よく頑張ったな
「では、そこからお話しいたしましょうか」
レイはそう言うと、アルヴェインに向き直った。
「我々が、なぜこの国へ来たのかも含めて」
「お願いいたします」
ようやく話がまともな方向へ進みそうだ。
アルヴェインは、ほんの少しだけ安堵した。
目の前の男――カイは、出会って数分で求婚してくる。
その仲間たちは、そんな彼を止めるどころか、半ば慣れているように見える。
正直に言えば、全員まとめて不審者と言われても納得できる状況だった。
「私たちは、北方の国バハードから参りました」
レイが静かに告げる。
バハード。
その名を聞いた瞬間、アルヴェインの中に十二年間叩き込まれてきた知識が浮かび上がった。
大陸北部に位置する国。
長い冬と深い雪に覆われ、国土の多くが寒冷地に属している。
鉱物資源には恵まれているものの、農耕に適した土地は少なく、食料の多くを他国との交易に頼っている。
そして――
「現在、ユニリスとの国境問題を抱えている国……ですね」
レイの眉が、わずかに上がった。
「ご存じでしたか」
「王太子妃教育の一環で、周辺諸国については一通り」
そう答えてから、アルヴェインは口を閉じた。
王太子妃教育。
もう必要のないもの。
先ほどまで、自分の未来そのものだった言葉が、ひどく遠いものに感じられた。
「なるほど」
レイはそれ以上触れなかった。
その気遣いが、今はありがたい。
「今回、我々がこちらへ来たのは、国王陛下との会談のためです」
「国王陛下と?」
「ええ。交易について、少々」
アルヴェインは考える。
バハードは食料自給率が低い。
もし交易条件を改善するための会談だとすれば、国にとってかなり重要な交渉のはずだ。
その使節団に加わっているということは――。
アルヴェインは改めて五人を見た。
「……皆様は、バハード王国の使節団の方なのですね」
「まあ、そんなところです」
レイは微笑んだ。
妙な言い方だった。
何かを隠している。
そう感じたが、初対面の相手に問い詰めるほどアルヴェインも無作法ではない。
少なくとも。
彼らが、どこの誰とも分からない不審者ではないことだけは分かった。
一人を除いて。
アルヴェインは、ちらりとカイを見る。
「なんだ?」
「いえ」
やはり、この男だけはよく分からない。
「それで」
レイが笑顔のまま、カイを見る。
「カイ」
「ん?」
「ご自身の説明は?」
「したぞ」
「名前だけでしょう」
「名前分かれば十分だろ」
「求婚する相手に対しては、まったく十分ではありません」
正論だった。
「そういうもんか?」
「そういうものです」
「面倒くせえな」
「面倒くさいで済ませないでくださいませ」
思わず口を挟んでしまった。
カイがこちらを見る。
そして、にっと笑った。
「ほら。また普通に喋った」
「…………」
しまった。
「そっちの方がいいな」
「何がです?」
「お前」
あまりにも迷いなく言われて、アルヴェインは一瞬返事に詰まった。
「……そういうことを、女性に簡単におっしゃるものではありません」
「なんで?」
「誤解を招きます」
「別にいいだろ」
「よくありません」
「俺、お前のこと気に入ってるし」
「そういうところです!」
後ろで、ユウトが吹き出した。
レンは口元を押さえている。
ソラは完全に呆れた顔をしていた。
レイだけが穏やかに微笑んでいる。
ただし、目は笑っていない。
「カイ」
「なんだよ」
「少し黙りましょうか」
「なんでだよ」
「話が進みません」
「……はい」
この人、レイには少し弱いのかもしれない。
アルヴェインは、今日初めて役に立つ情報を得た気がした。
「とにかく」
レイは咳払いをした。
「我々の身元については、明日改めて正式にご説明いたします」
「明日?」
アルヴェインは首を傾げた。
「ええ。今夜はもう遅いですから」
言われて、初めて空を見上げる。
いつの間にか、夜はすっかり深くなっていた。
王宮の窓から漏れる光が、遠く庭園を照らしている。
そうだ。
帰らなければ。
父と母にも、今日のことを説明しなくてはならない。
婚約を破棄されたこと。
これからのこと。
――これから。
胸の奥が、また少しだけ重くなる。
それでも、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
「そうですわね」
アルヴェインは背筋を伸ばした。
「私も、そろそろ失礼いたします」
「送る」
すぐにカイが言った。
「結構です」
「即答だな」
「馬車がございますので」
「じゃあ馬車まで」
「すぐそこです」
「そこまで送る」
「なぜです?」
「送りたいから」
「…………」
この男と話していると、ひどく疲れる。
「カイ」
レイが再び名前を呼んだ。
「ご令嬢を困らせてはいけませんよ」
「困ってねえだろ?」
「困っております」
「困ってた」
レンまで静かに加勢する。
「顔に出てる」
ソラがとどめを刺した。
「……分かったよ」
カイは不満そうに頭をかいた。
「じゃあ、ここで見送る」
「ありがとうございます」
アルヴェインは小さく息を吐いた。
そして、五人へ向き直る。
「それでは皆様。本日は――」
一歩。
足を踏み出した、そのときだった。
「おい」
カイの声がした。
「はい?」
「お前、それ」
彼の視線が下を向いている。
アルヴェインも、つられて自分の足元を見た。
「……?」
「足」
「足?」
ドレスの裾から覗く靴。
何がおかしいのだろう。
カイが眉を寄せた。
「血、出てるぞ」
「…………え?」
アルヴェインは瞬きをした。
言われて初めて、靴の踵を見る。
白い靴の縁が、赤く染まっていた。
ほんの少しではない。
靴擦れを起こした踵から流れた血が、薄い絹地にまで滲んでいる。
「まあ……」
他人事のような声が出た。
「気づかなかったのか?」
「……ええ」
不思議だった。
本当に、何も感じていなかった。
いつからだろう。
舞踏会の最中だろうか。
それとも、王宮を出てからだろうか。
分からない。
けれど。
血を見た、その瞬間。
「……っ」
ずきん。
突然、踵が痛んだ。
「……痛」
一度認識してしまうと、もう駄目だった。
ずき、ずきと脈打つような痛みが、足元から這い上がってくる。
「大丈夫か?」
カイが一歩近づく。
「ええ。もちろんです」
反射的に答えた。
大丈夫。
この程度。
王太子妃になる者が、靴擦れ程度で騒いではならない。
体調が悪くても、笑顔を絶やしてはならない。
疲れていても、姿勢を崩してはならない。
何があっても、取り乱してはならない。
そう教えられてきた。
十二年間。
「……大丈夫ですわ」
もう一度、言った。
けれど。
声が、少し遠く聞こえた。
「アルヴェイン?」
レイの声がする。
おかしい。
急に身体が重い。
踵が痛い。
頭も痛い。
胸が苦しい。
息がうまく吸えない。
寒い。
そういえば。
今日は朝から、ほとんど何も食べていなかった。
夜会の前は、ドレスの形が崩れないよう食事を控えていた。
夜会では、レオン殿下の隣に立つ予定だったから。
最高の状態でいなければならなかった。
未来の王太子妃として。
そうだ。
私は。
今日までずっと。
「おい」
カイの声が、急に近くなった。
「顔、真っ青だぞ」
「そんな……こと……」
ない。
そう言おうとした。
けれど、言葉にならなかった。
視界が揺れる。
王宮の灯りが滲んだ。
足元から、力が抜けた。
「アルヴェイン!」
地面が迫るより先に、身体が強い腕に抱き止められた。
「おい、しっかりしろ!」
近くでカイの声がする。
「レン、水!」
「うん!」
「ユウト、馬車を!」
「分かった!」
「カイ、横にしてください。無理に立たせないで」
レイの声。
「分かってる!」
何かが慌ただしく動いている。
自分のことなのに。
ずいぶん遠くで起きていることのようだった。
「……だい、じょうぶ……です」
ようやく出た言葉は、それだった。
カイの腕の中で、アルヴェインはかすかに笑おうとした。
「……少し、休めば……」
「どこがだよ」
低い声だった。
怒っているようにも聞こえた。
「足から血出して、顔真っ青にして、ぶっ倒れて」
「でも……」
「大丈夫な奴は倒れねえよ」
言い返せなかった。
こんなことで。
こんな場所で。
初対面の人たちに迷惑をかけて。
王太子妃になるはずだった人間が。
こんな。
「……ごめん、なさい……」
カイの顔が、一瞬止まった。
「謝んな」
「でも……」
「いいから」
頭に、大きな手が触れた。
驚くほど、優しい手だった。
そして。
「よく頑張ったな」
その一言が。
なぜか。
今まで聞いたどんな言葉よりも、深く胸に落ちた。
頑張ることなど、当たり前だった。
できて当然。
知っていて当然。
笑えて当然。
耐えて当然。
未来の王太子妃なのだから。
褒められるためにしてきたことではない。
誰かに認めてもらうためでもない。
それが自分の役目だった。
だから。
そんな言葉をかけられる理由など、ないはずなのに。
「…………」
視界が滲んだ。
どうしてだろう。
痛いのは、踵のはずなのに。
胸の奥が。
ひどく、痛かった。
「……わたくし……」
声が震えた。
けれど、その先が出てこない。
「もういい」
カイの声が聞こえる。
「今は寝ろ」
頭を支えている手が、温かい。
胸の奥で、何かがほどけた。
十二年間、一度もほどけることのなかった何かが。
アルヴェインは、ゆっくりと目を閉じた。
最後に見えたのは。
心配そうに自分を覗き込む、透き通った瞳だった。
その瞳が。
なぜだか少しだけ、安心できた。
そして。
アルヴェインの意識は、静かに闇へ沈んでいった。




