月は見ていた
夜は深く、森は静まり返っていた。
風が木々の間を抜けるたび、ざわざわと葉が擦れ合う。
人里から遠く離れた森の奥。
かつては誰かが暮らしていたのだろう。
今では屋根の半分が崩れ、壁には大きな亀裂が走り、窓硝子すら残っていない建物がひっそりと佇んでいた。
廃墟。
そう呼ぶ以外にない場所だった。
その床に、一人の男が横たわっている。
寝台はない。
敷物も、毛布もない。
冷たい石の床に、そのまま身体を投げ出していた。
長く伸びた髪。
手入れなどされていない。
服もあちこちが擦れ、旅人というにはあまりにもみすぼらしい。
けれど、その顔にはどこか気品の名残があった。
男の名は――シド・ヴァルグレン。
「…………」
シドは、崩れた屋根の向こうを見つめていた。
夜空が見える。
雲の隙間から、月の光が差し込んでいた。
「……父上」
ぽつりと、声が落ちる。
「母上……」
返事はない。
分かっている。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
「……申し訳ありません」
目を閉じる。
途端に、あの日の光景が蘇った。
七年前。
十八歳だった弟。
そして、父と母。
自分の中で目覚めた力。
止めることができなかった。
身体の奥底から、何かが溢れ出した。
自分の意思など、何の意味もなかった。
気がついたときには――
「…………っ」
シドは眉間に皺を寄せた。
思い出したくない。
それなのに、忘れた日は一日たりともなかった。
父も。
母も。
自分の中へ消えた。
その事実だけは、七年経った今も鮮明に残っている。
「……俺が……」
声が掠れる。
「俺が、殺した……」
誰かにそう言われたわけではない。
それでも、他に何があるというのだ。
あの二人はもういない。
自分の中に取り込まれて、消えてしまった。
ならば。
殺したのは自分だ。
「…………」
シドは片腕を持ち上げ、目元を覆った。
「父上……母上……申し訳ありません」
何度口にしたか分からない。
七年間。
何度も。
何度も。
謝った。
返事などないと分かっているのに。
「…………カイ」
今度は、弟の名が零れた。
十八歳だった。
まだ十八だった。
父と母を失って。
兄までいなくなって。
ヴァルグレン家に、一人残された。
「……ごめんな」
胸の奥が締めつけられる。
「カイ……ごめんな……」
あのとき。
戻ることもできたのかもしれない。
弟にすべてを話し、罵られ、憎まれ、それでも傍にいる道があったのかもしれない。
けれど、できなかった。
怖かった。
カイの顔を見るのが。
自分が何をしたのか、弟の目を通して突きつけられるのが。
そして何より――
また暴走することが怖かった。
もし次に、この力がカイまで奪ったら。
そう考えた瞬間。
シドは逃げた。
何も言わず。
何も残さず。
ただ、遠くへ。
カイから離れた。
「…………」
それから七年。
国から国へ。
町から町へ。
人目を避けるように移動した。
一つの場所には長く留まらなかった。
誰かと親しくなることも避けた。
自分には、その資格がないと思った。
そして。
何より――怖かった。
誰かを大切に思ってしまうことが。
大切に思えば、失う。
また自分が奪ってしまうかもしれない。
ならば最初から、一人でいればいい。
「…………」
シドはゆっくりと腕を下ろした。
崩れた屋根の向こうに、月が見える。
白い月だった。
妙に明るい。
シドは目を細めた。
「……綺麗だな」
それだけ呟いて、目を逸らした。
今の自分には、似合わない。
そう思った。
◇
何度、自ら死んでしまおうと思っただろう。
もう終わりにしてしまえばいい。
そう思ったことは、一度や二度ではない。
父と母を殺した。
弟を捨てた。
生きている意味など、どこにもない。
むしろ自分のような人間は、生きていてはいけないのではないか。
そう思った。
けれど。
そのたびに――
『死んでは駄目だ! シド!』
「…………」
聞こえる。
『生きて!』
もう一つの声。
父上。
母上。
二人の声がする。
身体の中から。
「……なんでだよ」
シドは呟いた。
「なんで……止めるんだよ」
俺が殺したのに。
俺のせいで、二人とも死んだのに。
どうして。
どうして、まだ俺のことを心配するんだ。
「…………」
本当に――父と母なのだろうか。
七年間。
何度も考えた。
あの日、自分の中へ取り込まれた二人が、どこかにまだ存在しているのではないか。
そんな考えが浮かんだこともある。
けれど。
期待するたびに、シドはその可能性を自ら否定した。
「……違う」
そんな都合のいい話があるものか。
「俺が……死ぬのが怖いだけだ」
口に出すと、胸が痛んだ。
「死ぬのが怖いから……」
父と母はまだ自分の中にいる。
二人は自分を恨んでいない。
生きていていいと言ってくれている。
そう思いたいだけなのではないか。
死ぬ勇気のない自分が。
二人の存在に縋っているだけなのではないか。
「…………」
分からない。
七年経っても。
何一つ、分からない。
「……父上」
返事はない。
「母上……」
やはり返事はなかった。
「…………」
シドは身体を丸めた。
冷たい。
石床から伝わる冷気が身体を蝕んでいく。
けれど、どうでもよかった。
眠れれば、それでいい。
明日になれば、また歩く。
どこへ行くのかは決めていない。
ただ、ここではないどこかへ。
それを七年間、繰り返してきた。
「……カイ」
もう一度、弟の名を呼ぶ。
「元気で……いろよ」
瞼が重くなっていく。
「お前は……幸せになれ……」
意識が、ゆっくりと闇へ沈んでいった。
◇
笑い声が聞こえた。
「…………?」
懐かしい声だった。
シドは顔を上げる。
明るい場所だった。
どこなのかは分からない。
ただ、柔らかな光の中に、何人かの人影が見える。
その中心にいる男を見た瞬間。
シドの目が大きく見開かれた。
「……カイ?」
間違えるはずがない。
弟だった。
けれど。
シドの知るカイではない。
背が伸びている。
身体つきも、顔つきも変わっていた。
十八歳だった少年は、もういない。
そこにいたのは、一人の男だった。
「…………」
七年。
当たり前だ。
分かっていたはずなのに。
胸が詰まった。
「……大きくなったな」
届くはずもない声で、呟く。
カイは笑っていた。
昔と変わらない。
よく笑う男だった。
嬉しいときは嬉しい。
楽しいときは楽しい。
感情がそのまま顔に出る。
それは大人になっても変わっていないらしい。
「…………」
カイの近くには、四人の若者がいた。
一人は眼鏡をかけた長髪の男。
一人は親しみやすそうな雰囲気の青年。
一人はどこか冷めた表情をした、端正な顔立ちの男。
もう一人は、快活そうな青年だった。
何を話しているのかは聞こえない。
けれど。
その距離を見れば分かる。
仲間なのだろう。
カイが心を許している。
そして四人もまた、カイを信頼している。
「……そうか」
シドの口元が、わずかに緩んだ。
「仲間ができたのか」
自分がいなくなったあとも。
カイは一人ではなかった。
それだけで、胸の奥にあった何かが少し軽くなった。
そして。
もう一人。
シドは、一人の女性に気づいた。
「…………」
美しい女性だった。
カイのすぐそばにいる。
彼女は何かを言いながら、楽しそうに笑っていた。
カイも笑う。
そして女性が、カイを見上げる。
その眼差しを見た瞬間。
シドには分かった。
「……はは」
思わず、小さな笑いが漏れた。
愛おしそうに。
本当に大切なものを見るように。
その女性は、カイを見つめていた。
「なんだよ」
胸の奥が熱くなる。
「ちゃんと……いるじゃねぇか」
カイを大切にしてくれる人が。
自分がいなくても。
父と母がいなくても。
カイは生きていた。
一人ではなかった。
仲間がいる。
愛してくれる人もいる。
そして。
笑っている。
「…………」
シドは、しばらく弟を見つめていた。
七年間。
ずっと怖かった。
カイがどうなったのか。
知りたいのに、知るのが怖かった。
自分のせいで壊れていたら。
自分を恨みながら生きていたら。
そう思うと、確かめることすらできなかった。
けれど。
目の前のカイは、笑っている。
「……良かった」
シドは、静かに笑った。
涙が一筋、頬を伝った。
「幸せそうだ」
本当に。
良かった。
これでいい。
自分がいなくても、カイは幸せになれた。
ならば。
自分はもう――
『――お前はそれでいいのか?』
「…………?」
シドの表情が止まった。
聞いたことのない声だった。
父ではない。
母でもない。
「……誰だ?」
辺りを見回す。
カイたちの姿はまだそこにある。
けれど、誰もこちらを見ていない。
『弟は幸せそうだな』
「…………」
声が、どこから聞こえているのか分からない。
男の声にも聞こえる。
女の声にも聞こえる。
低くもなく、高くもない。
不思議な声だった。
「誰だって聞いてんだ」
『仲間にも恵まれた』
「…………」
『愛する者もいる』
シドの眉が寄る。
「……だからなんだ」
『嬉しいか?』
「当たり前だろ」
即答だった。
迷う理由などない。
「カイが幸せなら、それでいい」
『そうか』
「ああ」
『本当に?』
「…………」
シドの目が鋭くなる。
「何が言いたい」
声は答えない。
代わりに、カイたちの姿が少しずつ遠ざかっていく。
「……カイ?」
手を伸ばす。
届かない。
最初から届くはずなどない。
これは夢なのだから。
それでも。
遠ざかっていく弟を見ていると、胸の奥が妙にざわついた。
『あの者には仲間がいる』
「…………」
『愛する者がいる』
「分かってる」
『帰る場所もある』
「……ああ」
『では――』
声が、すぐ近くから聞こえた。
『お前は?』
「…………」
シドの手が止まった。
『シド・ヴァルグレン』
「……っ」
なぜ。
名前を知っている。
シドが振り返る。
誰もいない。
「……どこにいる」
返事はない。
「出てこい」
空気が変わった。
カイたちの姿が消えていく。
「待て!」
シドが手を伸ばす。
けれど、その指は何も掴めなかった。
光が消える。
四人の若者も。
あの女性も。
そして――カイも。
すべてが闇に呑み込まれていった。
「…………」
シドだけが残された。
何もない、暗闇の中に。
静寂。
その中で。
『お前は、それでいいのか?』
もう一度。
声が響いた。
「…………」
シドは答えなかった。
答えられなかった。
カイが幸せなら、それでいい。
それは嘘ではない。
本心だ。
弟には幸せになってほしい。
自分のことなど忘れて。
笑っていてほしい。
ずっと、そう願ってきた。
なのに。
なぜ。
胸が痛む。
「…………」
会いたい。
一瞬。
そんな言葉が浮かんだ。
「……っ」
シドは唇を噛んだ。
違う。
そんなことを思ってはいけない。
自分にそんな資格はない。
カイの前に現れて、何を言う。
父と母を殺しておいて。
お前を捨てて逃げた兄だと。
今さら、どんな顔をして会えばいい。
「……俺は」
声が掠れる。
「これでいい」
暗闇に向かって言った。
「カイが幸せなら……それでいい」
『――そうか』
声がした。
近い。
今度は、すぐ目の前から。
シドが顔を上げる。
「…………!」
闇の中に。
誰かがいた。
いつからそこにいたのか分からない。
音もなく。
気配すらなく。
ただ、そこに立っていた。
「……誰だ、お前」
ゆっくりと、その者が歩き出す。
一歩。
また一歩。
闇の中から姿が現れる。
シドは目を見開いた。
男――なのだろうか。
それとも、女なのか。
分からなかった。
すらりとした身体。
長い髪が、淡い光を受けて銀色に輝いている。
肌は透き通るように白い。
整いすぎているほど整った顔立ちは、男とも女とも言い切れない。
ただ。
息を呑むほど、美しかった。
人間離れした美しさ。
見てはいけないものを見ているような。
それでも、目を逸らせない。
そんな奇妙な感覚に襲われる。
「…………」
その者は、シドの前で足を止めた。
ゆっくりと。
その唇が笑みを形作る。
「やっと、話ができる」
「……何?」
シドが眉を寄せる。
「お前……誰だ」
その者は答えない。
ただ静かに、シドを見つめている。
まるで――
ずっと前から。
シドという人間を知っていたかのように。
「…………」
その眼差しに、シドの背筋が冷えた。
そして。
現実の廃墟では。
眠るシドの遥か頭上。
崩れ落ちた屋根の向こうで――
白い月が、静かに輝いていた。




