では、これから知ればいい
「お嬢さん、俺の嫁にならないか?」
「…………はい?」
聞き間違いだろうか。
そう思って、アルヴェインは目の前の男性を見つめた。
けれど彼は、至って真面目な顔をしている。
夜会の喧騒が遠くに聞こえる。
初夏の夜風が頬を撫でる。馬車の前で待機していた御者が、なんとも言えない顔でこちらを見ていた。
アルヴェインは一度、ゆっくりと瞬きをする。
「……申し訳ございません。もう一度おっしゃっていただけますか?」
「俺の嫁にならないか?」
同じだった。
一言一句、同じだった。
どうやら聞き間違いではないらしい。
「…………」
どうしましょう。
つい先ほどまで、アルヴェインは王太子レオンの婚約者だった。
そして大勢の貴族たちが見守る中、その婚約を破棄された。
ようやく会場を抜け出し、これから公爵家へ帰ろうとしていた。
なのに、どうして。
婚約を破棄されてから一時間も経たないうちに、突然別の男性から求婚されているのだろう。
しかも――。
「……失礼ですが」
「ん?」
「どちら様でしょうか?」
男性が固まった。
ほんの一瞬だった。
「あ」
男はようやく気づいたらしい。
「そういや、名乗ってなかったな」
思わず額を押さえそうになった。
――求婚より先に名乗ってくださいませ。
「カイだ」
「……カイ様」
「様はいらねえよ」
「では、カイさん」
「さんもいらねえ」
「…………カイ」
「おう」
満足そうに笑った。
――何なの、この人。
「それで?」
「え?」
「嫁」
「…そのお話は一度横に置かせてくださいませ」
「なんでだ?」
なんでだ、ではありません。
「私たちは今、初めて言葉を交わしたばかりです」
「そうだな」
「私はあなたのお名前以外、何も存じません」
「そうだな」
「そしてあなたも、私のことを何もご存じないでしょう?」
「アルヴェイン・ロゼリア。ロゼリア公爵家の令嬢。二十二歳。ついさっき王太子に婚約破棄された」
「最後の情報は必要ですか?」
「一番新しい情報だろ?」
「鮮度で選ばないでくださいませ!」
しまった。
思わず声が大きくなった。
アルヴェインは慌てて口元に手を当てる。
公爵令嬢たるもの、人前で声を荒らげるなど――。
「ははっ!」
目の前で、カイが笑った。
「……何がおかしいのです?」
「いや。やっと普通に喋ったなと思って」
「普通?」
「さっきまでずっと、こう……」
カイは背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばし、顎を少し引いた。
そして妙に澄ました声を出す。
「『承知いたしました』『ごきげんよう』」
ーー私の真似よね?
似ている。
腹立たしいくらい似ている。
「見ていたのですか?」
「見てた。二階から」
「二階……?」
そういえば、あの会場には二階の回廊があった。
まさか、そこから一部始終を?
「趣味がよろしくありませんわ」
「あんなど真ん中だったからなぁ。見るなっていう方が無理だろ。」
ーーそれは、そうですわね。
王宮の広間という場所で、この国の王太子が婚約破棄を宣言したのだ。
「でも面白かった。」
「人の婚約破棄を面白がらないでいただけます?」
「そっちじゃねえよ」
カイの声が少し変わった。
ーーどういう意味?
アルヴェインは彼を見る。
先ほどまで笑っていた瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「お前が面白かった」
「私?」
「ああ」
「どのあたりが?」
「全部」
――ずいぶん雑ですわね。
そう言いかけた、そのときだった。
「――カイ!」
遠くから声が飛んできた。
アルヴェインはカイの後ろに目をやる。すると、王宮の正面扉から四人の男性がこちらへ向かってくるのが見えた。
先頭を歩く赤髪の青年が、カイを見るなり声を上げた。
「兄貴、急に消えるなよ!」
呆れたような、でも本当には怒ってはいないような言い方だった。
その隣で、青みがかった黒髪の青年がアルヴェインとカイを交互に見る。
「間に合った?」
「何にだよ」
「カイが何をするのか見るのに」
「見世物じゃねえぞ」
「十分見世物」
黒髪に紫の瞳の青年が淡々と言った。
「ソラ、お前な」
カイが眉をひそめる。
銀髪の男――レイが、アルヴェインへ視線を向けた。
「それで、何をお話しされたのです?」
「ああ」
カイはあっさり答えた。
「求婚した」
四人の足が止まった。
「……は?」
最初に声を上げたのはユウトだった。
レンが瞬きをする。
「もう?」
「もうって何だよ」
「声をかけるとは思ってたけど。そこまで行くとは思わなかった」
「同感」
ソラが短く続けた。
「順番がおかしい」
レイはしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。
「カイ。確認しますが、こちらのご令嬢とお話しされたのは今が初めてですね?」
「ああ」
「名前を伺ったのも?」
「さっき」
「なるほど」
レイは微笑んだ。
「想像以上でした」
「何が?」
「あなたの行動力です」
「褒めてる?」
「いいえ」
ユウトが吹き出す。
「兄貴、さすがに早すぎるだろ!」
「そうか?」
アルヴェインは四人の反応を見比べた。
どうやら。
この人が少し変わっているという認識だけは、全員一致しているらしい。
「申し遅れました」
レイが一歩前へ出る。
「レイと申します。こちらがレン、ソラ、ユウトです」
レンが軽く会釈した。
「よろしく、アルヴェインさん」
「ソラ」
「俺はユウト。よろしくな」
「アルヴェイン・ロゼリアと申します」
アルヴェインも礼を返した。
顔を上げると、四人の視線が再びカイへ集まっている。
「で、返事は?」
ソラが口を開いた。
「まだ」
「ほぼお断りしております」
アルヴェインがすぐに訂正する。
「ほぼだろ?」
「そこに希望を見いださないでくださいませ」
「ゼロじゃねえじゃん」
「カイ」
レンが静かに口を挟んだ。
「困らせてる」
「……そう見えるか?」
「かなり」
カイはアルヴェインを見る。
「困ってる?」
「大変困っております」
「悪い」
あまりにも素直に謝られて、アルヴェインは少しだけ拍子抜けした。
「じゃあ、嫁の話はいったんやめる」
「いったん?」
「いったん」
――永久にでも構いませんけれど。
アルヴェインは、それを口に出すのだけはやめておいた。
「で」
カイが続ける。
「これからどうすんだ?」
「……これから?」
「帰るのか?」
「もちろんです」
アルヴェインは、公爵家の紋章が入った馬車へ目を向けた。
「一度、屋敷へ戻ります。父と母にも説明しなければなりませんし」
「その後は?」
「その後……」
「明日は?」
「……」
「来週は?来月は?」
答えが出てこなかった。
先ほどまでなら、答えられた。
慈善事業の打ち合わせ、孤児院への訪問、他にも重要行事や晩餐会への参加など。
予定は、一年先まで決まっていた。
王太子妃になるために必要なこと。
王家の一員になるため、学ぶべきこと。
十二年間。
アルヴェインは、それを一つずつ覚えてきた。
けれど。
その予定はもう、どれ一つとしてアルヴェインのものではない。
「……分かりません」
自分でも驚くほど小さな声だった。
カイが首を傾げる。
「何が?」
「これから何をするのか」
言葉にしてしまった途端、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。
「私は十歳の頃から、王太子妃になるものだと思って生きてきました」
誰に言うつもりでもなかった。
けれど、不思議と言葉が止まらない。
「何を学ぶべきか。どこへ行くべきか。誰と会うべきか。どのように振る舞うべきか」
全部、決まっていた。
「それがなくなっただけです」
自由になった。
そのはずなのに。
「でしたら、これから新しい予定を決めればいいだけですわ」
いつものように笑おうとした。
けれど。
「誰が?」
アルヴェインは瞬きをする。
「……え?」
「その新しい予定、誰が決めるんだ?」
「それは……」
父だろうか。
母だろうか。
公爵家だろうか。
新しい婚約者が決まれば、その人だろうか。
そう考えて――。
何かがおかしいことに気づいた。
「お前は?」
「私……?」
「アルヴェインは、何がしたい?」
その質問に。
アルヴェインは何も答えられなかった。
好きな場所は?
好きな食べ物は?
行ってみたい場所は?
何をしているときが楽しい?
これから、どう生きたい?
分からない。
何一つ。
王太子妃として何をすべきかなら、いくらでも答えられるのに。
アルヴェイン・ロゼリアという、一人の人間が何をしたいのかと聞かれると――。
「……分かりません」
風が吹いた。
ドレスの裾が、微かに揺れる。
「私が何をしたいのか……分からないのです」
情けない。
二十二歳にもなって。
そんなことすら分からないなんて。
きっと呆れられる。
そう思った。
けれど。
「そっか」
返ってきたのは、それだけだった。
アルヴェインは顔を上げる。
カイは笑っていなかった。
馬鹿にもしていない。
憐れんでもいない。
ただ、アルヴェインを見ていた。
「なら、これから探せばいいだろ」
「……探す?」
「ああ」
あまりにも簡単に言うものだから、アルヴェインは思わず聞き返した。
「そんなことで、よろしいのでしょうか」
「いいんだよ。」
「二十二歳にもなって、自分が何をしたいのかも分からないのですよ?」
「じゃあ二十三になるまでに一個見つけりゃいい」
「…………」
「見つからなきゃ、二十四まで探せばいい」
あまりにも適当だ。なのに。
なぜだろう。
十二年間、誰からも言われたことのない言葉だった。
「それに」
カイが笑う。
「一人で分かんねえなら――」
そして、アルヴェインの前に手を差し出した。
「一緒に探しに行くか?」
大きな手だった。
アルヴェインは、その手を見つめる。
この手を取れば。
きっと今までとは違う場所へ行くことになる。
そんな気がした。
けれど。
アルヴェインは、この男の名前しか知らない。
つい先ほど会ったばかり。
しかも最初の会話が求婚。
普通なら、絶対について行ってはいけない人物である。
「……一つ、よろしいでしょうか」
「おう」
「カイ」
アルヴェインは差し出された手を指さした。
「まず、あなたが何者なのか、そこから説明していただけます?」
カイが固まった。
後ろでソラがぼそりと言った。
「正論」
レンも頷く。
「うん」
ユウトが吹き出した。
「ははっ! そりゃそうだ!」
そしてレイだけが、どこか楽しそうに眼鏡を押し上げる。
「では、そこからお話しいたしましょうか」
アルヴェインは、嫌な予感がした。
「我々が、なぜこの国へ来たのかも含めて」
――どうやら。
アルヴェインの長い夜は、まだ終わってくれないらしい。




