよ」
四方向から視線を感じ、カイが眉を寄せる。
「別に」
ソラが答える。
「じゃあ見るなよ」
「カイ。それは?」
レイがカイの手元を指した。
「水」
「本当に?」
「水だよ!」
「一応確認しておこうと思いまして」
「信用なさすぎだろ!」
カイが不満そうにグラスを掲げる。
その間にも。
「美味しい……」
アルはもう一口。
さらに一口。
飲みやすかった。
甘く、香りもいい。
踊った後の乾いた喉に心地よく、するすると飲めてしまう。
気づけば、グラスの中身はほとんどなくなっていた。
「…………」
レイが、ふとアルを見た。
何か。
引っかかった。
「……果実水?」
先ほどの言葉を、もう一度口の中で繰り返す。
アルは空になったグラスを眺めている。
その頬が。
先ほどより、明らかに赤い。
「…………」
レイの視線がゆっくりと動く。
アルのグラス。
給仕が持っていた飲み物。
そして。
近くに置かれた瓶。
「……アルヴェイン様」
「はい?」
アルが振り向く。
その瞳は、いつもより少し潤んでいた。
レイの嫌な予感が確信に変わる。
「それは果実水では――」
「あっ!」
突然。
アルの顔が輝いた。
「カイ様!」
「ん?」
少し離れたところにいたカイが振り向く。
アルが歩き出した。
一歩。
二歩。
その足取りはまだしっかりしている。
だから。
誰も止めなかった。
そして次の瞬間。
ぽすっ。
「…………」
アルが。
カイの胸板へ顔を埋めた。
「…………」
カイが固まる。
レイが固まる。
レンも。
ソラも。
ユウトも。
五人の男が、揃って動かなくなった。
「…………え?」
最初に声を漏らしたのは、カイだった。
何が起こったのか分かっていない。
胸元を見る。
アルがいる。
間違いなくアルだ。
両腕を自分の身体へ回し、ぴったりとくっついている。
「…………」
カイの両手が宙に浮いた。
どこへ置けばいい。
肩か。
背中か。
いや、触っていいのか。
そもそも。
なぜ抱きつかれている。
「……アル?」
声が上擦った。
アルが胸元からゆっくりと顔を上げた。
「――っ」
カイの息が止まる。
酒のせいで、白い頬は柔らかな桃色に染まっていた。
瞳には薄く涙の膜が張ったような潤みがあり、その眼差しはいつもよりずっと柔らかい。
唇にも艶が宿っている。
その顔で。
アルは、カイを見上げていた。
「カイ様」
「……な、なんだ」
カイの顔が赤くなっていく。
頬から。
耳まで。
それでもアルは離れない。
むしろ嬉しそうに目を細めた。
「大好きです」
「…………」
カイが完全に停止した。
四騎士も、停止した。
誰も。
何も言わない。
ただ目の前で起きていることを理解しようとしていた。
普段のアルは、穏やかだった。
品があり、物腰も柔らかい。
どちらかといえばおっとりとしていて、笑う姿にも公爵令嬢らしい慎ましさがある。
時折、思い切った行動に出ることはあっても。
こんなふうに。
人前で自分からカイへ抱きつき。
潤んだ瞳で見上げ。
真正面から「大好き」などと言う姿を。
四人は一度も見たことがなかった。
「…………」
レンが瞬きをする。
ソラも何も言わない。
ユウトは目を見開いている。
レイだけが。
ゆっくりと、先ほどのグラスへ視線を向けた。
そして。
酒の入った瓶を見る。
「……なるほど」
小さな声だった。
レンがレイを見る。
「何が?」
「お酒です」
「……え?」
「アルヴェイン様が飲んでいたものです。果実水ではありません」
「…………」
四人が再びアルを見る。
アルはまだカイにくっついていた。
「ふふっ」
しかも。
ものすごく幸せそうだった。
ソラがようやく口を開く。
「……誰だよ」
レンが小さく頷いた。
「……分かる」
「普段と違いすぎるだろ」
ユウトも呆然と呟く。
その間も。
カイは動けない。
「カイ様」
「……はい」
四人の視線が、一斉にカイへ向いた。
敬語。
カイが。
アルに。
敬語を使った。
だが本人はそれどころではない。
アルは満足そうに微笑むと、もう一度カイの胸板へ頬を寄せた。
「…………っ」
カイの身体がさらに強張る。
そして。
アルの腕に、ぎゅっと力が入った。
「カイ様」
「……うん」
「一生、離してあーげないっ」
「…………」
再び。
沈黙。
華やかな音楽は、今も流れている。
広間では何組もの男女が踊り、笑い声も聞こえている。
その片隅だけ。
完全に時間が止まっていた。
やがて。
ユウトがぽつりと呟いた。
「……警戒する相手、間違えたな」
「…………」
誰も否定できなかった。




